(4)決別と、朝の光
翌朝、会社へと向かう満員電車の空気は、昨日までと何も変わっていなかった。
人々の押し殺した吐息、スマートフォンの画面を見つめる虚ろな視線。
けれど、その中にいる健斗の心境だけは、劇的な変化を遂げていた。
自分の部屋のクローゼットには、あの「光」が眠っている。
その確信が、彼を支える鋼のような芯となっていた。
会社に入り、自分のデスクへ着くなり、上司が待ち構えていたかのように歩み寄ってきた。
「おい、佐藤! 昨日、お前どういうつもりで帰ったんだ? 投げ出したバグのせいで、こっちはどれだけ対応に追われたと思ってるんだ!それになんだその恰好は!スーツを着てこい、スーツを!」
朝一番の静かなオフィスに、上司の野太い声が響き渡る。
周囲の同僚たちは、昨日と同じように「関わらないように」と画面に目を落としたまま。
だが、健斗はもう、そんな視線に怯えることはなかった。
「佐藤、聞いてんのか! まずは謝罪だろ、謝罪——」
「あの、」
健斗は上司の言葉を遮り、鞄から一通の白い封筒を取り出した。
そして、淀みのない動きで、それを上司の目の前へと突きつけた。
「……退職届です。辞めさせていただきます」
「は……?」
上司の口が、間の抜けた形で止まった。
怒りで真っ赤だった顔が、一気に困惑へと塗り替えられていく。
「な、何を言って……。お前、この状況で逃げるのか? 無責任だろ!」
「退職日は一ヶ月後に設定しましたが、今日から残っている有給休暇をすべて消化させていただきます。ですので、出社するのは今日が最後です」
「ふざけるな! そんなこと認められるわけないだろ! 引き継ぎはどうするんだ! 仕事を舐めてるのか!」
喚き散らす上司に対し、健斗は足元に置いていた厚みのある紙の束を拾い上げた。
昨晩、寝る間も惜しんで、あの高揚感の中で作り上げた「結晶」だ。
「これ、引継書です。僕が担当していた全プロジェクトの進捗、未修正のバグの所在、クライアントとのやり取りの履歴……すべて網羅してあります。これを見れば、僕がいなくても業務に支障はありません」
ドサッ、という重々しい音が、上司のデスクの上に響いた。
上司はおろおろと、その紙の束を手に取った。
パラパラと捲るたび、その顔から余裕が消えていく。
そこには、誰が見ても文句のつけようがないほど完璧な、プロの仕事としての記録が刻まれていた。
「……これ、お前、いつの間に……」
絶句する上司。
その騒ぎに、ようやく同僚や先輩たちが顔を上げた。
「嘘だろ、あの佐藤が……」
「あんな引継書、いつ作ったんだ?」
驚愕と、どこか羨望の混じった視線が健斗に注がれる。
昨日まで彼を「哀れなサンドバッグ」として見ていた者たちの目は、今や理解不能な行動をとる異端者を見るものに変わっていた。
だが、健斗にとって、そんな周りの目などもうどうでもよかった。
「……では、失礼します。お世話になりました」
健斗は短く一礼すると、一度も後ろを振り返ることなくオフィスを後にした。
自動ドアを抜け、ビルの外へ出た瞬間、
肺に流れ込んできたのは、昨日までと同じはずの東京の空気だった。
けれど、なぜだろう。
鉄の味はもうしない。
目の前に広がるビル群の向こうに、自分だけが知っているあの青い空が重なって見える。
健斗の足取りは、羽が生えたように軽かった。
会社という名の檻から、自分を縛り付けていた日常から、
彼は今、本当の意味で解き放たれたのだ。




