緋に咲く青2
陽に透けた黒髪をぼーっと眺めていたら、きつい三白眼の目元がこちらへ向き、慌てて目を逸らした。
気にかかったらしく、どうした、と温かいペットボトルの紅茶をこちらへ渡しながら海藤が聞いてくる。
「な、なんでもない」
「あっそ」
見惚れていたなんて言えるわけが無かった。
こんな公衆の面前で、いや、公衆の面前じゃなくてもきっと言えやしないのだけど。
ここがどこかと言えば、水族館のイルカショーの座席で、私達は何回めかのデートを遂行していた。
まるで少女漫画みたいに定番なデートコースに浮き立って、緊張し過ぎて、ほぼ魚より海藤を意識していたけど、彼の方はそれなりに施設を楽しんでいるようだった。
「あっ、すごい、飛んだ!」
「飛んだな」
「すごいな〜。可愛い」
二匹のイルカが息を合わせて水上を飛び上がる様子は壮観だった。思わずかわいいを連呼して見入っていたら、「このあとどうする?」と不意打ちで聞かれて、私は「え?」と振り返った。
「どうするって……」
イルカショーをじっと眺めたままの精悍な横顔を眺めて、私は途方に暮れた。
久しぶりに帰りが早くなって、海藤も部活が休みで、学校帰りの制服デートだったから、もう一緒にいられる時間は少ない。帰るばかりだと思っていた。
「前に言ってた、あんたの要望ってさ、あれだけ?」
「え?」
「あれ以来なんも聞こえてこねーけど」
たくましく鍛え上げられた太腿に肘をついて、海藤は下から睨むようにそんなことを言ってきた。
イルカショーは盛り上がりの佳境を迎えていて、まわりの歓声はますます大きくなっている。そんな賑やかさから置いてきぼりにされたように、私達の周りには緊張感が漂っていた。
(してほしいことなんて、本当は無いんだけどな)
奢ってもらった紅茶を、両手で包むように膝の上でぎゅっと握る。なんと答えたら良いか分からなかった。
そもそもこの前のアレは私の不審な態度を誤魔化すための方便だったので、普段なら海藤と一緒にいるだけでも充分な私にとって過ぎた要望だったのだ。
「まあ、今だって俺の提案でこんなとこ来て、あんたほんとに楽しいのかって気になっただけだから、深く考えんなよ」
「あ……うん。ごめん」
「別に謝んなくてもいーけど」
緊張感を嫌ったのか、海藤がそんな風にフォローした。呆れたような声音だったけど、そこで私はようやく言われたことの意味を飲み込んで、はっ、と聞き返していた。
「もしかして、私、楽しんでるように見えなかった?」
その瞬間、いつも冷静な三白眼が見開かれ、それが新鮮で嬉しくなったのはここだけの秘密だ。
「……楽しんでたのか?」
「うん……」
すると海藤は手で顔を覆って「分かりづれー」と呻いた。それを聞いて、やはり私達の間には解決しようもない齟齬が立ちはだかっているのかと不安になる。
気を張っていないと、この人は私が楽しんでいないのではといつでも疑ってくるようだ。自分の海藤への態度の不自然さを、あらためて再認識させられた気がした。
「あんたって、いつもそんななの?……んなわけねーよな。友達といるときは普通だし」
「そりゃ、友達は……」
友達に緊張なんかするわけないから、いつもと違う自分が出てしまうことには言い訳できない。知らないかもしれないが(知らなくて当たり前だけど)、私は目の前のこの海藤久成という男が好きなのだ。
「あーはいはい、そうだよな、ニセの彼氏なんか素の自分出すまでもないってことだろ。あんたは俺に償ってもらえりゃそれでいーんだしな」
「そんな、別にワザとってわけじゃ、」
「知ってるよ。文句の一つくらい言わせろっての」
チッと舌打ちする音が聞こえてきて、海藤は不機嫌オーラを隠しもせず乱暴に座り直した。私は彼をそこまで怒らせるほどの何を言ってしまったんだろうと、それ以上言葉が出なくなってしまった。さっきまであんなに幸せだと思っていた気分が気まずい雰囲気に呑まれ、一気に地底へ叩きつけられる。
