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白く残る


クリスマス企画でリクエスト頂いた「摂子がお嬢様で海藤が下男」設定のifもの。

後味は微妙です。ややR15ですかね?


摂子17歳、海藤22歳。












「いたっ」


琴線を強く爪弾いた拍子に、指先に血が滲んだ。

痛い、と思うよりも、またか、という気持ちの方が膨らんでいく。


「摂子さん、またですか。お姉様もお兄様も、それはそれは上手につま弾いていらっしゃったのに、どうしてあなたはこうも伸び悩むのでしょうね……」

「す、すみません、先生」

「もう今日はよろしいです。これ以上は続けても無意味というもの。お披露目まではまだ日がありますから、明日に期待すると致しましょう」


そう言って、琴の師である先生は早々に退室してしまった。


(本当に、お姉様もお兄様も、容姿から勉学まで全てにおいて優れているのに。どうして私はこの家の子供として生まれてきてしまったんだろう)


容姿も勉学も、全てにおいて並かそれ以下な私。

そんな私が、名家と呼ばれる貴族「杉田家」の二女として産まれてしまったのは、何かの間違いなんではなかろうかと、ずっとそう思って来た。

家族の間でも劣等生で通っている私は、当然のこと下女や下男からも見下され、特にある人物からの攻撃はすこぶる酷かった。

園丁の息子で海藤久成という下男は、生来の口やガラの悪さを発揮させて、何かにつけ私の失敗を挙げつらい、せせら笑うことを日課としているような男だった。


「相変わらず萎びたりんごみてぇな音だな、摂子お嬢さん」


そう、丁度こんな風に。









・白く残る・








「こんな音でも毎日聞かねぇと生きてるかどうか不安になるからよ。ま、せいぜい頑張って練習に励んで下さいよ」

「そんなこと、あなたに言われなくてもやっているわ」


やっぱり出た、と、ため息をつきたくなるのを押し殺して、私は部屋の出窓から顔を出している目つきの悪い年上の下男に冷たい視線を投げた。

やたらと態度のでかいこの海藤久成という男は、どうかすると大貴族のお坊ちゃまよりも矜持が高く、あらゆる場面で取り乱すということを知らない。

容姿もそれなりに整っていて、いつもは粗雑な園丁用の身なりに身を包んでいるが、いつだったかエスコートの代役を頼まれて燕尾服姿を見せた時には、これが同じ人間かというほどの変貌ぶりを見せつけ、辺りのご婦人がたを完全に虜にしていた。

下男にすら劣っているのかと自分の不甲斐なさを再確認してしまったその舞踏会では、当然私は失敗の嵐に巻き込まれただけとなった。


「んなこと言って、一時間後にゃクソの役にも立たねぇような詩作に耽るんだろう?あの奥歯がガタガタ言うほど甘ったるい言葉の羅列の」

「!?……か、海藤、あ、あ、あなた、見たの!?」


その、詩作というのはまさか、私が趣味で書いていた、恋歌のような、あの……!?


「見た……って、そこの引き出しん中に入ってるヤツだろ?この前机の上にどうどうと放ってあったからしまっといてやったんだぞ。感謝しろよ」

「ひ……酷いっ!勝手に見たなんて……見たなんてっ」


けろっとした顔で言う男は、これっぽっちも罪悪感を抱いていない様子だった。

腹立たしい上にこの上なく恥ずかしく、かーっと顔が熱くなって、ついでに涙がこみ上がって来た。

どうして、どうしてそんな意地悪なことばかりするんだろう!

小さいときからなんだかんだと悪口を言われたり、悪戯をされたり、この男に関わってろくなことになった試しがない!

けれど私は劣等生だから、家族にもそれを容認されてしまっているのがさらに惨めで泣けてくる。

要領のいい男だから、私のお母様やお父様はもちろん、この家の全ての人を味方につけているのだ、海藤久成は。


「おい、泣くなよ17にもなったお嬢さんがよ。みっともねぇな……。つーか、泣くほどのことか?」

「あんたなんかに分からないのよ!なんでも出来て、私みたいな落ちこぼれと違う、あんたなんかには……!


