(6)商いの門と、美しき支部長
再び、あの光の渦を抜けた。
肺に流れ込むのは、昨日と同じ乾いた土と古い石の匂い。
健斗は震える足取りで路地裏に降り立つと、すぐさま背後を振り返った。
——そこには、何もなかった。
白いクローゼットの扉は跡形もなく消え失せ、冷たく古びた石壁だけがそびえ立っている。
心臓が冷たくなる。
もし、もう二度と扉が現れなかったら。
自分はこの見知らぬ世界で、野垂れ死ぬしかないのか。
一瞬、足がすくみ、引き返そうと壁を叩きそうになる。
だが、健斗は強く拳を握りしめた。
(……いいんだ。どうせ、あっちの世界に戻っても「居場所」なんてなかったんだから)
もう、退路は自分自身で断ってきたのだ。
健斗は荒い呼吸を整え、決意を込めて前を向いた。
今は、一歩でも先へ進むしかない。
***
表通りに出ると、あの猪頭の店主が、昨日と変わらぬ場所に立っていた。
「……なんだ、にいちゃん。また来たのか」
男は健斗の格好を下から上まで眺め、鼻を鳴らした。
「格好を改めてきたってことは、ちゃんと帰る場所はあるんだな。昨日はひでえパニックだったが」
「あ、いや……昨日はちょっと飲み過ぎてて、混乱してたんです。すみません」
苦し紛れの言い訳に、店主は「あー、酒か。なら仕方ねえな」とあっさり納得してくれた。
健斗は会話のついでに、気になっていたことを尋ねた。
「あの、ここで売ってる『パオム』、一個いくらですか?」
「ああ? 一個3ガルだよ。今朝は出来がいいから、安い方だ」
3ガル。
この紫色の果実が地球のリンゴ程度の価値だとすれば、1ガルはだいたい30円から50円、高くても100円はしない計算になる。
「……お金は今持ってないんですけど、物々交換とかはできますか?」
「はっ、うちは今時そんな面倒なことはやってねえよ。モノを売りてえんなら、この先の商人ギルドに行きな。鑑定料は取られるが、まっとうな値段で買い取ってくれるはずだ」
店主に場所を教えてもらい、健斗は活気溢れる表通りを歩き出した。
***
大通りは、昨日よりもさらに多くの人々で賑わっていた。
石畳の両脇には、色とりどりの天幕を張った露店がひしめき合っている。
煮えたぎる大鍋から立ち上がる、食欲をそそるスパイスと獣肉の匂い。
見たこともないほど巨大な鳥の脚を串焼きにして売る店。
棚に並ぶ、内側から怪しく発光する液体が入った小瓶。
行き交う人々も、地球の常識を軽々と超えていた。
狼の頭部を持ち、二足で歩く筋骨隆々の者。
全身を鱗のような皮膚に覆われ、爬虫類を思わせる瞳で周囲を睥睨する者。
神秘的な刺繍が施されたローブを深く被り、宙に浮く不思議な杖を携えた者。
看板に躍る幾何学的な文字は、読めないはずなのに、なぜか「仕立て屋」「薬草店」といった意味が直接頭に流れ込んでくる。
その不思議な感覚に戸惑いながらも、健斗は夢中でその光景を脳裏に焼き付けた。
***
やがて、通りの一角にひときわ立派な石造りの建物が現れた。
入り口に秤の紋章が刻まれたそこが、商人ギルドだった。
重厚な扉を開けると、中はまるで銀行のような整然とした空間だった。
健斗は恐る恐る受付の女性に声をかけた。
「あの……売りたいものがあるんですが」
「はい、商談ですね。品物は何でしょうか?」
受付の女性は慣れた手つきで書類を準備する。
健斗は周囲を警戒するように見回し、声を潜めて言った。
「ここではちょっと……。かなり貴重なものなので、できれば個室で話がしたいんです」
その言葉に、受付嬢の手が止まった。
彼女は健斗の安物の麻シャツと、見慣れぬ質感のリュックを怪訝そうに見つめた。
「個室……ですか? ですが、一見のお客様をいきなり奥へ通すわけには……。まずは品名の申告をお願いします」
「いや、本当に騒ぎになると困るんで……」
健斗が食い下がると、受付嬢はおろおろと困惑し始めた。
「怪しい一見客が無理難題を言っている」という空気が周囲に広がり始めた、その時だった。
「あらあら、どうしたの? 受付がそんなに困った顔をしちゃって」
背後から、独特な艶のある、しかし低い男の声が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは、この場の空気を一変させるほど強烈な個性を放つ人物だった。
その男は、一言で言えば「磨き抜かれた美丈夫」だった。
シルクのように滑らかな紫のローブを纏い、指先にはいくつもの魔石付きの指輪が光っている。
身なりは清潔そのもので、丁寧に整えられた髪からは高価な香油の香りが漂った。
だが、その立ち振る舞いや言葉遣いは、どこか妖艶で、いわゆる「オネエ」のような雰囲気を醸し出している。
「支部長……!」
受付嬢が救いを求めるように声を上げた。
商人ギルド・アラストリア支部長。
その男は、健斗の姿を爪の先から頭のてっぺんまで、ねっとりと嘗め回すように観察した。
「……あら、見慣れない格好ね。でも……。面白いわねぇ」
支部長は扇子を口元に当て、細められた瞳で健斗を見据えた。
「『貴重なもの』を個室で、ね。いいわ、私が直接対応してあげる。ついてきなさい、坊や」
支部長は優雅な足取りで奥の部屋へと歩き出した。
健斗はリュックのストラップを強く握りしめ、その後を追った。




