過ぎゆく春
ブログで公開しておりました小話。
もしも摂子と海藤が大学一緒で再会していたら、というifもの。
別れ話。
暗いです。
申し訳程度に降り積もった雪が消えると、春というものは見たくもない様相を呈してやってきた。
気温は5度に届くかどうかという所で、暖かな日差しには程遠い。それでも力強く芽吹き始める大地の色はやがて来る温風を思わせ、また、何度でも味わう憂鬱を海藤久成の胸に呼び起こす。
春はあまり好きではなかった。
「来ねぇかな、さすがに」
自嘲気味に言って、咥えた煙草はとうに短くなっている。
あといくらもしないうちに駅へ向かうバスは到着し、新天地へと運んでいくだろう。トタンで設えられた雨避け程度のバス停にもたれた海藤は、チラと腕時計を確認した。
あと10分。
それで『アイツ』が来ないなら、もう今度こそ、本当にお終いにするべきだった。
「はぁっ」
白く息を吐き出すと、吸い殻を地面に落とし、踏みにじる。
真新しい赤のスニーカーの下で、消炭が地面に黒く跡を残す。
それを見届けてポケットからもう一本取り出そうとした所で、慌ただしい足音が遠くから聞こえてきた。
見なくてもすぐにわかった。
どこか気だるいような、精彩を欠く走り方を、間違えようもない。
「はぁ……はぁ……っ」
乱した息を整えるため、一度唾を飲み込んで足を止め、大体5メートル前で躊躇している気配。
繰り返される若い女の呼気。
顔を上げない海藤の視界には、濃く陰影を作る影しか見て取れない。
それでもその乱した息すら静かな存在を、海藤の憂鬱を晴らす温かな雰囲気を、間違えることは出来なかった。
「なんで来てんだよ、てめーは」
たとえ口から出るものが意に反していようとも。
「なん…で、って、だって……」
まだ落ち着かないらしい気管支を抑えながら、女は近付いてくる。
海藤は、ゆっくりと視線を上げてそれを確認した。
灰色のショートコートの下に白いニットワンピースを着込んでいる杉田摂子が、頬を赤くして何事かを言い淀んでいる。
長い髪は耳の上でハーフアップにして後ろに結わえてあり、そんな姿はひどく新鮮で、場違いなほど可愛かった。
相変わらず空気読めねぇ女、と、動揺を押し隠すかの様に胸の内でこぼした海藤は、姿勢を変えずに斜め下から彼女を睨んだ。
「さんざん俺にヒデーことされて、泣いて、めちゃくちゃにされて。別の男んとこ行ったくせに、なにこんなとこ来てんだって言ってんの」
「わ、わたしは、別に、山科くんとはそんなんじゃ……」
そんなんじゃなければ、なんだというのだ、海藤の胸の内はまたぞろ憂鬱で溢れかえる。
杉田を慰める友達の中に山科が居ることは、前々から知っていた。そしてヤツが杉田に気があることも重々承知している。
『これ以上、あんたの好きにはさせない。泣かせるだけなら俺が奪ってみせる』
いつだったか杉田と酷くすれ違った時があって、山科からそんな風に戦線布告を受けたのは昨年の初冬のことだったか。
うるせぇ、と、自分達の間に訳知り顔で出しゃ張ってくる男が不快で何の反応も返さなかったが、杉田が彼を選んだというならあの言い分は正しかったということなのだろうか。
別に、杉田摂子が誰と居ようが誰を選ぼうが、それは彼女の権利であって侵害するつもりなど海藤にはない。
だが不快に思うくらいは好き勝手にしていいはずだ。
こうして最後の日に息急き切ってやってくる優柔不断さも、甘さも、彼女が自分で自分を窮地に陥れる材料なのだと気付きもしない。
そんな鈍感さを、しかし、海藤は好んでもいた。
そう、本当に不快なのは、彼女が別の男のものだということでしかないのだ。
それだけが苦痛で仕方ない。
「じゃあなに、俺と一緒に行きたいとでも言う気か?」
杉田の顔は瞬時に凍りついた。
もはや修復が不可能なことは、そんな表情一つとっても明らかだった。
見たくもないそれを言う前から予想していた海藤は、落胆をおくびにも出さず、吐き捨てるように言った。
「頑張ってだの遠くに行っても時々思い出してだの、どーせそんなとこだろ、お前が言おうとしてたことなんかよ」
杉田摂子という女は、苛つくほど自分の想いを表に出さない。
