三日月の層と派生
スノウとの対話を終えた頃には、窓の外はすっかり深い夜の帳に包まれていた。群れを追われた少女と、異世界から来た職人。互いの身の上を語り合っているうちに、時間は夜更けをとうに過ぎていた。
――翌朝、目が覚めると周囲はまだ薄暗かった。
枕元の空気で時間を感じ取る。午前4時。一般的には早朝だが、パン職人として生きてきた俺からすれば、これでも遅い方だ。かつての地獄のような工場なら、もう数千個のパンを焼き終えていなければならない時間なのだから。
俺は一階の厨房へ下り、棚に残った最後の一回分の材料――小麦粉とバターを前にした。
「さて……今日はあれだな!」
今朝のメニューは、クロワッサンだ。
本来、クロワッサン作りで最も神経を削るのは「温度管理」だ。生地を伸ばす際にバターが体温や室温で溶けて生地に馴染んでしまえば、あの独特の層は失われ、ただのパンになってしまう。だが、俺にはその理屈を書き換えるスキルがある。
【固有スキル:『魂の成型』発動】
俺は冷たいバターを生地で包み込み、麺棒を滑らせた。通常なら「伸ばしては冷やす」を何度も繰り返し、丸一日かけて層を作る工程だが、スキルの導きによって生地とバターは一瞬で理想的な薄さまで伸び、一切の乱れなく均一な層として「整えられた」。
バターの魂を直接繋ぎ止めるこの力の前では、物理的な融点すら意味をなさない。何十もの薄い層が、重なり合いながらも決して混ざり合うことなく、三日月形へと成型されていく。
続いて、その繊細な層に、二つ目のスキルを込める。
【固有スキル:『神速の発酵』発動】
じわり、と生地が命を宿したように膨らみ始めた。層の隙間に絶妙な空気が入り込み、瞬く間に最高の発酵状態へと到達する。ただ早いだけじゃない。イーストの活動が、生地を最も引き立てる「頂点」で完璧に固定されていた。
最後は、予熱を終えた石窯だ。
「と、その前に…」
石窯に入れる前に冷蔵庫から卵を取り出した。卵を割り、卵黄と白身を分け卵黄だけを使った。溶いた卵黄を発酵した生地の上に塗る。そうすることで焼き上がりが照りを増し食欲をそそる色になる。
【固有スキル:『聖域の焼成』発動】
窯の中が「理想の熱空間」へと変質する。
クロワッサンの命は、層の間のバターが沸騰し、その蒸気で生地を内側から押し広げることにある。聖域の熱は、一分の狂いもなく外側をパリッと焼き固め、同時に内側の層を爆発的に膨らませていった。
焼き始めて間もなく、濃厚なバターの香りが爆発するように厨房を埋め尽くした。その暴力的なまでの香りが階段を伝い、二階へと昇っていった、その直後。
「……ふんふん。……あ! このにおいっ!」
バタバタバタ! と、階段を転げ落ちるような元気な足音が響く。
現れたスノウは、寝癖で銀色の髪をあちこちに跳ねさせ、寝ぼけ眼のまま鼻をひくひくさせていた。
「ケンタ、ずるい! またいいにおいさせてるでしょ!」
「おはよう、スノウ。鼻の利くガードマンさんには、隠し事は無理みたいだな」
俺は窯から天板を引き出した。そこには、朝日に照らされて黄金色に輝く、芸術品のようなクロワッサンが並んでいる。
「わぁ……。昨日のは白くて丸かったけど、今度のはキラキラしてる……」
スノウはまだ火傷しそうなほど熱いクロワッサンを、熱さを我慢して両手で受け取った。
――サクッ。
心地よい破壊音が、静かな厨房に響き渡る。
「……っ!? なにこれ、音が鳴った! お口に入れた瞬間、バターがじゅわぁって溶けて、でもすごく軽いよ!」
「だろう? そのサクサク感こそがクロワッサンの命なんだ」
頬張るスノウを前に、俺はつい熱が入り、指を立てて語り始めていた。
「いいかスノウ、この『層』を見てみろ。生地とバターが混ざらずに、薄い紙みたいに重なり合ってるだろ? これ、バターが少しでも溶けて生地に染み込んだら、ただの脂っこい塊になっちゃうんだ。層の間のバターが熱で弾けて、内側から生地を押し上げる……この『一瞬の爆発』を閉じ込めるのが、どれだけ大変か……」
「……う、うん? よくわかんないけど、ケンタがすっごく頑張ったのはわかった!」
スノウは口の周りにサクサクの食べ滓をつけたまま、きょとんとして笑った。
「難しいことはいいよ! だって、こんなに美味しいんだもん。ケンタ、天才!」
その直後、俺の視界にシステムメッセージが割り込んできた。
【条件達成:『至高のクロワッサン』を摂取しました】
【固有スキルが派生:『恩寵の付与』を習得】
【効果:『至高のパン』の摂取者へ、一時的な身体強化を付与します】
「えっ……? なに、これ」
俺が戸惑いの声を上げるのと、スノウが異変に気づくのは同時だった。
スノウの小さな身体が、淡い黄金色の光に包まれている。
「わわっ!? なに、なにこれ! ケンタ、身体が熱いよ! 指の先まで力がみなぎってくるっていうか……今なら、あの森を一周走っても疲れない気がする!」
スノウは驚きに目を見開き、自分の手を見つめて何度も握ったり開いたりしている。その足取りは明らかに昨日より軽く、一歩踏み出すごとに柔らかな魔力の粒子が床に散った。
「……パンを食べただけで、身体能力が上がったのか?」
俺は自分の手と、まだ天板に残っているクロワッサンを交互に見た。
至高の味を追求した結果、ついに魔法的なバフ効果まで付いてしまったらしい。もはやただの食事ではなく、戦うための「糧」だ。
「ケンタ、すごいよ! やっぱりケンタは本物の魔法使いだったんだね!」
無邪気に喜ぶスノウを眺めながら、俺は頬を引きつらせた。
「……ああ、本当にこのスキル、やばいなあ……」
もしこのパンの価値が外に知られたら、それこそスノウが言っていた「悪い王様」たちが黙っていないだろう。ただパンを焼いて静かに暮らしたいだけなのに、俺が手にした力はあまりにも平穏から遠い気がした。
だが、尻尾をちぎれんばかりに振って喜ぶスノウを見ていると、今はこれでもいいか、とも思えてしまう。




