フェンリルと恩恵
「至高のクロワッサン」を食べ終え、身体から漲る力に興奮冷めやらぬ様子のスノウと、俺は店を出た。まずは周辺を歩き、何がパンの材料になり得るのかを確かめる必要がある。
「ケンタ、こっちだよ! こっちから、すごく強くて……美味しそうな匂いがする!」
先導するスノウは、羽が生えたような軽やかさで獣道を駆けていく。その跳躍一つとっても、昨日までの彼女とは明らかに「出力」が違っていた。
「おい、スノウ! あんまり飛ばすなよ!」
「大丈夫だってば! あ……」
不意に、スノウの足が止まった。木々の開けた場所にそいつはいた。
体長は3メートルを超え、頭部にはねじれた巨大な角。全身が岩のような筋肉で覆われ、周囲の空気を震わせる巨獣――『剛角獣』だ。
「……ありゃ、ただの牛じゃないな」
俺が息を呑む隣で、スノウが低く唸る。
「……ケンタ、あいつ。前に一人で森にいた時、戦ったことがあるんだ。あいつはAランクの魔獣で、森の主の一体。……その時の私はまだ小さくて、攻撃が全然効かなくて……命からがら逃げ出したんだよ」
この世界の魔獣には、SS(伝説級)からD(一般獣級)までのランクがあるらしい。本来、スノウのようなフェンリルはSSランクに君臨する種族だが、幼い今の彼女にとって、単体でAランクの剛角獣を相手にするのは死を意味していた。
スノウの瞳には、かつての恐怖がわずかに過った。だが、彼女は自分の拳を握り、驚いたように目を見開いた。
「でも、今の私なら負けない。ケンタのパンを食べたから、わかるんだ……今の私、無敵だよ!」
スノウが地面を蹴った。
ドォォン! と空気が爆ぜるような音がして、彼女の姿が消える。
剛角獣は角を突き出して突進してくるが、スノウは空中で魔力を練り上げた。
「氷牙突!!」
スノウの手元に、巨大な氷の牙が形成される。かつては傷一つつけられなかったその奥義が、至高のパンによる『恩寵の付与』によって白銀の輝きを増し、絶対的な破壊の槍へと進化していた。
ズドォォォォォン!!
凄まじい衝撃波が森を駆け抜けた。
かつての宿敵が嘘のように、氷の牙はアイアンバイソンの岩のような皮膚をバターのように易々と貫き、その巨体を一撃で氷漬けに粉砕した。
「へへ、へへーん! ケンタ、見た!? 私、勝ったよ!」
着地したスノウは、意気揚々と尻尾をプロペラのように振り回して俺に駆け寄ってきた。だが、そこでふと、自分が倒した巨獣の残骸――粉々になった氷の塊と、衝撃でひしゃげた周囲の巨木を見て、動きを止めた。
「……ってか私、ちょっとしか力入れてないよ?」
スノウは自分の小さな掌を見つめ、驚きに目を見開いた。
「なでるくらいのつもりだったのに、岩みたいなあいつが、まるでお豆腐みたいに壊れちゃった……。これ、絶対に今の私の実力じゃないよ。……ケンタのパン、やばすぎない?」
「……ああ。余裕、どころの騒ぎじゃないな」
俺もまた、冷や汗を拭いながら呆然と立ち尽くしていた。
本来なら伝説級へと成長した先で手にするはずのパワーを、パン一つで、しかも幼い姿のまま「前借り」したような異常事態だ。
「本当に、とんでもないものを手に入れてしまったな……」
驚きを隠せない俺を余所に、スノウは再び「すごーい!」と無邪気に跳ね回り始めた。彼女の足元には、芸術品のように美しいサシの入った肉がいくつも転がっている。
「よし、よくやったスノウ。これでお昼は、最高に肉厚なハンバーガーにするぞ」
「はんばーがー? なにそれ、強そうな名前!」
俺たちは喜び勇んで店に戻った。
幸い、最後のパンを焼くための粉とバターは、ギリギリ一食分だけ残っている。
「……よし。これで最後の一回分か」
俺は作業台の上に残ったわずかな粉の山を見つめた。異世界に落ちたとき、この店に元々あった備蓄は、これで完全に底をつくことになる。
「スノウ、これが最後の一食だ。お昼を食べたら、本格的に材料探しだぞ」
「うん! 私、どこまででも行くよ!」
俺は最後の粉を丁寧に集め、魂を込めて捏ね始めた。
素材の在庫が尽きる「最後の一食」にして、魔獣の肉を使った「初めての挑戦」。
静かな厨房に、肉を叩く音とパンを捏ねる音が響き始めた。