そろそろ終盤を迎えるイルカショーを楽しくも無さそうに眺める海藤の横顔を、私は盗むように目の端で捉えて、苛烈に燃える瞳を見つめた。
(でも、もしかしたら、この方がいいのかもしれない)
不安を煽る焦燥がある一方で、どこか安堵も否めないようなこの感じには、覚えがある。
幸せの終わりへの恐怖を考えるより、絶対的な安寧を求める「逃避」だ。
海藤が私に対して怒りを見せているのであれば、自分の気持ちを抑えつける必要もなくなる。
(嬉しくなったり喜んだりするたび、好きになる気持ちをセーブしたり、失う怖さを考えなくていいもの)
非道い人間。
自分の精神力が摩耗することより、海藤を振り回すことを優先してる。
それは責任を負ったりリスクを引き受けなくても済む、とてもラクな道だからだ。
こうなると、海藤が彼女持ちなのはむしろ救いだったのかもしれないとすら思えてくる。こんな非道い人間に振り回されても、彼には帰るべき場所があって、傷を癒す人がいるのだ。
(まだ続けるなら、彼の償いを満たさなくちゃいけない)
気持ちを抑えながらそれを実行することはきっと難しいだろう。けれど私なんかに償いをするといった彼へ、たくさんの免罪符を渡すことこそが私なりの償いになるはずだ。
いつか終わるそのときまで、私は嫌でもこの関係を進ませていかなければならない。
そうすれば、胸に咲いた小さな芽を摘むことだけは、どうにか許してもらえるような気がしたから。
*
水族館からの帰り道、私はさっそく海藤に要求を提案した。このくらいなら多分嫌がられはしないだろうという範囲の、私なりに考えた提案だ。
「手?」
「そう、手を、繋ぎたいなと思って」
海藤は自分の手を目前まで持ってきて胡乱な目つきで見ると、こともなげに言った。
「繋げばいーじゃん」
「あ、はい……」
自分もこの分野じゃ大概だと思っているが、実は彼も相当なもんじゃないかしらとこの時になって気づいた。情緒というものがまったく感じられない。
そりゃ、経験豊富そうな海藤にとってはABCの内にも入らない行為なのかもしれないけど、小学校低学年ならまだしも、思春期真っ只中の高校生が手をつなぐというのは中々難易度が高いと思うのだ。
悶々と考える私をよそに、海藤は「はい」と、なんのてらいも無く手を差し出してきた。私は、自分で言い出したにも関わらず、怖々とその手を取る。
よく日に焼けたごつごつした手は、ふんわり握ってきゅっと包み込んでくれた。
「……歩くか」
顔を逸らしながら言った海藤に「うん」と答え、私達は歩き出す。いつもと同じ寒風吹きさらす川沿いだったけど、上滑りするようなお決まりの会話はなく、海藤は珍しく饒舌な口を引き結んで黙々と歩いていた。
繋いだ手から伝わる体温が、気まずげな雰囲気に陥りそうになる空気を和らげている。私にとってはこの沈黙はとても心地よいものだった。
そりゃ、胸の中は緊張感でばくばくで、きっと顔も真っ赤だろうけど、喜びの方が打ち勝っている。
けれど、やっぱりお決まりの落胆はすぐ襲ってきて、その喜びにブレーキをかけた。
(海藤、もしかして嫌なのかな……)
なぜかそっぽを向いたままの海藤の横顔をそっと見上げると不安にならずにはいられない。思わず口に出して聞いていた。
「海藤くんは……その、嫌じゃない?」
「……俺が嫌かどうかなんて気にする必要ないだろ、あんたは」
その答えだけでは海藤が嫌なのか判断することはできなかった。
それを気にすること自体、償いの上で成り立つ関係には不必要だと言いたいのだろうか。
「余計なこと考えんなよ」
「えっ?」
私の心を読んだかのような絶妙なタイミングで海藤が言うので、どくんと心臓が跳ねた。
