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午前3時の絶望と、至高のパン作り

 鼻腔を突くのは、焦げ付いた砂糖と、安っぽいマーガリンの匂い。

 そして、何日も洗っていない自分の身体から漂う、酸っぱい汗の臭いだ。

「おい、ケンタ。また手が止まっているぞ。あと3000個、日の出までに丸めとけよ」

 背後から投げつけられる、工場長の怒号。

 返事をする気力すら残っていない。俺はただ、機械的に冷凍生地を天板に並べ続ける。

 ここは「夢のパン」を作る場所じゃない。消費されるだけの「安価なカロリー」を、人間をすり潰して生産する地獄の底だ。

(……ああ、一度でいいから、自分の納得できるパンを焼きたかったな……)

 視界が、ぐにゃりと歪んだ。

 心臓が早鐘を打った直後、すとん、と拍動が消える。

 崩れ落ちる視界の端で、床にぶちまけられた無機質な冷凍生地が見えた。

(ああ、あれと同じだ。俺も、使い捨ての材料だったんだな……)

 意識は急速に冷えていき、深い闇へと溶けていった。

 どれほどの時間が経っただろうか。

 不意に、肺が冷たい空気を吸い込んだ。

 驚いて目を開けると、そこは深い森に囲まれた小さな広場だった。目の前には、石造りの可愛らしい小屋が建っている。

 看板には見慣れない文字。だが、なぜか意味は直感で理解できた。

『――Bakery:Hillockヒロック――』

 

 誘われるように扉を開けると、そこはパン職人の理想郷だった。

 重厚な石窯、大理石の作業台。そして棚には、かつて見たこともないほど純白で、かすかに発光する小麦粉が並んでいる。

「夢……じゃない。夢なら、こんなに腹が減るはずがない」

 ぐう、と腹が鳴る。その瞬間、網膜に半透明の文字列が浮かび上がった。


【システム起動:クラス・パン職人を検知】

【固有スキル:至高のパン製法ベーカリー・コードを開放します】


・魂の成型ソウル・モデリング:触れているものに生命力を吹き込み、品質を極限まで高める。


・神速の発酵アクセル・イースト:触れているものの時間を任意に短縮する。


・聖域の焼成ホーリー・ベイク:窯内部にパンを焼くための「最適な熱対流」を瞬時に生み出し、素材のポテンシャルを120%引き出す。


頭の中に、パン作りの知識とは異なる「魔術的な術式」が流れ込んでくる。

「……試してみるか」

 俺は腰の道具袋に刺さっていた、愛用の麺棒を抜いた。

 棚の粉に触れた瞬間、指先から清涼な電気が走った。前世の「死んだ粉」とは違う。これは、生命そのものだ。魔力を帯びた粉。これなら、前世では不可能だった「至高のパン」が焼ける。

 まずは自分のための、シンプルな丸パンだ。

 俺は棚から純白の小麦粉を取り出し、大理石の台に広げた。

 まずは【魂の成型】。

 粉と水を合わせ、力強く「ミキシング」を始める。その瞬間、驚くべきことが起きた。指先の感覚一つで、グルテンの網目構造が魔力の回路のように組み上がっていくのが分かる。かつて機械が無残に引き裂いていた生地の「痛み」が、今は手に取るように理解できた。叩き、伸ばし、また纏める。

 生地が滑らかになったところで、次は「分割」だ。

 一切の誤差なく等分に切り分け、手の平で転がすように「丸め」の作業に入る。

 ――ここが肝心だ。

 表面にピンと張力を持たせ、中に空気を抱き込ませる。俺の指が生地を撫でるたび、質量が書き換えられ、ただの塊が「命の器」へと変わる。鉄よりも強固な芯と、羽毛よりも軽い質感が同居する、ありえない密度。

 続いて【神速の発酵】。

 通常なら数時間かかる「ベンチタイム」と「最終発酵」を、数秒に圧縮する。

 生地が呼吸するように脈打ち、俺の魔力を吸ってパンパンに膨れ上がった。

「仕上げだ……【聖域の焼成】」

 窯の中に手をかざすと、俺の心臓がジンのように熱を帯び、窯の中に黄金色の火が灯った。1度単位の狂いもない熱制御。

 数分後。焼き上がったパンを一口噛みしめると、サクッとした音と共に、爆発的な旨味が全身を駆け抜ける。

「……うまっ。なんだこれ、力がみなぎる……っ!」

 【通知:『至高の丸パン』を摂取。全ステータス微増、身体疲労がリセットされました】

 (……ああ、これだ。俺がやりたかったのは、これなんだ)

 工場長の怒号も、機械の駆動音も、安っぽい油の臭いもここにはない。

 あるのは、最高の石窯と、応えてくれる魔法の素材。そして何より、誰に強制されるでもなく、自分の納得がいくまで生地と向き合える贅沢な時間だ。

(この力があれば……この場所なら。消費されるだけのカロリーじゃない、誰かの心を震わせる本当のパンが焼けるかもしれない)

 前世でボロボロに擦り切れた心が、焼きたてのパンのようにふっくらと膨らんでいくのを感じた。

 これからどんなパンを焼こうか。クロワッサン、バゲット、それとも……。

 想像の翼を広げ、俺が未来への一歩を踏み出そうとした、その時だった。

 ――ガシャンッ!!

 静寂を切り裂いて、店の裏口から物音がした。

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