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(12)泥の中の「秘密」

 赤煉瓦の壁と、乾燥した泥を塗り固めた家々が入り組んで立ち並ぶ住宅区。

 その軒下を縫うように、石積みの溝——どぶが商業区へと向かって伸びている。


 家々の壁面からは陶器製の排水管が突き出し、そこから灰色に濁った煮炊きの残り湯や、洗濯に使ったのであろう泡混じりの水が、バシャバシャと音を立てて直接どぶへと流れ落ちていた。


 王都の華やかな表通りのすぐ裏側に存在する、この泥臭い境界線が、健斗の記念すべき「初依頼」の現場だった。




「ああ、ギルドで受けたってのは君か。よく来てくれたね」


 現場で待っていたのは、疲れた顔をした若手の役人だった。


「この依頼、年中出してるんだけどね……なかなか受けてくれる人がいなくて。我々役人も手分けしてやってるんだが、まあ、若手も積極的に手を動かしたがらなくてね。作業は遅々として進んでいないんだよ」


 役人はため息をつきながら、羊皮紙の図面を広げた。


「この起点から全長で5チルトほどあるんだが、今日は200チルトルほどお願いしたい。……ああ、イメージが湧かないか? あの先に見える、尖塔の下あたりまでだよ」



 健斗は目を細め、距離を測った。

 だいたい50メートルといったところか。


「汚れるから、服はこれを。ブラシはそれを使って。水魔法が使えれば早いが……まあ、使えなくてもできる仕事だ。終わったら横の井戸で身体を流して、私に報告に来てくれ」



 健斗は手渡された作業用の分厚い衣類に着替え、近くに無造作に置かれていたデッキブラシによく似た無骨な清掃用具を握りしめた。




***




 どぶの溝は、人一人が両手を広げたほどの幅があり、深さは腰のあたりまである。

 足を踏み入れると、足首の高さままで積もったヘドロ状の泥が、じっとりと革靴を飲み込んだ。


(よし……やるしかない)



 健斗は一心不乱にブラシを動かし始めた。


 溝の底には粘り気のある泥が堆積し、生活排水の流れを堰き止めている。


 鼻を突くのは、どこか重油を思わせるオイルのような匂いと、卵が腐ったような硫黄の腐敗臭。

 だが、不思議なことに排泄物のような汚物の匂いはほとんどない。


(下水がちゃんと整備されているのか……? 魔法文明、意外と衛生的だな)


 客観的な分析を頭の片隅に置きながら、健斗は泥を掻き出し、溝を磨いた。



 「魔力ゼロ」という現実。

 特別な力がないのなら、人一倍働くしかない。



 カメラは、泥にまみれながらも必死に身体を動かす健斗の姿と、異世界の路地裏に堆積した「生活の断片」を淡々と記録し続けた。




***




 尖塔のふもとまで掃除を終える頃には、陽は少し傾いていた。


 健斗は約束通り、井戸の水を汲み上げると、頭から思い切り浴びた。

 冷たい水が、労働の熱を心地よく奪っていく。


 身体を拭きながら、健斗は胸元のウェアラブルカメラに手をかけた。


 予備のバッテリーに交換しようと、リュックを井戸の縁に置いた、その時だった。


「あっ……!」


 濡れた指先が滑り、小さなバッテリーが、吸い込まれるように井戸の底へと落ちていった。


「嘘だろ……」


 覗き込んでも、深い闇と水面が見えるだけだ。


 現代の貴重な電源を失う絶望。



 あたふたとする健斗の背後に、懐かしい声が響いた。


「——本当に、放っておけない人ね」


 振り返ると、そこにいたのはフィオラだった。

 彼女は困り顔で、しかしどこか深みのある眼差しで健斗を見つめている。


「フィオラさん……。 どうしてここに……」


「大事なものを落としたんでしょう? 大丈夫、私に任せて。『エルフ』である私は、自然に干渉する魔法は、少しだけ得意なのよ」



 フィオラが唇を動かし、微かな囁きを紡ぐ。


 すると、井戸の底から「ゴボッ」という音が響いた。



 水面が生き物のように盛り上がり、一本の細い水柱がせり上がってきたのだ。


 その頂点には、健斗が落としたバッテリーが、宝石のように掲げられていた。


「ほら、これね」


 水柱は健斗の手元まで伸び、静かにバッテリーを届けた。


「ありがとうございます……。助かりました。でも、どうして僕の居場所が?」


「ギルドで登録しているのを見かけたわ。無鉄砲に依頼を受けていないか心配で、後ろをついてきちゃったの。すぐに声をかけて手伝おうかと思ったけど、それはケントのためにならないと思って。……でも、流石に井戸に物を落として困っているのを見て、我慢できなくなったのよ」


 王都で出会ったばかりの、この世のものとは思えない美女が、自分のために尾行し、心配してくれていた。

 その事実に、健斗の心臓がどくん、と激しく跳ねた。



「どうして……そんなに僕のことを心配してくれるんですか?」



 健斗の問いに、フィオラはいたずらっぽく、エメラルド色の瞳を輝かせた。



「——それは、秘密よ」


 はぐらかすような言葉。


 フィオラはどこか楽しげに、それでいて慈しむような眼差しで、呆然とする健斗を見つめていた。




***




 その後、健斗は役人のもとへ報告に向かった。


 磨き上げられたどぶの出来栄えに、役人は目を見開いて感銘を受けていた。


「素晴らしい! ここまで丁寧にやってくれる人は初めてだ。明日も、ぜひ君にお願いしたいんだが……受けてくれるかな?」


「はい。よろしくお願いします」


 健斗は力強く答えた。


 魔力がなくても、この手で稼げる場所がある。

 そして、自分を気にかけてくれる存在がいる。



 泥だらけの初仕事は、予想もしなかった温かな収穫と共に幕を閉じた。

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