「付き合うヤツがいいって言ってんだから、素直に乗っときゃいーんだよ。彼女ってのはそういうもんだ」
「本当?」
「……多分な」
けれどやはり、償いの上でだって相手が嫌がることはしたくない。私は根っからSっ気なんてなくて、相手には喜んでもらいたいと思っている。
けれど相手からしたらそれも思い上がりなのかもしれない。この関係は償いというお金で成り立つホストみたいなもので、割り切るべきだと私に警告しているのか。
「けど、」
「え?」
「俺が嫌かどうかそんなに気になるなら、教えてやろうか?ほんとにヤなこと」
「う……」
ニヤっと笑ってこちらを見下ろす海藤に、私は思わず呻いていた。
しまった、地雷を踏んでしまった。
自分で聞いておきながら本当のところを知る勇気なんて到底なかったと言うのに。
「ほら見ろ、知りたくねーんだろ」
「う、うん……」
でも海藤はすんなり引き下がって、怯える私に呆れたように目を細め、笑った。
「誰だってそんなもんだ。だから気にしねーで、付き合うって言うヤツがいたらとことんコキ使ってやりゃいいんだよ。そりゃ、あれもこれもって延々言われたらウザってえけど、あんたはそんくらいで丁度いいっつーか、そうじゃなきゃ何したらいいか分かんねえし」
またそっぽを向いてそんな風に諭す海藤は、私の胸を苦しくなるくらい掴んで、知らずの内に掬い上げてしまった。
卑怯だ、と思う。
セーブしようと努力するこちらを嘲笑うかのように彼は、次々と彼自身の魅力を打ち立ててくる。
振り解けずに握ったままの手は熱く、お互い素手なので汗が浮き出たりしないか心配になった。平気な素振りで隣を歩く海藤がなんだか憎らしくなってくる。
振り回すと彼は私を言うけれど、本当に翻弄されているのはきっと私の方なのだ。
「ってか、あんたさ、」
「?」
「ほんとに俺が、嫌々こんなことに付き合う人間だって思ってんの?」
突然強く握り返されて、痛いくらいだった。
質問の意図がよくわからない。
答えなら絶対的に是で、そうでなければなんだというのだと思ったけれど、見つめる瞳の中で燃え盛る怪しげな火が、口に出そうとする言葉を押しとどめてしまう。
だって海藤は、ただ償いたいと言って私の提案に乗ったんだし、彼には本命の彼女らしき人だっている。伊達や酔狂で付き合ってくれてるようには見えなかったし、これまでこちらが意外に思うくらい真摯に、もっといえば、禁欲的なまでに私の意見を優先してくれていたのだ。
彼の過去を知る私の分析から、本質はそうでないことをなんとなく感じ取っているから、その優しさは全て償いという名前に置き換えているのだと思っていた。
彼はもしかして、もっと他に真相を隠しているとでも言いたいのだろうか。
不安を感じて一歩後ずさると、怖いくらい強い視線で見つめていた瞳を、海藤はすぐに逸らした。ついでに痛いくらい握られていた手の握力も、ふわっと和らぐ。
「……別に、脅してるわけじゃねーんだよ」
「え……」
「素直に信じてっからさ、いつまでたっても。もし俺があんたに言い寄る目的で償うとか言い出してんなら、どーすんのかって思って」
「なんだ、そんなこと」
彼が言いたいことがようやく分かったけど、そうやって聞いてくることこそ、海藤がこちらを探るためのミスリードでしかない証拠だ。
「『そんなこと』か?騙されてるかもとか考えないの」
「だって、……前から思ってたけど、海藤くんが私にこんなことする理由、他に思いつかないもん」
「は?」
「本貸してって言ったり、償いたいって謝ってくれたり、私の言うことにいちいち付き合って、色々合わせてくれたり。そんな回りくどいことまでして他に目的があるとは思えないし……本当はきっと、もっと別の人を優先させたいんだろうなって、それくらいは、海藤くんとあんまり接してこなかった私だって分かるから」
