そこは異世界でした
その獣の目をみると、何故か足が震えた。
背はそれほど高くはない。大型犬が二本足で立ったぐらいだろう。
そこらにいる犬と違うのは、目だ。
黒目とか、白目とかじゃない、真っ赤な目。
宝石の様な綺麗な目には俺が映っている。
口からは一粒一粒が大きい涎が次々と滴り落ちている。
手……いや、前足から生えている爪は長く、鋭い。
今、わかった。なぜ足が震えているのか。
今まで感じたことのない、恐怖。
俺は今、死の危険を感じている。
やば……逃げなきゃ……。
そう思った瞬間足に力を入れようとするが……動かない!
自分の足じゃないのかと思うほど、言うことを聞かない。
獣はゆっくりと近づいてきており、やつが一歩足を進めるごとに恐怖と緊張が増す。強烈な吐き気、半端じゃない動揺。頭で考える事なんてできなかった。できるのは死を覚悟する事だけだと理解した。
「ちくしょう……」
自分が何故こんな事に巻き込まれているのかわからなかった。
本当ならば、この時間は学校にいて、友達とどうでもいい事を話して、勉強して、帰って、姉ちゃんに首を絞められながらもたまにあたる乳に全神経を集中して柔らかさを感じて……俺は変態か! 心の中で突っ込む。そうだ。死ぬわけにはいかない。
まだ16歳。人生が楽しくなるのはこれからだと担任の教師が言っていた。その通りだ。まだ、姉ちゃんの胸を正面からわしづかみにするという野望も果たしていない。……やはり俺は変態なのか? そんな事はどうでもいいが、その変態な野望を思い出したおかげで恐怖が若干少なくなった気がした。
逃げよう……!
足の震えもなくなった気がした。足に思い切り力を込め、全力で城下町へ向かって走る……が。
いてっ! 意思とは裏腹に足はうまく動かず、数歩で転んでしまった。さらに悪い事は重なり、急にアクションを起こした俺に、獣が襲って来たのだ。豪快に転んだ俺に逃げ場はない。
くそっ!
転んだ自分に苛立ちながらも、襲ってくるであろう痛みに耐えようとする。どれほど痛いかわからないが、回避は不可能だ。
死にたくもないし、生きる事を諦めたわけでもない。だけど、どうしようもない。未知の恐怖に目を閉じて備える。
――っ!
体全体にこれでもかと力を入れて待ち構えたが、一向に痛みは来なかった。恐る恐る目を開くと、目の前には獣がいた。
「うわっ!」
慌ててまた目を閉じて痛みに耐えようとする。しかし、いつまで経っても痛みは来なかった。走馬灯現象にしては遅すぎる。
「ご無事でしたか!?」
聞き覚えのある声がして、振り返る。目を開けると、そこには気が触れた老人エムナイルがいた。兵士達より早く来るなんてどんな技を使ったのか疑問に思ったが、それはひとまずおいといて。
エムナイルがいるという事はもしかすると……だ。ゆっくり正面に視線を戻す。案の定目の前には獣がいるが、胸に光の矢が突き刺さっている。光の矢が小さくなるにつれて、獣の体は光に覆われ、矢がなくなったと同時に獣もその場から姿を消した。
た……助かった。
「はぁ……はぁ……」
緊張と恐怖から解放されて疲れがどっと押し寄せてきた。この疲労感たるや、持久走で5㎞走った時よりも遥かに凄い。いや、10kmと言い直してもいいかもしれない。
「外へは出てはいけませんと言ったではありませんか」
エムナイルは若干怒っていた。今まで静かな物言いだっただけに、少し怖い。しかし、命が助かった事の安堵の方が大きく、ほっとしていたら睨みつけられた。
「すっ、すいません」
素直に謝る。というか、謝るしかない。エムナイルは大きく一つ溜息を吐いた。彼も安堵したのだろうか。やっぱ、俺って自分が知らないだけで、身分が高かったりするのだろうか。
「しかし、これでわかりましたか? あなたがいた世界ではないということが」
「あっ……」
エムナイルの言葉に安堵感は吹き飛んだ。そうだ。今の出来事は確実に現実世界ではあり得ない。あんな獣、見たことない。
そして、さっきも思ったが、獣に突き刺さっていた光の矢。考えたくないけど、あれは恐らく魔法……?
