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異邦の職人とフェンリル少女

石造りの厨房に、朝の柔らかな光が差し込む。

 皿の上のパン屑を一粒残らず指ですくい上げたスノウが、ふと、黄金色の瞳をこちらに向けた。

「ねえねえ! ……あんたのことは、なんて呼べばいいの?」

 尻尾をぶんぶんと振りながら、スノウが身を乗り出してくる。

「ケンタだ。俺の名前は、ケンタ」

「ケンタ? ケンタ! うん、いい名前! ケンタ、私を救ってくれた、変なパンを焼くお兄さん!」

 スノウは満足げに椅子の上で跳ねるように座り直したが、すぐに不思議そうな顔をして、まだ熱を帯びている石窯をのぞき込んだ。

「ねえ、ケンタ。一つ聞きたいんだけど……この『パン』って、一体なんなの?」

「なんなの、って……パンはパンだ。小麦を練って、発酵させて、焼く。それだけの食べ物だよ」

 俺が当たり前のことを返すと、スノウは納得がいかない様子で大きく首を振った。

「そんなわけないよ! 私、この森でいろんなもの食べてきたけど、あんなの初めてだったもん。……一口食べた瞬間、死にそうだった体が中からポカポカして、ギュッて作り直されるみたいだったんだよ?」

 彼女は自分の手を見つめ、力を込めて握りしめた。

「傷も、空っぽだった魔力も、全部治っちゃった。……ねえ、ケンタ。この世界に、こんな食べ物なんて存在しないよ。君、本当は何者なの?」

 スノウの純粋な瞳には、隠し事は通じそうになかった。

 俺は一度深く息を吐き、使い古した麺棒を作業台に置いた。

「……実は、俺はこの世界の人間じゃないんだ。『異世界』から来たんだよ」

 俺がそう打ち明けると、スノウは驚きで耳をぴんと立てた。

「いせかい……! ああ、なるほど。ケンタは『向こう側』から来た人だったんだね」

 スノウは驚きつつも、どこか腑に落ちたというように頷いた。

「……待て。スノウ、『異世界』っていう言葉を知ってるのか?」

「うん。私たちフェンリルには、昔から伝わっているお話があるの。……『いつか空の向こうから、世界の理を書き換える力を持った異邦人が現れる』って。ケンタも、その一人だったんだ」

 群れを追われた彼女にそう教えてくれる肉親はいなかったはずだが、種族としての古い記憶が、彼女にそう告げているようだった。

「……そうか。なら話が早い。向こうの世界では魔法なんてなかったけど、パンっていう文化は当たり前にあったんだ。俺はそこでずっとパンを焼いていて……気づいたら、この店にいたんだ」

「そっかぁ。向こうの世界から、パンを教えに来てくれたんだね!」

 スノウの純粋すぎる言葉に、俺は思わず苦笑いをもらした。

「まさか。パンを広めるなんて高尚な目的じゃないよ。俺はただ、あっちで死ぬまでこき使われて、気がついたらここに放り出されただけだ。……いわば、人生の『お代わり』をもらったようなもんさ」

 俺の冗談交じりの言葉に、スノウは「あはは!」と無邪気に笑って、俺の腕に抱きついてきた。

「いいよ、それでも! ケンタがここに来てくれてよかった。……でもね、ケンタ。今の話、他のみんなには絶対内緒だよ?」

 急にスノウが声を潜め、真剣な顔で俺を見上げた。

「もし悪い王様たちがケンタのことを見つけたら、君を閉じ込めて、死ぬまでパンを焼かせるはずだもん。それこそ……この世界全部を支配する力が手に入るって、喜んじゃうよ」

 その言葉に、背筋を冷たい風が通り抜けたような感覚があった。

 一度死ぬまで働かされた俺だ。その恐怖は誰よりも理解している。

「……死ぬまで働くのは、もうお腹いっぱいだ。次は、自分のために焼くって決めてるからな」

「でしょ? だから決めた! 私がケンタのガードマンになってあげる! ケンタが誰にも邪魔されずにパンを焼けるように、私が悪いやつらをみーんな追い払ってあげるから。その代わり、これからも毎日あの美味しいパン、焼いてくれる?」

必死に胸を張るスノウを見ていると、なんだか調子が狂う。だが、行き場のないのは俺も彼女も同じだ。

「……わかったよ。パンくらい、いくらでも焼いてやる。その代わり、しっかり守ってくれよ? ガードマンさん」

 俺がそう言って頭を撫でると、スノウは嬉しそうに目を細めて尻尾を振った。

 

 こうして、俺の新しいパン屋生活に、騒がしい家族が一人加わった。

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