もちろん、中学の時みたいに、何かを手酷く裏切るための罠かもしれないと考えたこともあった。けれどそれなら彼が「償い」なんて称して付き合ってくれる必要はないわけだし、私を貶めるためのもっと簡単な方法ならたくさんあるはずだった。それに、海藤は私が知らないって思ってるだろうけど、本命の彼女らしき人がいることはとっくに了承済みだ。
その上で騙されてもいいと思える程度に海藤を好きで、こちらとしては「付き合ってもらっている」という認識なんだから、言動に疑いを覚える動機も何もない。
「……あんたって、つくづくお人好しっつーかなんつーか……そのうち誘拐されたり詐欺にカモられそうな奴だよな」
はああ、と白い息を吐きかけながら海藤は言った。きっと呆れ返ってるんだろう。
「え、そ、そうかな」
「俺があんたの立場なら一生許さねえしコキ使いまくるし何言ってんだこのカスぐらいには思うからな。……まあ、本当のとこはどうだか知らねーけどさ」
「うん、……そうだよ。買いかぶりすぎ。海藤くんだって私に騙されてるかもしれないんだから」
「そっか。……そう、だな」
「うん。お互い様だよ」
そう言って笑ったら、海藤は私の正面に回って、唐突に顔を近づけてきた。驚いて、つい顔を背けたら「あんたにキスしたいって言ったら、嫌か?」と素早く聞かれて、固まってしまう。
いつの間にか、繋いでいない方の手は頬に添えられて、ひんやりとした体温がふるっと体を震わせた。
「え……あ、の」
そんなことに答えられるわけがない、恥ずかしさで死ねる。
「まさか、俺が嫌かどうか、この後に及んで考えてんの」
「違……ど、どう答えたらいいか、分かんなくて……」
「なら『いい』ってこと?」
「え、いや、その」
というかそんなこと聞かないで欲しいし、というかなんでいきなりキスしたくなったのか分からない、そんなにキスが好きなのこの人?
「いーか?するけど」
「か、海藤くんが、ヤじゃないなら」
思わず口にしてしまって、失言だったと気づいた時にはすでに唇を奪われていた。
あっという間だった。
「……一つ教えとく。あんたと違ってさ、自分がヤなことなんかしねぇ人間なんだよ、俺は」
降ってきた言葉は甘く、どこか楽しげにも聞こえた。逸らしがちの視線をそっと合わせると、やっぱり呆れたように笑う顔があって、私はどうしようもなく陥落していく精神に溺れ切って、今度は自分からそっと冷たい頬に口付けたのだった。
(本当はもう、何もかも手遅れなのかもしれない)
感情をセーブしようだなんて、馬鹿げていた。
(騙されても関係ないって分かりきってるから)
見つめ返す、その酷薄そうな三白眼の瞳の中に、触れれば溶けそうなほど綺麗な火が燃えている。
その灼熱に灼かれ、平伏す私の胸の中で今、密かに青く咲き初めたのは偽りの花。
そして訪れたのは、この上ない落胆だった。
*
彩られた日々は喜びで溢れ、楽しく、でもいつもどこか儚げだった。
人と一対一で付き合い、濃密な時間を過ごすことの法外な至福といったら、どんな蜜よりも甘い。一瞬一瞬が驚きに満ち、新鮮な発見を与えてくれる。引き換えにする誰かの犠牲と望薄な未来を差し引いたって、私にとっては何にも代え難い経験となり、毎日を極彩色で染め上げていった。
「なんかさー摂子。あんた最近カワイくなった?」
「へ?」
久しぶりに舞子と一緒に帰ることになった午後5時は、最近出来た可愛いカフェでの女子トークと洒落込んでいた。季節はバレンタイン前で、そこかしこで男女のカップルやお姉さん方が華やぐように語り合っている。席に着いた私達も雰囲気に呑まれて恋バナに花を咲かせていたら(主に舞子の話を聞く係だが)、突然真顔で舞子がそんなことをのたまった。
「カワイ……って、からかってる?あ、今日は奢んないよ。私だって今金欠だもん」
