第7話: 届いた汚濁――実家からの「命令」
幸せは、ガラス細工のように脆い。
そんな強迫観念が、私の心の奥底には、今も澱のように沈んでいる。
朝食のテーブルに届けられた通告は、その不安を具現化したような代物だった。
「……それは、エルトマン伯爵家からの手紙、ですか?」
私が恐る恐る尋ねると、ジークフリート様の隣に立つブリギッテ様が、苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
ジークフリート様の手の中にある封書。
そこには、見覚えのある、傲慢な飾り文字で私の名が記されていた。
「読み上げようか。……いや、君の耳を汚す価値もないな」
ジークフリート様の声は、低く、低く、地を這うような冷気を帯びている。
彼は無造作に手紙をテーブルに放り出した。
開かれた便箋には、義母の、あの甲高い声が聞こえてきそうな文面が並んでいた。
『親愛なるリリアーナへ。
死なずに生き延びているようで安心しました。
公爵閣下が貴女を随分とお気に召しているという噂を耳にしましたよ。
流石は我が家の娘。閣下に上手く取り入って、こちらの事業への出資を取り付けなさい。
来月の夜会には、我が家への献上品として、最高級の魔石を十個、持参すること。
……分かっていますね? 貴女の代わりなど、いくらでもいるのですよ』
「…………」
指先が、ガタガタと震え出した。
喉の奥が引き攣り、呼吸が浅くなる。
「代わりはいくらでもいる」――その言葉が、暗い呪文のように私の思考を縛り付ける。
(ああ、やっぱり。私は、道具としてしか必要とされていない)
もし、私が閣下のお役に立てなくなったら。
もし、この「熱」が消えてしまったら。
私はまた、あの暗い納屋に戻されるのか。それとも、もっと冷たい場所に――。
「……リリアーナ」
名前を呼ばれ、びくりと肩を揺らした。
気づけば、ジークフリート様が私の目の前に立っていた。
その灰青色の瞳は、荒れ狂う吹雪のような怒りに染まっている。
「ひっ……ごめんなさい、旦那様! すぐに、すぐに手配いたしますから、どうか……っ」
「……何を謝っている」
彼は私の両肩を、壊れ物を扱うような手つきで、けれど逃がさないように強く掴んだ。
「その泥のような手紙を読んで、なぜ君が怯えなければならない。なぜ、君が謝る必要がある」
「だって、私は、お役に立たなければ、いけないから……」
「黙れ」
鋭い否定の言葉。
けれど、その後に続いたのは、私を溶かすほどの熱い抱擁だった。
「君は、誰の許可を得て自分を貶めている。……君を愛することはないと言ったのは私だが、君を傷つけることを許した覚えはないぞ」
ジークフリート様は私の耳元で、歯噛みするように囁いた。
彼の大きな手が、私の背中を何度も、何度も、宥めるように撫でる。
「……ブリギッテ」
「はっ」
「エルトマン伯爵家との、一切の交流を断絶しろ。……それと、この手紙の送り主には、『私の妻を脅かした報い』を理解させる必要があるな」
ジークフリート様がパチン、と指を鳴らす。
その瞬間、テーブルの上の手紙が、瞬時に氷の結晶へと変わり、粉々に砕け散った。
風に舞う氷の欠片は、ダイヤモンドのように美しく、そして残酷だった。
「リリアーナ。……見ていろ。君を『ゴミ』と呼び、君の熱を搾取しようとした者たちが、いかに無力かを」
彼は私の顔を上げさせると、濡れた頬を親指で優しく拭った。
「来月の夜会には、私と共に出る。……最高級の魔石など、持っていく必要はない。君自身が、誰よりも輝く私の『至宝』であることを、あの愚か者たちの目に焼き付けてやる」
「旦那様……」
「……顔を上げろ。君が泣くと、城中の氷が溶けて洪水になりそうだ。……私の胸だけを温めていればいいと言っただろう」
不器用な、あまりにも不器用で、苛烈なまでの愛。
ジークフリート様の独占欲は、今や身内だけでなく、外部の敵へとその矛先を向け始めた。
彼にとって、リリアーナを傷つけることは、彼自身の魂を削り取ることと同義だった。
「……さあ、マリエッタを呼べ。夜会のための、世界で一番贅沢なドレスを選ばなくてはな」
ジークフリート様の冷徹な瞳の奥に、確かな「殺意」と、それを上回る「執着」が燃え盛っていた。
リリアーナを救うための、美しき処刑の幕が上がろうとしていた。
実家からの「泥のような手紙」を、文字通り氷砕したジークフリート様。
「私の妻を脅かした報い」という言葉に、スカッとしていただけたでしょうか。
物語はここから、第一章のクライマックス「夜会」へと向かって加速します。
リリアーナが最高に美しく着飾られ、実家を絶望の淵に叩き落とす瞬間が楽しみ!という方は、ぜひ【評価】や【ブックマーク】をお願いいたします。
次回、第8話「銀嶺の夜会への招待状」
公爵様による、度を超えた「お買い物(甘やかし)」が始まります。
霧島 結衣でした。




