(2)迷い人と、不確かな救い
静寂は、数秒続いた。
石畳を叩く地竜の蹄の音も、露店の客引きの声も、子供たちの遊び声も、その場のすべてが健斗の絶望的な叫びによって塗りつぶされた。
「……なんだあいつ?」
「変な服だな。どこかの流れ者か?」
突き刺さるような好奇の視線。
向けられるのは、東京で浴びた無関心という名の刃ではなく、得体の知れない異物を見るような、剥き出しの不審だった。
「おい、にいちゃん。どうしたんだ。腹でも壊したか?」
不意に、地鳴りのような太い声が健斗を叩いた。
びくりと肩を揺らして振り向くと、そこには先ほど看板を掲げていた猪顔の店主が、眉間に深い皺を寄せて立っていた。
鼻からは荒い鼻息が漏れ、その巨体は健斗の倍ほどもあるように感じる。
「あ……え、いや……その……」
健斗は喉の奥が引き攣るのを感じた。
挙動不審どころではない。
指先は震え、視線は泳ぎ、呼吸は浅くなる。
東京のオフィスで上司に詰められた時と同じ、いや、それ以上の圧迫感に、言葉がまともに出てこない。
「まるで知らない土地に放り出されたみたいにきょとんとしやがって。ここらが初めてか?」
「あ……はい……たぶん」
もごもごと答えるのが精一杯だった。
そんな健斗の様子に、足を止めていた野次馬たちも「なんだ、ただの変な奴か」と言わんばかりに興味を失い、また何事もなかったかのように歩みを進め始めた。
騒がしい日常の歯車が、健斗という異物を飲み込みながら再び回り出す。
「そんなに困ってるんなら、この通りの先にある衛兵の詰め所に行きな。迷い人の面倒を見るのもあいつらの仕事だ」
男が太い指で通りの先を指差した。
その時、隣で露店の品定めをしていた女性が、呆れたように会話に割り込んできた。
「本当、詰め所に行くのが一番よ。変にここで騒がれると、買い物に集中できないじゃない」
鈴の音を転がしたような、透き通った声。
健斗が思わず目を向けると、そこには絶句するほど美しい女性が立っていた。
陽光を浴びて白銀に輝く、絹糸のような長い髪。
細長くとんがった耳。
彫刻でも届かないほど整った目鼻立ちに、吸い込まれそうなほど深いエメラルドの瞳。
そして、透き通るような白い肌。
地球上のどんなカメラやフィルターを通しても再現できない、CGの極致ですら霞んで見えるような「非現実的」なまでの美しさがそこにはあった。
彼女は手にした紫色の果実を店主へ突き出した。
「おじさん、これ三個。リーダーがここの『パオム』じゃなきゃダメだって、うるさいのよ。いつも買い出しに行かされる身にもなってほしいわ」
「ははっ! うちのパオムは今朝採ってきたばかりで、この界隈じゃ一番の新鮮さだからな。冒険者稼業もリーダーがグルメだと大変だな、お嬢ちゃん」
猪頭の店主が笑いながら果実を袋に詰める。
その光景は、あまりに「日常」だった。
健斗は、そのやり取りをただ呆然と見守るしかなかった。
「なんだ、にいちゃん。まだなんか用か?」
不意に店主の視線が戻る。
健斗は喉を鳴らし、ようやく言葉を絞り出した。
「……あの、ここはいったい、どこなんですか」
「はぁ? どこって……そりゃあ、この『オルフェリア王国』の王都アラストリアだろうが。本当、頭でも打ったのか?」
店主の目が、不審から「危ない奴を見る目」に変わった。
彼はちょうど近くを通りかかった鎧姿の衛兵を見つけると、大きな手を振って呼び止めた。
「おい! 衛兵さん、ちょっとこいつを見てくれ! どうも様子がおかしいんだ!」
その声に、二人の衛兵が鋭い視線を健斗に向け、腰の剣に手を添えながら近づいてくる。
「……っ!」
健斗は反射的に背を向けた。
「あ、おい! 待ちやがれ!」
店主の声を背中に、健斗はもと来た路地へと全力で駆け出した。
「止まれ! 不審者め!」
背後から甲冑が擦れる金属音が響く。
石畳を蹴る足がもつれそうになるが、健斗は必死にかすかな記憶を辿った。
右、左、そして——最初に踏み出したあの袋小路。
迷路のような路地を疾走し、ようやく目的地に辿り着く。
しかし、そこにあるのは冷たくそびえ立つ石壁だけだった。
「ない……扉が、ない……!」
狂ったように壁を叩く。
だが、そこにはあのクローゼットの木目などどこにもない。
遠くから、衛兵たちの怒号と足音が近づいてくる。
(帰りたい……。あのカビ臭い部屋でもいい。あの味がしない牛丼でもいい。帰らせてくれ……!)
絶望が極限に達し、健斗が強く目を閉じたその時。
目の前の石壁が、蜃気楼のように揺らぐ。
そして、そこには不自然なほど白い、あのアパートのクローゼットの扉が「出現」した。
「……ッ!」
「この先は袋小路だ、逃げ場はないぞ!」
背後からの衛兵たちの足音が大きくなっていく。
健斗は考えるよりも先に、扉の取っ手に手をかけ、中へと飛び込んだ。
直後、衛兵たちが袋小路へ踏み込んだが、そこには行き止まりの石壁があるだけだった。
「消えた……?」
一人の衛兵が呆然と呟く。
男の姿も、ましてや「扉」なんて奇妙なものも、どこにも存在しなかった。
ただ、乾いた風が石畳を吹き抜ける音だけが、路地裏に残されていた。