本人は無自覚だろうが、最後の最後まで、憎しみすら海藤から奪うつもりでいる。
「海藤、私……」
「言われなくても頑張るよ、あぁ、時々お前のその辛気臭いツラ思い出してさ、やっぱ捨ててきて良かったって思えるような彼女でも作ってやるから心配すんなよ」
すると杉田は、さっきよりもっと表情をなくして、はぁ、と少し息を漏らした。
額面通りに受け取っていることは明らかだ。だが海藤にはそれで良かった。
もうそれで良い。
「……こんなこと言われるために来たワケじゃねぇんだろ。分かったらさっさと行けよ」
これ以上の会話は無意味だと、取り出した真新しい煙草に火をつけようとしたとき、杉田がふいに動いた。
柔らかな気配が海藤の傍に近づいて、思わず目を見張る。
「ううん、海藤。私、そういうことを言われるために来たよ」
「なに馬鹿なこと言ってんだよ」
グレーのコートから覗く白い指先は薄緋色に染まっていて、それが海藤の頬に登って行く。やけに遅く瞳に映った。
「頬っぺた、あったかい」
「冷てーな、お前は」
努めて迷惑そうに言ったけれど、その冷たさが心地よかった。
ひんやりとした体温が、過ごした日々の時間を思わせたからだった。
大学で杉田摂子と再会して、たまたま同じサークルに入って、ほんのはずみで体の関係を持って、4年間。
その間、心の交流はあったように思っても、明確な言葉をお互い渡さずにここまで来た。
むしろ、こんな風になるまでよく持った方だと言えよう。
海藤は、その関係を何かに言い表そうとしても、多分どれもハズレになる気がしていた。
恋人と言うのでは重くて、セフレと呼ぼうにも軽さが足りない。
そして、これは確信に近いことだったが、どちらかが関係を正そうとしていたら、きっとその時点で繋がりは消滅していたに違いなかった。
暗黙の了解の上ではじめて成り立つような、関係とも言えない間柄。
大学という緩い環境から抜け出せば、すぐに絶たれる弱い糸だけが、海藤と杉田を繋いでいた。
(それに……もうこいつは、限界だ)
すぐ下にある黒い瞳を真近で見下ろせば、キラキラと輝く膜が張られている。
陽光に照らされる水溜りの氷。
自分がそれを張ったのだと、海藤はよく分かっている。
その氷を溶かす者が、自分ではないということも。
「それで気が済むなら……」
「あ?」
漏らした言葉を一度飲み込むように俯いた杉田がもう一度顔を上げたとき、そこにはもうなんの躊躇も後悔も、悲しみも、浮かんではいなかった。
ただ、何かに必死に耐えている緊張感だけは、ありありと伝わってくる。
海藤は自然と、その頑なな背中を引き寄せていた。
「気が……済むなら、それで最後にした方がいいって、ただ、自分のために」
「何言ってんのか聞こえねーよ」
緊張を押し殺して、必死に杉田が伝えようとしているところは、分かりたくないけど海藤には分かっている。
(こうやって触ってんのが、もう、ダメなんだろ)
「自分のために、あんたを利用しに来たのよ。私を何とも思ってないって、あんたの口から聞くために」
(ヒデー女)
知ろうともしない。
知りたくもないのかもしれない、杉田摂子に限ってそんな聡いことを思ってはいないかもしれないが。
(それで良い)
この二人では、行き詰まるばかりで、もうどこにも行くことができない。
(それで良い)
けれど。
(……なんて、)
「んなわけねーだろ」
「え?」
海藤の中で、説明のつかない欲望が突如、堰を切って溢れた。
引き寄せた華奢な背中を両腕で囲って逃がさない。それで怯える気配が伝わったから尚更力を入れて抱き締めた。
「かい……どう。なんで……?」
「言ってたまるかよ。お前の中でもう終わってることになってんのが頭きた。仕返ししてーじゃん」
「し、仕返しって」
子どもみたい、と笑った杉田は、いたく海藤の深い所を刺激した。
こんな風に笑うのにこれは俺のモンじゃない、俺と居ることを望んでない、終わることしか考えてない、その事実が歯痒くてどうしようもなくなった。
「……でもね、海藤。私、こんな風に抱きしめられる度…、海藤のあったかい肌にくっつく度、幸せだって、思ってたんだよ。だから今も、多分これは仕返しになってないよ」