「失礼な、それじゃあたしがいつもあんたにたかってるみたいじゃない。っていうかそんなんじゃなしに、マジメに今のあんた、なんか化粧してるみたいに見えるんだけど」
「えっ、してないよ」
「わかってるよ。だから、カワイくなった?って聞いてんじゃん」
胡乱な目つきで耳を疑いたくなるようなことを言ってくる舞子に、私はうーむと考え込んだ。
人は可愛くなると化粧してるように見えるんだろうか、人類学的な観点から問いただしてみたい気持ちだったが、思い当たることといったらひとつっきゃない。
(多分、恋しちゃってるからだよなぁ……)
化粧はしてないけど、海藤久成に偶然遭遇してしまった時のことを考え、毎日入念にボディクリームやリップを塗りたくるようになったのは確かだ。部屋でくつろいでいる時も、鏡を見る時間は確実に増えた。
「もしかしなくても、摂子、恋してるでしょ」
「うっ……」
「相手は……」
「(え、相手まで特定されるぐらい分かりやすい!?)」
「ズバリ、金沢センパイ!でしょ!」
この時、盛大にほっとしたのは言うまでもない。「白状しなさいよ、あたしが毎日金沢センパイの素晴らしさを吹聴するもんだから気になってきたんでしょ!?」とかなんとかしつこく追求してくる舞子をなんとか交わしながら、バレンタインスペシャルと銘打たれたストロベリーホットチョコレートを喉に流し込む。絡みつくような甘さがつかえて、勢いむせそうになった。ケホ、ケホ、と誤魔化すように咳をしていると、後方から「杉田?」と聞き覚えのあるハスキーな声がかけられ、私は今度は本格的にむせた。
「げほっ、ごほっ……!」
「摂子、大丈夫!?……ていうか、後ろの他校のイケメン、誰?」
ヒソヒソと身を乗り出して聞いてくる舞子に促されるように振り向けば、予想通りといおうか、真後ろには海藤久成の姿があった。……彼女つきで。
「おい、大丈夫かよ」
海藤は私の様子を気遣って、珍しく心配そうに眉尻を下げている。ますます身の置き所がなくなってしまう。
「ゲホッ、ゲホッ、だい、じょ、ぶ……!」
ていうかなんでこのタイミングで、しかもこんな場面で鉢合わせちゃうかな!?むせってるのも恥ずかしいし、何よりお互い非常に気まずいシチュエーションじゃなかろうか?いっそ無視して通り過ぎてくれたら良かったのに……
様々な文句が頭の中を駆け巡ったとき、「あんた杉田の友達?」と海藤が躊躇いもなく舞子に話しかけた。
「ちょっとコイツ借りてもいい?」
「え、でも……」
「何言ってんの、ヒサ!?これからアタシとゲーセン寄ってくれるって言ったじゃん!」
聞き捨てならないような会話のやり取りに、思わず抗議しようとしたら、傍らで腕を組んでる彼女らしき人が私に代わって猛抗議し始めた。そりゃそうだろうなと怖々見守っていると、海藤は嫌に冷たい声でそれを説き伏せた。
「元々、結城と行く予定だったんだろ?あとこの前あいつからプリクラ自慢されたぞ。キスしてるヤツ」
「は?結城って……う、ウソでしょ?」
「俺に聞くなよ。つーか、マジで俺こいつに用事あっから。じゃな。……ほら、杉田」
「え、あ、あの!?」
ひょいっと二の腕あたりを掴まれて強引に立たされたので、私は慌てて隣の椅子に置いていたバッグを引っ掴んだ。引っ張っていこうとする強い力になんとか逆らい、財布から取り出した2000円を舞子に渡す。
「ごめん舞子、やっぱり今日は奢る!あと、今度ちゃんと話すから、ごめん!」
舞子は2000円を握ったまま、ぽかんと口を開けて取り敢えず頷いていた。申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、これから舞子にしつこく追求の嵐を受ける日々を思うと五分五分という気持ちにもなった。
