第5話: 凍土に咲く花、騎士団長ブリギッテの驚愕
「……閣下、失礼いたします。本日の練兵の報告に――」
騎士団長ブリギッテは、執務室の扉を開けた瞬間に凍りついた。
文字通り、物理的に、だ。
室内の温度が、普段のマイナス十度から、さらに急降下している。
原因は、机に向かう主君――ジークフリート・フォン・アイスベルク。
彼は凄まじい形相で、窓の外……城の中庭を凝視していた。
「閣下? 何か、敵襲でも?」
「……ブリギッテ。あの男は誰だ」
地獄の底から響くような声で、ジークフリートが指し示した先。
そこには、一輪の冬薔薇を大切そうに抱えたリリアーナと、彼女に鼻の下を伸ばして話しかけている若い新人騎士の姿があった。
「ああ、あれは今年入ったばかりのカイルですね。リリアーナ様が、凍りかけた花を魔力で温めて救っていらしたのを見て、感動したようで」
「……馴れ馴れしい。殺す」
「閣下、落ち着いてください。ただの挨拶です」
ブリギッテは溜息をついた。
数日前まで、「生贄」として来た令嬢に「愛することはない」と言い放っていた男が、今や彼女が視界から消えるだけで周囲の気温を下げ、他の男と喋れば氷点下まで叩き落とす。
(あの冷徹な閣下が、まさかここまで重度の『愛妻家』……いえ、『狂犬』に変貌するとは)
その時、中庭のリリアーナがこちらに気づき、ぱあっと花が咲くような笑顔で手を振った。
「旦那様! 見てください、こんなに綺麗な薔薇が!」
その瞬間。
部屋を支配していた絶対零度の殺気が、嘘のように霧散した。
ジークフリートは無表情を装いながらも、窓枠を掴む手に力が入りすぎて、みしりと石材を砕いている。
「…………。ああ、そうか。良かったな」
「あの、閣下。返事がぶっきらぼうすぎて、リリアーナ様が不安そうな顔をされていますが」
「……っ。……ああ、リリアーナ! その花よりも、君の方が……っ、いや、何でもない。戻れ、風邪を引く!」
ジークフリートは顔を真っ赤にして叫び、バタンと窓を閉めた。
そして、執務机に突っ伏して、誰にも聞こえないような小声で「……眩しすぎる。毒だ、あれは猛毒だ……」と呻いている。
ブリギッテは呆れ果てて天を仰いだ。
◇◇◇
夕刻。リリアーナは、マリエッタと一緒に城の厨房へ向かっていた。
自分にできることはないかと、得意の掃除や料理を申し出たのだ。
「リリアーナ様! この『魔石のコンロ』、磨いてくださったんですか!? 新品みたいにピカピカですよ!」
「ええ。汚れを浮かせる魔法、これくらいしかお役に立てなくて」
「何を仰いますか! おかげで今日の夕食は、いつもより火の通りが早いですよ!」
厨房のスタッフたちも、最初は「公爵夫人が厨房なんて」と戸惑っていた。
だが、リリアーナの飾らない性格と、彼女が通った後に残る「陽だまりのような温かさ」に、あっという間に懐柔されてしまったのだ。
今や、城の住人たちの合言葉は「リリアーナ様を泣かせる奴は、閣下よりも先に俺たちが凍らせる」になりつつある。
「……リリアーナ」
背後から、低く、甘い声が響いた。
振り返ると、そこには不機嫌そうな(けれどどこか落ち着かない様子の)ジークフリート様が立っていた。
「旦那様! お仕事は終わったのですか?」
「……ああ。君が、こんなところで油の匂いをさせていると聞いたからな」
彼はリリアーナのそばに歩み寄ると、周囲の料理人たちの視線を遮るように、彼女の肩を抱き寄せた。
「……私の部屋へ戻るぞ。……冷えてきた」
「えっ、でも、私はまだお掃除が……」
「……命令だ。温めてくれ。……私が、凍えそうだ」
耳元で囁かれたその言葉は、ひどく卑怯だった。
彼のような強大な魔導師が、たかだか城の中の寒さで凍えるはずがない。
けれど、彼に触れられている場所から伝わってくる「震え」は、本物だった。
触れていないと壊れてしまいそうな、飢えた獣のような渇望。
「……はい、旦那様。今すぐ、お部屋へ参りましょう」
リリアーナがその大きな手に自分の手を重ねると、ジークフリート様は満足そうに目を細めた。
そのまま、彼女を隠すようにマントで包み込み、足早に立ち去っていく。
残されたブリギッテは、床に残された「公爵様の熱烈すぎる嫉妬の残滓(床の霜)」を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「……あの御方、もうリリアーナ様なしでは一日も持ちませんね。……エルトマン伯爵家、震えて眠るがいいですよ。今の閣下は、リリアーナ様を泣かせた過去のすべてを、物理的に粉砕しそうな勢いですから」
北の凍土に、今、かつてないほど激しい「愛」という名の嵐が吹き荒れようとしていた。
ジークフリート様の独占欲が、周囲を巻き込んで暴走し始めました。
「冷酷公爵」の面影はどこへやら、リリアーナの一挙手一投足に振り回される彼の姿に、ニヤニヤしていただけたでしょうか?
「ブリギッテさんのツッコミがいい味出してる!」
「早く実家をボコボコにしてほしい!」
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次回、第6話「『私だけを見ていろ』公爵様の独占欲」
二人の距離が、物理的にも、魔力的にも、さらにゼロ距離へと近づきます――。
霧島 結衣でした。