「…………」
しんしんと降る雪のように、静かに想いを乗せるその言葉が、海藤の中に積もっていく。
ずるいと、心底そう思った。
こんな時にそんな台詞を口にしたら、離したくなくなると分からないのだろうか。
「私、あんたにずっと、こういうこと言いたかったのかも。……こんな時で、ゴメンね」
「お前って、なんでそう……バカなんだよ」
「はあ?心外なんですけど」
怒ったフリをして平静を装う杉田を知っているから、なおさら海藤は悔しくなった。
まだ、終わりたくない。
はっきりとそう分かるのに、震える彼女を相手にしていては何も出来ることがない。
ただ一つ、離れること、突き放すことこそが、恐らく最大の優しさとなる。
そんなこと、分かりたくもないのに。
「お前のことなんか、俺は、…………なんとも思ってねー」
繋がりを絶つための嘘は、するすると口から出て行った。
「……うん」
「ただの、気紛れだった」
「うん」
深く俯いて頸を見せた杉田が、くすんと鼻を啜った。
身動ぎをしたので、だいぶ効力を無くした両腕のかんぬきを開けて、解放してやる。
振り仰ぐその目は真っ赤だった。
「全部嘘だ」
「え?」
だから衝動的に言っていた。
微塵とも思っていない言葉を優しさに代えて送ったことを、翻したくなった。
「そう言ったら、信じるかよ」
「海藤……冗談が意外とヘタだね」
へらっと笑って涙を一粒落とす杉田の肩を掴んで、唇を寄せる。
舐めた頬は、塩辛かった。
「お前が信じたくねぇんだろ」
「…………」
「俺が何言ったって。もう、傷つきたくないんだろ」
困ったように杉田は笑って、でも結局「うん」と肯定した。
それを見た海藤はつられたように笑い、そして、名残を惜しむためのキスを一つ送る。
「んっ……」
頬を赤く染めて甘い声を漏らす彼女は、散々貪ってきたあの時のままだった。
ただ時間だけがその身体を通り過ぎて、もう元に戻ることなどできそうもない。
炎を灯そうとしても、口づけは終わりを意味するものにしかならず、それきりだった。
唇を離すと、タイミングよくブロロ…とエンジン音が聞こえてきた。
結局それが別れの合図となった。
「じゃーな。ムカつくから、元気でとか言ってやんねーから」
「……ありがと」
「ばーか」
本当に、海藤は心底腹を立てていた。
どれほどの未練を残して離れようとしているのか、杉田は少しも分かっていない。
『……でもね、海藤。私、こんな風に抱きしめられる度…、海藤のあったかい肌にくっつく度、幸せだって、思ってたんだよ』
そんな風に重い、大切な言葉を残したくせに、窓から見下ろす杉田の顔は、赤く腫れぼったくて、それでもどこかすっきりとしているようだった。
彼女の中で春はとうに過ぎて、あたらしい季節を迎えようとしているのが傍目にも分かった。
(最初から、遅かったんだ)
彼女との始まりにはもしかしたら萌芽していたかもしれない機会を、摘み取ったのは海藤自身だった。
―――俺はお前のことなんか好きじゃねぇ
体を繋げて初めに言った言葉。
―――私もあんたを好きにならない
杉田はそう返すことで、海藤と関係を保った。
もし好きになったら、辛くなるばかりの二人だったから。
トロトロと出発したバスは、ぼろいトタンのバス停をどんどんと置いて行く。
薄い微笑みを浮かべた杉田の姿はやがて見えなくなって、それでもう終わりだった。
しんしんと積もり続ける思いを抱えた海藤は、やがて来る季節を思い、やはり憂鬱そうに溜息をつく。
最後の1本になった煙草に火をつけようとして、くしゃりと潰すと、窓の向こうのぼやけた空を睨んだ。
その淡く優しい気配が誰かを思わせることに気づき、相当重症だと自覚する。
(今さら、全部今更だ)
冬の凍てつく空気でしか保つことができなかった春は、2人の間をとうに過ぎて、もう二度と訪れることはないだろう。
やはり、春なんか好きになれそうもない。
海藤は淡い色合いの兆す景色から目を背け、そっと、逃げるように深く目を閉じた。
了
2人の関係における春はとっくに過ぎ去っていた、というお話。