いや、いやいやいや。現実では起き得ない事が立て続けに起きて、頭がおかしくなっているだけだ。
冷静になって考えてみる。
見た事もない獣。エムナイルが出したであろう光の矢。そして、ゲームの世界というか、中世ヨーロッパに居そうな格好をしていた兵士達。で、エムナイルが言った、あなたがいた世界ではない。
んーっと……どう考えても、ここは異世界という答えしか出ません。
えっ? マジで? なんで? どうやって? 何のために?
もしかして、本当に異世界なのかも、と思った瞬間、頭の中がねじれたのかと思う程、色々な疑問が浮かび上がる。
いや、それより、本当にこの世界は異世界なの? 外国とかにありそうな景色だけど、本当に?
「本当なのですか? その……この世界は?」
恐る恐るエムナイルに聞く俺。
「あなたがいた世界ではございません」
エムナイルから出た言葉は、やっぱり変わりがない。
そして、俺もこれ以上、その言葉が嘘だと思えなかった。
……なんて言う事だ。俺は一人、右も左もわからない世界に呼び出されたと言う事か。
「なんで俺は呼び出されたのですか?」
「この世界には十年に一度魔王が生まれるのです。その魔王を倒していただくために、お呼びいたしました」
「まっ、魔王!?」
いやいやいや、素人にそんな大層な名前のついた奴を任せちゃだめだろ!?
そもそも、俺よりエムナイルの方がはるかに強いだろ。俺はいたって普通の高校生だ。特別な力なんて持っていないし、喧嘩だって弱い。
そんな俺を呼ぶより、スポーツに長けている人とか、武術家とかを呼びだせば良いものを。
この爺が簡単に倒したあの獣にすら、震えて逃げる事すらできなかった俺だ。
はっきり言って、呼び出しただけ損。戦力にもならない俺より、もっと強い奴を呼びだすか、エムナイル自ら行けばいい。
あっ、それ良いじゃん。俺はこのまま元の世界に帰してもらおう。
「俺じゃ無理です。帰してください」
「今はそうかもしれませぬが、修行を積めば、私よりも優れた使い手になる事ができます」
修行を積めば魔法が使えるようになる? いや、それはお前達限定だろ。俺は普通の人間だ。
もし、そんな事が修行次第でできるようになるのなら、俺の世界にも魔法使いがあちこちにいてもいいはずだ。
「いや、無理無理無理」
「今は信じる事ができないかもしれませぬが、本当の事なのです」
この爺。断ってるのがわからないのか?
だんだんイライラしてきた。
「無理です。僕は普通の人間ですから。あんな光の矢なんて使えませんし、使いたいとも思った事ありませんし」
「あなたは魔王を倒せる数少ない勇者になりえるのです」
全力で断っているのに、まるで退かないエムナイル。
ぶちっと、俺の中で何かが切れた。
「勇者になんてなりたくねえって言ってんのがわからねえかな! なんで自分を危険にさらして異世界の、それもまったく知らない人を助ける為に修行を積まなきゃいけねえんだよ!?」
この爺が言っている事は完全に自分勝手だ。俺の命や生活なんてまるで気にしていない。
俺の豹変した態度にエムナイルは目を大きく開けて驚いていたが、そんな事お構いなしに続ける。
「俺は一般人なんだよ。そんな俺が他の世界を救うなんてあり得ねえ! 俺は普通に暮らす事ができればいいんだ。勇者になんかなれなくて良いから早く元の世界に戻せよ! まさか元に戻る術はないなんて言うんじゃねえだろうな!?」
怒りをぶちまけ、収まるどころかさらに溢れだした。一気に言葉にしすぎたせいで肩で息をしなければいけなかったが、それでも収まる気はしない。
エムナイルが老人じゃなかったら、胸倉掴んでいるところだ。
「その辺にしといてくんねえかな?」
不意に掛けられた声。この声は聞いた事がない。俺は声がした先――驚きの表情を浮かべていたエムナイルの後ろからこちらへ歩いてきている青年に目を向けた。白い服の上に皮でできた鎧を着ている所から推測するに兵士の一人だろうか。肉体はがっちりとしていて、身長も俺より10cm以上高そうだ。180cmは超えているだろう。
「あんたは?」
短く、正体を促した。怒りで礼儀なんて気にしている場合ではない。
「同士……かな。しかし、驚いたな。また日本人だ」
青年は嬉しそうに笑っていた。同士…? 日本人? まさか!?
「あんたも?」
「そう。お前がいた世界から召喚された日本人だよ」