(5)再訪の決意と、わずかな準備
西新宿の喧騒を抜け、自室のドアを開ける。
健斗は真っ先に、毛布で覆い隠したクローゼットへと駆け寄った。
震える手で布の端を少しだけめくる。
そこから漏れ出した青白い光を見て、彼は肺の底から深い安堵の息を吐き出した。
「……まだ、消えてない」
椅子に腰掛け、昨日の出来事を一つずつ反芻する。
猪の顔を持つ大男、信じられないほど美しく耳の長い女性、そして子供の指先から放たれた水しぶき。
あの肌を焼く太陽の熱、鼻を突くスパイスの匂い、そして石畳を叩く蹄の音。
夢ではない。
あそこは、日本の、いや地球のどこでもない「異世界」だ。
冷静になると、奇妙なことに気づく。
あの時、自分は当たり前のように彼らと会話をしていた。
日本語など通じるはずのない世界で、なぜ意味が理解できたのか。
それと同時に、背筋を凍らせるような恐怖が込み上げてくる。
あそこは、日本の司法も警察も及ばない場所だ。
剥き出しの鉄の剣が、恐竜のような怪物が、当たり前のように闊歩している。
だが、その困惑や恐怖すらも、今の健斗にとっては些細なものだった。
好奇心と、人生を書き換えたいという渇望が、慎重さを塗りつぶしていく。
健斗はスマートフォンを取り出し、銀行のアプリを開いた。
画面に表示された預金残高は、312,450円。
三年間、人格を否定され、身を粉にして働き続けて積み上げた対価が、これっぽっちだ。
「これだけで、僕の三年間か……」
乾いた笑いとともに、彼は財布を掴んで立ち上がった。
***
二時間後。
健斗の両手には、パンパンに膨らんだ買い物袋が握られていた。
まずは身を守るための道具だ。
アウトドアショップで吟味したサバイバルナイフ。
そして防犯ショップで手に入れた、強力な放電音を鳴らすスタンガン。
次に、異世界ものの定番としての「商品」。
塩、砂糖、そして胡椒の瓶をいくつか。
さらに、自分の命を繋ぐための高カロリーなゼリー飲料と保存食、そしてペットボトルの水。
最後は、あちらの世界で少しでも目立たないようにと選んだ、地味なベージュの麻混のシャツと動きやすい革靴、そして頑丈なリュックサック。
部屋に戻った健斗は、手際よく荷物を詰め込んでいく。
麻のシャツに着替え、革靴の紐をきつく締め直す。
ふと、これが今生の別れになるかもしれないという思いがよぎった。
次もまた戻ってこれるという保証はどこにもない。
健斗はスマートフォンを手に取ると、メッセージアプリを開き、両親とのグループチャットに短い一言を打ち込んだ。
『今までありがとう』
送信ボタンを押すと、画面を消してポケットにねじ込む。
クローゼットの前に立ち、積み上げていたテーブルと椅子を脇へ退けた。
毛布を剥ぎ取ると、まばゆいばかりの光の渦が彼を迎え入れる。
健斗は深く息を吸い込み、リュックのストラップを強く握りしめた。
「……よし」
二度目の足跡を刻むため、
彼は迷いなく、光の向こうへと足を踏み出した。




