(3)境界線の残響
肺が焼けるように熱い。
健斗はアパートの薄いカーペットに倒れ込み、激しく咳き込んだ。
視界がチカチカと明滅し、耳の奥では自分の心臓が、まるで警鐘のように早鐘を打っている。
「はぁ、はぁ……っ、ここは……」
顔を上げると、そこは見慣れた、そして忌々しいほどに狭い六畳一間だった。
床に転がったコンビニの空き容器、そして食べかけで冷め切った牛丼。
ほんの数分前まで自分を絶望の淵に追いやっていたはずの光景が、今はひどく遠い、異質な場所のものに見えた。
「夢……じゃないよな……?」
健斗は震える手で自分の体を確認した。
指先に残る石壁の冷たさ、鼻を突くスパイスの残り香。
そしてふと、自分の足元を見て動きを止めた。
仕事用の黒い靴下が親指のところで大きく破れ、そこには東京のアスファルトでは決して見ることのない、乾いた赤茶色の土がこびりついていた。
「……現実だ」
その瞬間、鳥肌が全身を駆け抜けた。
あれは幻覚でも、疲弊が見せた白昼夢でもない。
自分は確かに、あの喧騒の中に、あの美しい女性のいた街にいたのだ。
弾かれたようにクローゼットへ視線を向ける。
扉の隙間からは、いまだに細く鋭い光が漏れ出していた。
恐る恐る近寄り、取っ手に手をかける。
わずかに引くと、そこにはクローゼットの奥板などなく、銀色に輝く光の渦が静かに、しかし力強く渦巻いていた。
「まだ……繋がってる……」
その事実を認識した途端、猛烈な独占欲と恐怖が同時に湧き上がった。
もし、誰かに見つかったら?
もし、この光が外に漏れて、誰かが踏み込んできたら?
健斗は慌ててベッドから毛布を剥ぎ取ると、クローゼット全体を覆い隠すように被せた。
誰もいないはずの部屋を、不審なものを見るようにきょろきょろと見回す。
それだけでは足りず、食事兼作業用として使っていた小さなテーブルを引きずり、クローゼットの前に押し当てた。
あたかも、中にいる怪物を閉じ込めるか、あるいは自分だけの宝物を守り抜くかのように。
ふと壁の時計に目をやる。
部屋を出たのは、牛丼を一口食べた後だった。
針は、あの時からたった三十分ほどしか進んでいない。
「三十分……。あんなに走って、叫んで、死にかけたのに、たったこれだけなのか」
乾いた笑いが漏れた。
同時に、胸の奥から熱い塊がせり上がってくるのを感じた。
上司の怒号、同僚の冷ややかな視線、出口のないIT土方の日常。
それらすべてが、急激に色褪せていく。
あの圧倒的な太陽の輝きと、未知の熱気に満ちた世界を知ってしまった今では、この東京の片隅にある絶望など、ひどくちっぽけで、どうでもいいものに思えた。
健斗の目に、これまでになかった鋭い光が宿った。
彼はベッドの上に放り出していた仕事用のノートパソコンを引き寄せ、コンセントも繋がず、そのまま布団の上に座り込んで画面を開いた。
青白いディスプレイの光が、健斗の顔を照らす。
彼は憑かれたような手つきでキーボードを叩き始めた。
カタカタカタ、カカカッ——。
深夜の静寂に、タイピング音だけが激しく響く。
仕事のバグを直すためではない。
誰かに媚びるための報告書でもない。
それは、過去の自分を切り捨てるための儀式。
明日という日を、これまでとは全く違う意味に変えるための、猛烈なアウトプットだった。
健斗の口角が、わずかに吊り上がる。
汗に濡れたままの背中には、もう会社に対する憂鬱など微塵もなかった。




