銀色の迷い子と命のパン
慌てて裏口の戸を引き開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「なっ……なんだ、これ……」
月明かりに照らされていたのは、血に染まった銀色の毛並み。
最初は大きな犬かと思ったが、違う。そこに横たわっていたのは、頭に獣の耳を、腰に立派な尻尾を蓄えた、十歳そこらに見える銀髪の少女だった。
少女の体は、鋭い爪で引き裂かれ、服はボロボロで、深い傷跡で覆われている。
「おい、しっかりしろ!」
駆け寄り、その肩を抱き寄せる。少女の肌は驚くほど冷たかった。
(……あ、これ、まずい。)
死の淵にある者の気配。だが、彼女の鼻が、かすかにピクリと動いた。
「……に、おい……。……あたたか、い……」
彼女の視線の先には、俺が手に持ったままだった、焼き立ての丸パン。
俺は迷わなかった。パンを一口サイズにちぎると、彼女の乾いた唇の隙間に差し込んだ。
「食えるか? 」
少女は本能的に、その一切れを咀嚼した。
その瞬間。
【通知:対象(氷狼フェンリル)が『至高の丸パン』を摂取】
【固有スキル:『魂の成型』により摂取したものの全ステータス微増、身体疲労がリセットされました】
俺の指先からパンを通じて、黄金色の光が彼女の体内に流れ込んでいくのが見えた。
「あ……っ、ぁ…………!」
少女の喉が小さく鳴り、止まりかけていた心臓が力強く拍動を再開する。
それだけじゃない。みるみるうちに彼女の傷口が塞がり、汚れにまみれていた銀髪が、月光を反射してキラキラと輝きを取り戻していく。
「……ぷはっ! ……はぁ、はぁ、はぁっ!」
少女は勢いよく上体を起こすと、俺の腕の中から飛び退いた。
四つん這いの姿勢で、警戒を露わに俺を睨みつける。その金色の瞳は、まさしく野生の獣そのものだ。だが、彼女の腹の虫が「ぐうぅぅ」と盛大に鳴った瞬間、その鋭い目つきが途端に崩れた。
「……お前。今、何を、食べさせた?」
「……俺が焼いた、ただの丸パンだ」
「嘘だ。こんな食べ物、この世界にない。……お腹の奥が、すごく熱い。力が、勝手に溢れてくる……」
彼女は自分の手を見つめ、信じられないといった様子で呆然としている。
どうやら『至高の製パン製法』で焼いたパンは、ただの食事以上の意味を持つらしい。
「まだあるぞ。これ、食うか?」
俺が残りのパンを差し出すと、彼女は一瞬迷った後、ひったくるように奪って口に放り込んだ。
「んむっ! ……おいひい……っ、ふわふわで、あまい……っ!」
涙を浮かべながらパンを頬張るその姿に、俺は思わず毒気を抜かれた。
工場で機械的に作らされていた「安価なカロリー」では、絶対にこんな顔はさせられなかっただろう。
「……なあ。お前、名前は?」
食べ終えた彼女に問いかけると、少女は寂しそうに耳を伏せた。
「……ない。群れを追い出されたとき、捨てた。」
「そうか。じゃあ、俺がつけてもいいか?」
前世では自分自身の名前すら大切にできなかった俺が、誰かに名前を贈る。それは、俺にとっても新しい人生の始まりのように思えた。
「お前の髪、すごく綺麗だ。銀色で……まるで雪みたいだな」
俺は少し考え、思いついた名前を口にした。
「『スノウ』。……どうだ?」
「……スノウ……。スノウ。……私の、名前……」
彼女はその響きを確かめるように何度も繰り返すと、顔を赤くして、嬉しそうに尻尾を振った。
「……気に入った。お前、気に入った!」
スノウはそのまま俺の懐に飛び込んできた。
「決めた。私、お前と一緒にここにいる。お前、私の飼い主。……その代わり、毎日あのパン焼いて?」
「飼い主って……。まあ、いいか。一人よりは賑やかになりそうだしな」
俺は彼女の柔らかい銀髪を撫でながら、窓の外を見た。
森の向こうから、ゆっくりと夜明けの光が差し込んでくる。
工場で迎える、絶望的な日の出とは違う。
この『Hillock』での本当のパン屋生活は、今ここから始まるのだ。