何もうまくできない私が唯一至福になれるのが、詩作を書いている時だった。

それが下手でも構わない、自分の心が赴くままに言葉を並べてその世界に浸っている、ただそれだけで癒されたのだから。


それなのに、それなのに……


「ま、摂子お嬢さんは努力することもお嫌いみてーだから?いつまで経っても容姿は垢抜けねーままだし、勉学もろくに出来ねぇ、琴の腕は萎びたりんごのまんま、行かず後家決定だな」


ぎゃははははは、と下品な笑いを残して、海藤は窓際から去って行った。


(なんて嫌なヤツだろう!この家から出て行ってしまえばいいのに……)


おかげで私はその不快な笑い声がいつまでも頭に残ったまま、半べそで琴の練習をするハメになった。







そんなことがあった数日後。

劣等生だった私に、驚くような吉報が舞い込んできた。


「こ、婚約者!?お姉様ではなく、私に、ですか?」

「ええ、摂子。お前ももう17。誰かの隣に収まるには早くはない年齢ですからね。なんといっても、先方はあの『山科』家。お父さんの取引先のお得意様よ。お断りするわけにはいかないのです」

「摂子、山科さんのご子息の圭一君は、とてもしっかりしていて、将来有望だ。お前には過ぎた相手と言えるくらいだ。これほど理想的な夫には、もうめぐり逢えんかも知れんぞ」


お父様とお母様が口々にそう言ってくるけれど、少しもしっくりこなかった。

第一、どうして私なんだろうという疑問がまず最初に来る。

私にはとても美しくて優秀な姉がいるというのに。

そこで、ピンと閃くものがあった。


(政略結婚だ……)


自由恋愛を叫ばれている今の時代であっても、私の家、杉田家にそれは当てはまらないのであって。


(お姉様はそれを許されている。けれどそれは、お姉様が引く手あまたで、有力な大貴族の家柄から見放されることがないからだ)


見放されるのは、何の取り柄もない、ただ名家に生まれただけというそれだけが売りの私ぐらいのものだろう。

どうせ何をするにもうまくいかない、未来も展望もない私だ。

両親にすら厄介払いされるのだとしても、なんの親孝行もできないよりはマシだというものだ。

よく物語にある様な、「鬱屈した暮らしに辟易したお姫様」や、「決まり切った生活から抜け出したいお嬢様」でもない私は、特に不満も抱くことなく、二つ返事でその話を了承した。







その日を境に山科さんとの交流が始まった私は、それなりに忙しい日々を過ごすことになった。

習い事である琴の練習も出来ないほど、婚約者の山科圭一さんをはじめとした山科家の方々に八方連れまわされ、杉田家の人達との交流の方が少ないくらいだった。


「それでは、摂子様。明日は正午にお迎えに上がります」

「ええ。ありがとうございました」


圭一さんの秘書の方がそう言って、黒塗りの車のドアを閉める。

ブロロ…と音を上げて行ってしまった車を見送ると、なんだか気づかれのようなものがどっと肩にのしかかって、とぼとぼと屋敷の門をくぐった。


(当り前のことだけど、恋物語でよく見る逢引とはまったく別のものだ……)


勘違いをしていたわけではないけれど、改めて私は「恋愛」をしたのではなく「婚約」をしたのだと思い知らされた。

私がうまくいかないながらも習って来たものはすべてこの婚約のためであり、それは一つの例外もなく恋愛を助けるような類ではないのだ。

少なくとも、私の持っている力で勝ち取れるようなものではなかった。


(圭一さんも、いい人そうではあるんだけどなぁ……)


お父様がいるときは必ず傍に行って仕事の話だし、私を大切にしてはくれるけれど、あくまで杉田家のお嬢様として、だ。

私自身を大切にしてくれているわけではなさそうだ。

けれどそれが普通だし、贅沢を言っている立場ではない。

それはよく分かっている。

17年間、身に染みて分かっている。


「あ、山茶花……」


気づけば年も暮れに迫っていて、庭に咲いた白い山茶花が見事な花をつけている。

気分を楽にしてくれる様な芳香が辺りに漂っていたので、誘われるように庭に足を踏み入れて行った。

すると。


「はぁ、ああっ……」


(え?)