週明けの登校が憂鬱になるだろうことは間違いない。
*
「ほら、早く出んぞ」
「ちょ、海藤くん!?いったい何……」
急かされるまま慌しくカフェを出て、人出の多い夕方の商店街をただただ歩く。海藤はこれといった説明もなしに私を引っ張るだけ引っ張り回して、いつもの帰り道とは逆の方向を辿っていった。
「ねぇ、海藤くん、どこ行くの?用事って……私、何かした?」
反応が無いことに不安になって聞いても、海藤は鋭い視線をちらっとこちらに向けるだけで何も言ってくれない。怒っているように見えたので、近頃の自分の行動をかえりみて一体どんな失敗をしたろうかと振り返っていると、突然路地裏のようなところに引っ張りこまれ、いわゆる壁ドンの態勢を強いられた。
「悪い、ちっと触らして」
「…………は、はい?」
ものすごく鬼気迫ったような顔で何を言われるのかと恐々としていたら、思いっきり拍子抜けさせられた。
「先に言っとくけどヤじゃねぇから。あと気にするもんなんかある?」
ギラギラとした目つきでそんなことを言うので、その意味を頭で分析しているうち、大きな手が腰あたりに忍び寄ってぐいっと引き寄せられた。
「あっ」
「俺がいいんなら大丈夫なんだろ、あんた。……ワリ、もう触ってるわ」
壁についていた手が首もとを擽って、短かく揃えた毛先をくるくるっと遊ばれる。ひゃっ、と声を出して肩をすくめると、これ以上無いほど近くに顔を寄せられてしまった。
「くすぐったい、んだけど……」
「我慢しろって、気持ちよくさせてやっから」
「な、な、な、何言ってんですカ??」
「なんで敬語なんだよ」
声裏返ってるし、と、押し殺して笑う振動が、いつの間にか重なり合っていた太腿からダイレクトに伝わってきて、ますます混乱の極致に達する。……ていうか、膝のあいだに、あ、脚が……
「だって、恥ずかし過ぎて息止まりそう、だし、何言われてるのやら……いきなり、ど、どうしたの?」
「分かんね。なんとなく?」
「なんとなく、って……」
「でもあんただってついてきてんじゃん」
「海藤くんが無理やり引っ張ったのに……」
「まあ、いいから。付き合ってんだから普通だろ、こんなの」
なんか、でも、こんな場所に来てまで、しかもこんなことで海藤があそこから連れ出したのかと思うと、私もおかしくなって笑った。すると、思いっきり至近距離で見られて、ニヤっといやらしい笑みを返される。いつもそうだけど、つくづく自分本位な人だな、と、諦めの境地で納得してあげることにした。
「ほんとに、付き合ってるみたいね」
「それでもいいけど?俺は」
「やめてよ。……私はちゃんと、分かってるから」
言葉遊びのつもりが思わぬ展開を招いてしまい、私は慌てて引き返す。
こんなこと、今は話したくない。
けれど海藤の意見は私と真逆のようで、そこで終わらせてはくれなかった。
「分かってる?何が」
「何がって……私達がほんとに付き合うのなんか無理だってことだよ。海藤くんだって分かってるでしょ?」
「…………」
海藤が、まるで冷水を浴びせられたみたいに細めていた目を見開いた。本命らしき彼女のことを思ったのだろうか、分からないけど、せっかく楽しかった雰囲気に水を差してしまったことだけは明らかなようだ。
それでも、そんな風に釘を刺しておかなければ、私の方が虚構に飲まれてしまう。遊びだと分かって楽しめているうちは、せいぜいその享楽に浸っていたい。取り返しがつかなくなる前に。
「悪い。……あんたの言う償いってやつに、俺の要望なんか含まれないよな」
「嫌ではないよ」
「望んでもいねーんだろ?」
吐き捨てるように言って海藤は離れていく。
開いた空間に微弱な風がすーっと通り抜けて行った。
「これだけは知っていてほしいんだけど、私だって、海藤くんほどじゃないけど、嫌なことはそんなにしないんだよ。でも……今の、こんな風な触れ合いも、やっぱり本当の私達だったらできないと思う」
