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(1)クローゼットの向こう側

 東京の空気は、いつも少しだけ鉄の味がする。


 地下鉄の排気と、数百万人の溜息が混ざり合ったような、湿り気を帯びた重苦しい空気。



 二十代半ばの佐藤健斗さとう けんとにとって、その空気は肺の奥にこびりついて離れないおりのようなものだった。




「……すみませんでした」


 何度目か分からない謝罪を口にする。


 視界の端で、デスクトップパソコンの冷却ファンが無機質な音を立てて回っている。

 上司の怒号は、その音よりもずっと耳障りだった。


「謝って済むならプロはいらねえんだよ! お前、IT企業に入った自覚あんのか? この程度のバグも見抜けねえで、よく給料泥棒ができるな!」


 理不尽だった。


 そのバグは、健斗が担当するずっと前から放置されていた設計上のミスだ。


 指摘したはずだった。


 だが、上司はそんな事実はどうでもいい。


 ただ、誰かを叩くための「サンドバッグ」が欲しいだけなのだ。



 健斗は小さく頭を下げたまま、視線だけを周囲に這わせた。


 三年間、共に残業し、終電を逃して飲み明かしたこともある同僚や先輩たち。


 しかし、彼らは一様にディスプレイを見つめ、キーボードを叩く手を止めない。

 まるで健斗がそこに存在しないかのように。



 誰もが「関われば自分も巻き込まれる」と、透明な壁を隔てて息を潜めている。


(……ああ、人間って、こんなに淡白なもんなんだな)


 仲間だと思っていたのは自分だけだったのかもしれない。



 突きつけられた無関心というナイフが、上司の怒号よりも深く、健斗の心を削り取っていった。




***




 逃げるように会社を飛び出し、いつものチェーン店で牛丼を買って、西新宿の端にある築二十年のワンルームへと戻った。



 六畳一間の部屋は、健斗の精神状態をそのまま形にしたように荒れ果てていた。


 床には数日前に脱ぎ捨てたワイシャツが力なく転がり、コンビニの空き容器がプラスチックの山を作っている。


 デスクの上には絡まり合った充電ケーブルが血管のようにのたくっており、隅に溜まった埃が、窓から差し込む西日に照らされて白く浮き上がっていた。



 狭く、暗く、カビの匂いが染み付いた空間。


 ここには健斗を待つ者も、彼を肯定する物も一つとして存在しない。




 スーツの上着をベッドに放り投げ、買ってきた牛丼を口に運ぶ。


 大好きなはずなのに、舌の上に乗った肉も米も、まるで湿った紙を噛んでいるようで味がしない。

 喉を通る感触だけが、かろうじて自分が生きていることを教えてくれる。



 箸を置き、スマートフォンを手に取る。


 連絡先の最上部にある「実家」の文字。


 指が画面の上で震える。


「……帰りたい」


 呟きは、虚空に消えた。



 会社を辞めたい。


 実家に帰りたい。


 けれど、期待を背負って送り出してくれた親に、このゴミ溜めのような部屋で、一人の味方も作れず潰れかけている無様な姿をどう伝えればいいのか。


 情けなさと罪悪感が鉛のように胸に溜まり、どうしても発信ボタンを押すことができない。


(消えたい……。この世界から、全部消えてしまいたい)