鼻にかかった様な女性の声が近くから聞こえてきて、私はわずかに身を引いた。

こんな場面に、私は一度だけ遭遇したことがあったのだ。


(これ、もしかして……)


「うぅん、もう、ヒサ、嫌な人ね。じらさないでよぉ……」

「別にじらしちゃいねぇよ」


興奮した女の人とは反対に冷静な海藤の声が聞こえてきて、私は「やはり」と身を固くさせて息を殺した。

ここは思いっきり外に違いないが、海藤久成という色馬鹿男は、所構わず下女を連れ出して行為に及ぶことが幾度かあった。


(早くこの場から立ち去りたいのに……なんでこうなるんだろう)


こうなっては終わって二人が立ち去るまで動くことはできない。

何しろ、山茶花の木の陰から覗く二人は、すぐそこ、目と鼻の先だ。

身じろぎして気配が知られることすら決まりが悪い状況でしかない。


(……昔は、もう少し仲が良かったのになぁ)


海藤の性癖を知るまで、認めるのが癪ではあるけど、私は一時期彼を慕っていたことがあった。

海藤が意地悪で私をいじめてくるのは昔から変わらなかったが、五つも上ということもあり、私が小さい頃は彼もそれなりに面倒を見てくれていた(嫌々だったが)。

私の方でも、小さかったから、何かにつけ尊大な海藤を純粋に尊敬していたし、悔しいことに、かっこいいと思っていた。

実の兄よりも兄のように慕っていて、あわよくばお嫁さんになろう(!?)とまで考えていた相手が海藤久成だった。

けれど、成長するにつれ彼の素行の悪さが目につくようになっていき、海藤も目に見えて私から距離を置くようになっていった。

つまりはそういうことなんだろうな、と納得した私は、私が海藤離れをし始めたと時を同じくしてあからさまに冷たさを増していった彼の態度に、意味もなく傷つき、全てを諦めた。

告げずとも失恋した。

元々、海藤の様に高望な男を満足させられる人間ではないと分かっていたから、納得ずくではあったけれど。


「あああっ。……っ」

「……くっ」


高みに上り詰めた様な女の声と、息を押し殺した海藤の気配で、「ようやく終わった」と顔を赤くさせているだろう自分を自覚しないようにしながら安堵した。

下女が「またね」と、口づけの音を響かせてから去っていく足音を聞いた時、安心し過ぎて思わず「は……」とため息を漏らしてしまった。

しまった、と思った時には相手の手の内だった。


「もう出てきていいぞ」

「!?」

「いるんでしょ、摂子お嬢さん」


その口ぶりが余りにも余裕だったので、私がいることなど既に承知の上だったのだと理解した。

同時に、物凄い羞恥心が体の中をつき上げてきた。

何も言わない私の前に、シャツのボタンを閉めながら海藤が躍り出てきて、にやにやと嫌な笑いを張りつけて顔を覗き込んできたので、急いで顔を反らす。


「おーお、処女にゃ刺激が強過ぎたか。わりーな」

「……はしたない。場所を考えてよ」


気が動転しているためうまい言い返しもできず(いつものことだが)、顔を真っ赤にしているであろう自分の醜態をなんとか隠そうと、後ろを向いて山茶花の木の幹へ顔を押し付けた。

それへ、海藤は何も気にしていない様な平坦な声で話しかけてきた。


「お嬢さん、逢引帰りか?山本何某と」

「圭一さん。逢引なんて……婚約者として、色んな所へ挨拶へ回ってきただけだもの」

「へー。そりゃ御苦労さま。ったく、こんな早く嫁がされるとはな、あの摂子お嬢さんが」

「どういう意味?」

「そのままの意味。お嬢さんみてーなのは、お琴の練習してるだけの箱入り娘で終わるんだと思ってたわ」


どうやら海藤には相当に見くびられていたらしい。

海藤だけではなく、屋敷で働く者達もそれなりに私の婚約には驚いたらしく、最近では前よりも態度が柔らかくなっている。

やはり嫁ぐことでしか自分の真価が問われないのだと思うと少しは憂鬱になったが、どこかで小気味よさを覚えていたのも確かな事実だった。

たとえそれが政略結婚だとしてもだ。


「つーかさ、お嬢さんはそれでいいのかよ?親に良い様に使われて、女なんざ子供産む道具くらいにしか思ってねぇような輩んとこに嫁いで、本気で幸せになれっと思ってんのか?あ?琴も満足に弾けねぇような落ちこぼれのお嬢様がよ」


