(8)パオムの甘みと、無自覚な種火
商人ギルドを後にした健斗の足取りは、鉛のように重かった。
自慢の「現代知識」は魔法という合理的すぎる壁に阻まれ、切り札の「スマホ」は電池という初歩的な問題で弾かれた。
石畳を蹴る靴音だけが、虚しく通りに響く。
「……はぁ」
深い溜息をつき、とぼとぼと大通りを歩いていると、不意に背後から澄んだ声がかけられた。
「あら、奇遇ね。また会うなんて」
振り返ると、そこにいたのは昨日の喧騒の中、露店で果物を買っていた、あの白銀の髪を持つ尖った耳が特徴的な女性だった。
あまりの美しさに、健斗は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「あ……ええと」
「私はフィオラ。昨日は大変そうだったけど、今日は随分と落ち着いた格好をしているのね。……あなたは?」
彼女が優雅に微笑む。
その神々しいまでの姿におののきながらも、健斗はなんとか声を絞り出した。
「……ケント、と言います」
「ケントね。なんだか随分と落ち込んでいるようだけど……。さっき商人ギルドから出てくるのを見たわ。商談、上手くいかなかったの?」
図星を指され、健斗は顔を伏せた。
「……いえ、その。ちょっと、自分の考えが甘かったなと思い知らされたというか……」
「そう。でも、アラストリアの商人は手強いわよ? 外部から来たばかりの人なら、最初はみんな苦労するものだわ」
「やっぱり、よそ者だって分かりますか?」
「ええ。あなたの話す言葉……独特の響きがあるもの。それにその服の仕立て、この辺りでは見かけないものだわ」
フィオラはエメラルド色の瞳を細めて健斗を見つめながら、歩みを止めない。
健斗も彼女に導かれるように、自然と横を並んで歩く形になった。
「ケント、あなたはどこから来たの?」
「……すごく、遠くからです。山を越えて、もっとずっと先から」
「ふふ、ミステリアスなのね。でも、そんなに肩を落とさないで。アラストリアはチャンスも多い街なんだから」
そんな会話を交わしながら歩いているうちに、二人はあの猪頭の店主の露店の前に差し掛かっていた。
「まあ、そんなにくよくよしないで。ほら、これ」
フィオラは店主に小銭を投げ、並んでいた紫色の果実を一つ手に取ると、健斗に差し出した。
「甘いものでも食べて元気を出して」
それは、3ガルの『パオム』だった。
健斗は驚き、戸惑いながらも、彼女の優しさに促されるようにそれを受け取った。
「……いただきます」
皮のまま、かぶりつく。
その瞬間、マンゴーのような濃厚な甘みと、メロンのような芳醇な香りが口いっぱいに弾けた。
冷たい果汁が喉を潤し、疲れ切った体に染み渡っていく。
あまりの美味しさ。
そして、フィオラの不意の優しさ。
会社で磨り減らされ、異世界で拒絶された緊張感が、その甘みに溶け出すようにして一気に解き放たれた。
「……っ」
気づけば、健斗の目から大粒の涙が溢れ、石畳に落ちていた。
「おいおい、にいちゃん。俺の店の前で泣かれちゃ困るぜ」
猪頭の店主が呆れたように、しかしどこか温かみのある声で声をかけた。
「ま、人生いろいろあるがよ。うちのパオムを食って泣けるほど美味いと思えるなら、あんたはまだ死んじゃいねえよ。また出直しな」
「……ありがとうございます。本当に、元気が出ました。また来ます」
健斗が袖で涙を拭いながら感謝を伝えると、フィオラが満足そうに頷いた。
「いい顔になったわね。失敗なんて、次の成功のための『材料』にすぎないわ。頑張って、ケント」
フィオラはそう言って健斗の背中を軽く叩くと、通りの先を見据えた。
「さて、私はこれから冒険者ギルドで打ち合わせがあるから、ここでお別れね。また会いましょう、ミステリアスな商人さん」
彼女は軽やかな足取りで雑踏の中へと消えていった。
健斗はその背中が見えなくなるまで見送り、もう一度パオムの残りを頬張ると、決意を込めてあの路地裏へと向かった。
袋小路に到着し、彼は石壁を真っ直ぐに見据えた。
(……このままじゃ終われない。絶対に、あっちでやり直してやるんだ)
強い願いに呼応するように、何もない石壁に再び、あの白いクローゼットの扉が浮かび上がる。
「よかった……。開いた……」
健斗は迷うことなく、光の中へと飛び込んだ。
***
一歩跨げば、そこは生活臭あふれる六畳一間だった。
健斗はリュックを下ろすと、ベッドに倒れ込み、備蓄していたカロリーゼリーを胃に流し込んだ。
「……次はどうする。何を持っていく。あの果物みたいなのを、こっちで売る方法はないか……」
思考を巡らせながら、彼は習慣のようにスマートフォンを操作した。
ふと思い立ち、商人ギルドでマリリンやベルを撮影したあの十数秒の動画を、動画共有サイトに『非公開』でアップロードすることにした。
あくまで自分の活動記録として、そしていつか見返した時の証拠として。
タイトルは無機質に「20**年2月18日_商人ギルド」。
健斗はスマートフォンを枕元に置いた。
些細なミスには微塵も気づかず。
「……明日、また考えよう……」
泥のような眠気が押し寄せる。
重い瞼がゆっくりと閉じられ、健斗は深い眠りへと落ちていった。