 今の自分にとって、この部屋の四角い壁は、人生の袋小路そのものだった。





 絶望が飽和したその時だった。





 部屋の隅、唯一の収納であるクローゼットの隙間から、細く鋭い光が漏れ出した。



 最初は、隙間風が光を反射しているだけだと思った。


 だが、光は次第に強まり、青白い輝きを帯びてクローゼットの輪郭を浮き彫りにしていく。


「な……なんだよこれ……」


 扉に手をかけると、そこから漏れる空気はやけに暖かく、どこか懐かしい「乾いた土と草の匂い」がした。



 扉を引くと、そこにはクローゼットの奥壁ではなく、吸い込まれるような光の渦が広がっていた。



 恐怖が背筋を駆け上がる。


 現実ではあり得ない現象。


 開けてはいけないパンドラの箱。


 だが、それ以上に健斗の心を突き動かしたのは、焼け付くような「好奇心」と、この息苦しい日常から「逃げ出したい」という切実な願望だった。



 ここより酷い場所なんて、きっとない。



 健斗は意を決して、光の向こうへと一歩を踏み出した。




***




 光の渦を通り抜け、健斗が最初に感じたのは「空気の重さ」の違いだった。


 エアコンの乾燥した風でも、都会の排気ガスでもない。


 濡れた石と、古い木材、そして遠くの野山から運ばれてきたような、濃密で力強い土の匂い。



 一息吸い込むごとに、淀んでいた肺の奥が洗われるような感覚に、健斗は思わず激しくむせ返った。


「げほっ、ごほっ……なんだ、ここ……」


 足元は、不揃いな平石が敷き詰められた狭い路地だった。



 背後を振り返れば、そこには自分の部屋のクローゼットがあるはずだった。


 しかし、そこにあるのは蔦に覆われた古びた石壁だけで、扉の影も形もない。


 退路が消えた恐怖で心臓が跳ねたが、それ以上に、路地の先から漏れ聞こえてくる「音」が彼の足を一歩前へと突き動かした。




 健斗は、震える手で冷たい壁を伝いながら、ゆっくりと歩き出した。


 靴下を通じて石畳の細かな凹凸が伝わってくる。


 左右の建物は、上階にいくほどせり出した不安定な木造建築で、空を細い線のように切り取っている。


 建物の隙間からは、煮炊きをしているのか、薪がはぜる香ばしい煙の匂いが漂ってきた。



 路地を抜けるたびに、静寂が少しずつ削り取られていく。


 最初は遠くの波音のように聞こえていたざわめきが、一歩ごとに輪郭を持ち始めた。



 人々の叫び声、重い荷車が軋む音、獣の唸り、そして聞いたこともない楽器の音色。


 角に近づくにつれ、路地の出口が逆光のように白く輝いて見える。



 健斗は、壁を掴む指先に力を込めた。


 一歩。


 最後の一歩を踏み出し、路地の影から身を乗り出した。




 その瞬間。




 視界を埋め尽くしていた影が消し飛び、爆発的な光と熱が、そして圧倒的な情報の奔流が、無防備な健斗の全身を貫いた。




「……っ!?」



 眼前に広がるのは、磨り減った石畳がどこまでも続く広大な目抜き通り。

 そこに溢れる情報の奔流に、健斗の脳は一瞬でオーバーヒートを起こしかけた。


 カラン、カランと軽快な音を立てて進むのは、馬ではない。

 三メートルはあろうかという巨体、鱗に覆われた太い脚を持つ、恐竜のような地竜が曳く巨大な馬車だ。


 雑踏には、絵本の中から飛び出してきたような人々が蠢いている。


 身の丈ほどもある無骨な大剣を背負い、使い込まれた革鎧を纏った戦士。

 その隣を歩くのは、扇情的なビキニアーマーに身を包み、腰に細身のレイピアを下げた美しい女。


 路地を走り回る子供たちは、笑い声を上げながら指先を宙に向けた。

 すると、何もない空間から透明な水の玉が勢いよく飛び出し、水鉄砲のように友人たちの背中を濡らしていく。

 飛沫が、陽光を反射してキラキラと輝いている。



 露店からは、焦げた肉の脂の匂いと、嗅いだこともない芳醇なスパイスの香りが立ち上っている。


 麻のローブを纏った長くとがった耳を持つ女性が、毒々しいほどに鮮やかな紫色の果実を品定めし、その横では体長2メートルは越える猪のような顔をした二足歩行の生物が、地響きのような声で笑いながら看板を掲げていた。




 空の色、空気の密度、人々の放つ生命力。


 すべてが、東京の冷たいワンルームとは正反対の熱を帯びている。



 夢ではない。


 これは、幻覚などではない。



 肺に流れ込む空気には、もう、あの鉄の味など微塵もしなかった。




 極限まで張り詰めていた健斗の心の中で、何かが音を立てて爆発した。


「う、わぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 喉が張り裂けんばかりの声。


 喧騒が止まる。


 長い耳の女が、剣を背負った男が、水を飛ばして遊んでいた子供たちが、一斉に足を止め、路地の入り口に立つ「異質な格好をした男」へと驚愕の視線を向けた。




 佐藤健斗は、別の世界へ、本当に「消えて」しまったのだ。

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