かっと熱くなっていた体が一気に冷めるほど、それはあまりに辛辣な言葉だった。

そんなものには慣れているはずなのに、面白くもない婚約者との逢引に疲れ果てていた私は、さきほどの情事の衝撃もあり、とてもではないが平静でいられなくなった。


「女として、一度は咲き誇ってみたい、とか思わねーの?一生飼い殺しみてぇに自分の欲求押さえつけて好きでもねぇヤツと生きて行くのかよ!畜生みてぇに考えることも奪われて!それでいいのか、てめーの人生は!?」


いちいち言うことがもっともで、でも言い返せなくて、ざくっ、ざくっ、と胸が抉られる。

それでも、こんなに不甲斐なくて、なんの役に立てない私でも、反論する言葉はたった一つ残っていた。


「……だって、それでも私は杉田摂子として生まれたんだもの」

「!?」


山茶花の芳香が強く香る幹に顔を押し付けて、私はいつの間にか滂沱の涙を流していた。


「何の役にも立てなかった私が、たった一つだけでも、お家の役に立てることがあったんだわ。こんなに嬉しいことはない。やっと、私が生まれた意味を見つけることが、できたんだもの」


そんなことを毎日思っていたわけではもちろんない。

けれど、辛辣な罵声を浴びて、窮地に立たされてどうしようもなくなったこんな場面になって、するりと零れるように落ちてきた言葉は、確かに私の中にあった真理だった。


「……馬鹿だよ、お前は」

「分かっているから、そう何度も口にしないで」


あくまで私を貶めようとする相手にうんざりした時、「そうじゃない」と言った海藤が突然私の体を強く抱きしめてきた。


(え!?)


驚いて振り向こうとしても、腰にがっちりと太い腕が回されて、身動きがとれない。

こんな時になって、私は急に海藤の大きな体躯を意識していた。

思わず涙も止まるほどの衝撃を受けている私に、海藤が、


「お前の真価を、こんな縁談ごときで問うんじゃないよ。あんな野郎にくれてやるか。誰が、誰が……」


独り言のように言って、あろうことか私の首筋に口を寄せてきた。

熱い吐息がかかってくすぐったい、いやそれ以前に、この状況についていけず、どうしたらいいか全く分からない。


「か、海藤?な、なにを……」

「女になりたくねーか?摂子お嬢さん」

「生まれた時から、なっているけど」

「馬ぁ鹿。処女捨てたくねーかって言ってんだよ。女の喜びも知らねーまま、子供産むためだけに嫁ぐなんて馬鹿げてる。そうだろ?」

「何を、何を言ってるの?」


ついでに正気?とも聞いてやったが、相手はどうも本気の様子で、「恋愛の真似ごとくらい付き合ってやるよ。せめてものはなむけに」と笑いながら言って、強く抱いていた腕の力を緩めた。

私はそれでやっと正面に向き直ることが出来、背中を山茶花の幹に預けて、目の前に居る幼馴染の様ないじめっ子の様な兄の様な人を、久しぶりにじっくりと眺めた。

切れ長の相貌を細めて、どこか余裕のない、苛立ったような顔つきの彼は新鮮で、私は忘れていた恋心が一気に開花する音を胸の奥で聞いていた。


(ただの一度……遊びなんだ)


言い聞かせるように、何度も、何度も頭の中で繰り返す。


そう、これは、一度きりの火遊び。

何の役にも立たない、可哀想なくらい不出来なお嬢様への、せめてもの餞。

そういう名目の、海藤久成の気まぐれなのだ。


でも、それでもいい、と、まるで本当の恋人に接するみたいに、切迫した目つきで近づいてくる海藤を見て思った。

多分、こんなことでもなければ一度だってこの下男とは情を交わす機会などなかっただろうと思うと、山茶花のかぐわしい芳香に任せて、白く霞んだ意識の向こうに理性を飛ばすなど至極簡単なことだった。

