第16話: 甘い蜜月と、忍び寄る『聖女の代償』
「……リリアーナ。……また、逃げようとしているのか」
深い眠りの底から引き戻されたのは、耳元で囁かれる、熱を帯びた低い声のせいだった。
目を開けると、すぐ目の前にジークフリート様の灰青色の瞳がある。
朝陽を浴びた銀青色の髪が、シーツの上に散らばって、まるで魔法の糸のように私を絡め取っていた。
「逃げるなんて……。私はただ、マリエッタを手伝おうと……っ」
「……許さないと言っただろう。……朝のこの時間は、私のものだ」
彼は私の腰をさらに強く引き寄せ、自分の胸板へと押し込める。
薄い寝衣越しに伝わってくる、彼の逞しい鼓動。
かつては「氷のよう」だと思っていたその肌は、今や私を焦がさんばかりの熱に満ちていた。
聖騎士アーサーを追い払ってから、数週間。
ジークフリート様の溺愛は、もはや周囲が呆れを通り越して心配するほど、苛烈なものになっていた。
執務室にまで私を連れて行き、膝の上に乗せたまま書類に目を通すのは当たり前。
食事はすべて彼の手から与えられ、お風呂上がりには自ら私の髪を梳き、乾かしてくれる。
「……旦那様。……本当に、お仕事に行かなくてよろしいのですか? ブリギッテ様が、廊下で剣を抜かんばかりの形相で待機していらっしゃいますよ」
「……放っておけ。……今の私にとって、君の体温を確認すること以上に重要な任務など存在しない」
ジークフリート様は、私の首筋に深く顔を埋め、吸い込むように呼吸を繰り返した。
「……ああ、温かい。……リリアーナ。……君は、本当に私のものなんだな。……夢ではないんだな」
「夢ではありませんわ。……私は、ずっとここにいます」
私が彼の背中に手を回すと、彼は満足そうに喉を鳴らした。
けれど――。
(……おかしいわ。……最近、どうしてこんなに身体が重いのかしら)
彼に抱きしめられている幸福感。それとは別に、鉛を流し込まれたような、得体の知れない倦怠感が私の四肢を蝕んでいた。
魔力が、足りない。
私の中にあった、あの溢れんばかりの「太陽」の熱が、少しずつ、けれど確実にどこかへ吸い取られているような感覚。
ふ、と視界が揺れる。
「……リリアーナ?」
ジークフリート様が、異変に気づいて顔を上げた。
その瞳に宿ったのは、一瞬の、けれど深い「恐怖」の色だった。
「……顔色が悪い。……どこか痛むのか? それとも、やはり私の冷気が……っ」
「……いいえ。……大丈夫です。ただ、少しだけ……眠いだけ……」
大丈夫。そう言おうとした唇が、思うように動かない。
まぶたが、何百キロもの重りをつけているかのように、ゆっくりと閉じていく。
「……リリアーナ! 目を開けろ! ……私の声が聞こえないのか!?」
ジークフリート様の叫びが、遠く、水の中に沈んでいくように聞こえる。
彼が私の肩を揺さぶる手。
頬を叩く、震える指先。
温めてあげたい。
あんなに悲しそうな顔を、させたくないのに。
「……旦那様。……大好き、です……」
それが、私の意識が途切れる直前の、精一杯の言葉だった。
◇◇◇
意識を失ったリリアーナの体が、ジークフリートの腕の中で力なく折れた。
「……リリアーナ? ……おい、冗談だろう。……起きてくれ、頼む……!」
ジークフリートは、狂ったように彼女の名を呼び続けた。
だが、彼女の蜂蜜色の瞳が開くことはなかった。
彼女の肌は、触れている場所からみるみるうちに熱を失っていく。
代わりに、彼自身の体温が、かつてないほどに上昇していた。
――アーサーの言葉が、呪いのようにジークフリートの脳裏に蘇る。
『貴方の冷気が彼女の体温を奪い続けている。……リリアーナ様は、誰かのための暖房器具として消費されるべき存在ではない』
「…………違う。……私は、そんなつもりでは……っ」
自分の手が、彼女を殺そうとしている。
愛すれば愛するほど、触れ合えば触れ合うほど、彼女の命を吸い取り、自分だけが「人間」になっていく。
ジークフリートは、自分の両手を見つめ、絶望に顔を歪めた。
部屋の温度が、彼の情緒の崩壊に合わせ、一気に氷点下まで叩き落とされる。
窓ガラスが粉々に砕け散り、吹雪が室内に舞い込んだ。
「……あああああああああああああッ!!」
銀嶺の城に、王の慟哭が響き渡った。
幸せという名の陽だまりは、一夜にして消え去った。
リリアーナが眠りについてから、三日が経とうとしていた。
氷の城は、再び、死よりも静かな絶望の繭に包まれようとしていた。
「幸せすぎて怖い」という予感が、最悪の形で的中してしまいました。
愛する人を救うために触れた熱が、実は彼女を削っていたとしたら……。
ジークフリート様の絶望は、いかばかりでしょうか。
「閣下が壊れてしまう! 早くリリアーナを助けて!」
「聖騎士の予言がこんな形で……。でも、ハッピーエンドを信じてる!」
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皆様の愛の力が、リリアーナを目覚めさせる光となります。
次回、第17話「『おはよう』と言わない君の、冷たい指先」
絶望に染まったジークフリート様が、ある「禁忌」に手を染めようとします。
霧島 結衣でした。