「本当の?じゃあ今のあんたも俺も、何一つほんとじゃねーの?」
「だって……」
矛盾した答えだというのはよく分かっているつもりだ。
それでも、海藤が私なんかを好きになるなんて思えなかった。
意味が分からない。
償いと称して付き合ってくれているという方がよほど納得できるくらい、私にとってはありえないことだ。
「なら俺の償いってどこで終わんの。あんたはいつになったら『もういい』って満足すんだよ」
「もう……終わらせたい?」
「蛇の生殺しみたいにじわじわ首絞められるんなら、いっそ一気にヤってくれって思うね。……虫も殺さねえような顔して、あんた自分がけっこう酷い人間だって気づいてる?深く関わんないようにしてる態度が優しさだって思ってるんなら思いっきり勘違いしてること、いい加減気付けよ」
それはすべて、すべて本当のことだった。
私は自分がどれだけ非道い人間で、どれだけ卑怯な道に逃げているのか、十分知っている。
指摘されて当然のことだ。
それなのに、なぜ胸が痛いんだろう。
なぜ、涙が出てくるんだろう。
「……ごめん、こんな、泣いて。……ごめん、海藤くん」
「…………」
海藤は大きく舌打ちして、そのあと、いたわるようにゆっくり抱き締めてきた。
「ヒデー女」
「ごめん……」
「……ったく、そこで謝んなくていいんだよ。……利用してえんなら好きなだけそうしろよ、付き合ってやっから」
ふるふるっと首を横に振ったけど、彼に伝わったろうか。
遠慮がちに触れてくる逞しい腕に体を預けた時、本当は、彼の方が嫌なことをたくさん我慢してくれているんだろうなと、そんなことを思った。誰にでも好かれるような人だ、好き嫌いの前に、きっと無意識に他人へ気遣いが出来る人なのではないかと今更ながら実感する。
たとえ彼の本心がどこにあろうと、根っこの所で海藤久成はいいヤツなんだろう。
「しょうがねえな」
呆れたように言って、大きな手がゆっくりと頭を撫でる。
その極上なまでの優しさが、私に来たるべき終わりを嫌が応でも痛感させた。
(こんなの、違う)
私が望んでいたのは、一体何だったんだろう。
(違う)
偽りの花はそれでも胸に青く、燦然と咲き誇っている。
傍らで萌芽しないままの種は、ではやはり枯れていくしかないのだろうか。
(やっぱり違う、こんなの間違ってる)
だからまだ、目を瞑っていようと思っていた。
必ず終わりがやって来るというなら、ギリギリまでこの歪んだ抱擁の中に浸りきって、勘違いしていたかったのに。
(でもそれじゃ、私の本当の花は一生咲かない。……ずっと咲かないままなんだ)
本当は分かってるから胸が痛いし涙が出る。
だって海藤がこうして私に優しくしてくれるのは、全部偽りだ。
彼がどう思っているにしろ私はそれを見なくていいし、彼が嫌いなことも好きなことも、気にしなくても側にいることができる。
ーーーそれでいいんじゃない?結局は側にいられるんだから
(違う、違うんだ、私はただ恋を成就させたかったんじゃなくて、私は、ただ、ただ海藤と)
繋がっていたかった。
対等な立場で、話してみたかった。
海藤を好きになった本当の最初のきっかけはきっと、ただそれだけだったのだ。
「なあ、いい加減泣きやめよ」
「ごめん、ごめんね、海藤くん……」
「謝んなくていいからさ……」
俺も勝手なことして悪かった、と的はずれな謝罪をしてくる海藤にしがみつきながら、私はぐずぐずと泣き続けた。
そして、どっかの栓が壊れたみたいに泣きまくる私を、海藤はとくに文句も言わず、ずっとなだめ、慰め続けてくれたのだった。
(もう、終わりにしよう)
胸の中で咲いていた青い花は、色を無くして萎れていった。
このシリーズ、あと2話ほど続きます。