そうして、しびれるほど心地いい口づけが降って来て、私はその場限りで萎れる大輪の花となって散った。







輿入れの前日になって、それまでの慌ただしさが嘘のようにゆったりとした時間を過ごすことが許された。

バタバタと準備に追われてきたこちらを気遣ったのだろう、山科家は婚礼を少し遅めの時間にするという配慮を入れてくれたのだ。


「摂子お嬢様、本当にお綺麗ですわ。これでは、先方も納得のいく婚礼だと手放しで喜ぶこと間違いなしでございます」

「ありがとう。今日は素直に受け取っておきます」


婚礼の衣装を整えていた下女が、感激した口ぶりで褒めあげたので、謙遜するのも無粋だし手放しで賛辞を受け取る。

仕上げの化粧を施されていると、部屋にノック音が響いた。


「はい、どなたかしら?お嬢様は今、婚礼支度の最中ですよ」

「申し訳ありません。ですが、どうしてもこれを届けてほしいと頼まれまして。祝いの品だと言って」


ひどく恐縮して新入りの下男が入って来たので、「大丈夫ですよ」と声をかけて上げた。

彼は早足で贈り物を下女に渡すと、逃げ出す様にその場から去って行った。


「まあ、摂子お嬢様、これ、山茶花ですよ。時期でもないからこんなに萎れて……。いやですね、もしや嫌がらせか何かかしら?」

「今は椿の時期だものね。でも……あら?何かついている……」


くたっとして元気のない花束のひと房に、折った紙、恐らく文が結いつけられていた。

私はそれを見て、直感していた。

萎れていても強く香る山茶花が導き出すのは、何度も忘れようとして失敗に終わった、一度限りの情熱の記憶だった。


(まさかね)


「あの後」すぐ、海藤久成は屋敷から姿を消した。

聞けば、父上に辞職を願い出たということだったので、おそらく私とのことが明るみになるのを嫌ったのだろうとすぐに理解したが、あれだけ「出て行けばいいのに」と思っていたことも忘れて、私はひたすら悲しくて、しばらくは眠れない夜を過ごした。


(あの人のことだから、きっと、もう別の美人を抱いている)


自分の純情を笑いながら文を開く。

そこには、短い文でこう書かれてあった。


―――琴の音が恋しくなる今、ただ一度の恋人にこの言葉を捧げる


「まあ、恋文ですわね!」


私が反応するよりも早く、下女がそう言って山茶花の花言葉を挙げ連ねた。


ひたむきな愛、理想の恋、困難に打ち勝つ……


「きっと花言葉を送るという意味ですわ。山茶花って、結婚相手にはそこそこ相応しい花ですものね。でも萎れた花を送るなんて少し配慮が足りませんわ、何も今の時期に山茶花でなくとも……お嬢様、どうされました?……お嬢様?」


下女の声に応えられず、溢れ出る涙が文に次々と落ちて、乱暴な筆跡の墨がじわりとにじむのをじっと見ているしかできなかった。


ただ一度。

そうだとしても、海藤にとって真実あの時だけは恋人だったのだと、それが分かっただけでもこれ以上もない餞となった。


(あれだけ下手くそだと詰ったくせに、本当に自分勝手なんだから)


貶したり、恋しがったりと、まったく素直じゃなかった幼馴染の意地悪な顔は、もう二度と目にすることもないだろう。

まして、山茶花の木陰で、狂おしいほど私を求める壮絶な色香を残した、あんなに美しい顔は。


(それでも)


おそらく結婚して子供を産んで、どれだけ遠く離れて行っても、消えない。

胸の奥に白く跡を残したのは自分も同じだと、萎れた山茶花が言うのだ。


「摂子お嬢様、そろそろお支度を」下女が婚礼の時を告げるまで文を見続けていた私は、萎れた山茶花を出窓の外へそっと放った。


(さようなら)


もう誰も現れることのないその窓には、名残の様に一弁、白いひとひらだけが残っていた。







終わり










海藤は身分差を考えて身を引きました。

本当はずっと好きだったという設定です、が、5つ上なので妙に分別があるため一回こっきりで関係を終わらせています。

大正とか昭和初期あたりをイメージした時代の話でした。



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