GPSと見守り、父の自由
「監視か、見守りか」——父の自由と家族の安心、その「ちょうどいい距離」を探す物語。
GPSと見守り、父の自由
第一章 反発
「お父さん、これ持ってて」娘の裕美が差し出したのは、手のひらに収まるほどの小さな白い機器だった。
「なんじゃこれ」
「GPS端末。万が一のときのために」
藤崎勇三、82歳。元高校教師。背筋はまだ伸びているし、声も大きい。新聞は老眼鏡なしで読める。自分ではまだまだ現役のつもりだ。
「万が一?わしに万が一なんてないわ」
「お父さん、この前も帰り道、間違えたでしょ」
「あれは、ちょっとぼんやりしとっただけじゃ」
裕美の隣で婿の正樹が頷いている。その向こうで大学生の孫の拓也がスマホから目を上げた。
「二回もよ。二回も」裕美の声が強くなる。
「二回くらい、誰にでもあるわ」勇三は白い機器を裕美に突き返した。
「お父さん」
「わしを監視する気か」
「監視じゃないわ、心配なのよ」
「心配?監視の間違いじゃろ」勇三は立ち上がった。「わしはな、認知症なんかじゃない。まだまだ元気じゃ、元気なうちに、自由に好きなところへ行きたいんじゃ。それの何が悪い」
「誰も認知症だなんて言ってないわ」
「じゃあなんでこんなもん持たせようとするんじゃ」
裕美は困った顔で正樹を見た。正樹が口を開く。
「お父さん、安全のためですよ。今はこういう便利なものがあるんです。みなさん使ってらっしゃいますし」
「便利?誰にとって便利なんじゃ。わしにとっちゃあ、首輪と同じじゃ」
「首輪だなんて、そんな」
「そうじゃろ。どこにおるか分かるようにするんじゃろ。それを監視と言わんでなんと言う」
拓也が口を挟んだ。
「おじいちゃん、みんな心配してるんだよ」
「拓也」勇三は孫を見た。孫の顔は真剣だった。「おまえは分かっとるか?わしの気持ちが」
「えっ・・・」拓也は言葉に詰まった。
「自由じゃ、自由に生きたいんじゃ、何歳になっても。どこに行くにも誰かに見張られて、どこにおるか知られて。そんなんで生きとるって言えるか」勇三の声が大きくなる。
「お父さん、声が大きい」
「大きくもなるわ!わしの人生じゃ。わしがどう生きるか、わしが決める」
「でも、何かあったら・・・」
「何もないわ。わしはまだまだ大丈夫じゃ」
裕美も声を上げた。
「お父さん、私たちが困るの!」
勇三は黙った。裕美も自分の言葉にはっとして、口を押さえた。
「・・・そういうことか」勇三は静かに言った。「わしに何かあったら自分たちが困る。それがほんとのところか。わしの心配じゃなくて、おまえらが困るから・・・」
「お父さん、そういう意味じゃ・・・」
「もうええ。分かった」勇三は部屋を出ようとした。
「お父さん!」
裕美が呼び止めたが、勇三は振り返らず自室に入り、ドアを閉めた。リビングに残された三人は、顔を見合わせた。
「失敗したな」正樹が小さく言った。
「どうして、あんなこと言っちゃったんだろう」裕美は自分の頭を抱えた。
「お母さん、落ち着いて」拓也が母の肩に手を置いた。
「でも・・・」
「おじいちゃんの気持ちも分かるよ。監視されたくないって」
「監視じゃないわ。安全のためなのに」
「お母さんにはそうでも、おじいちゃんには監視に見えるんだよ」
裕美は何も言えなかった。
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その夜、勇三は夕食にも出てこなかった。裕美が部屋に食事を持っていくと、勇三は窓の外を見ていた。
「お父さん、食事持ってきたわ」
「・・・そこに置いといてくれ」
「お父さん」裕美は戸口に立ったまま、言葉を探した。「さっきは、ごめんなさい」
勇三は振り返った。
「困るって言ったこと?」
「うん。あんな言い方、するべきじゃなかった」
「でも、本心じゃろ」
「それは・・・」裕美は言葉に詰まった。
確かに本心だった。父に何かあったら困る。でも、それだけじゃない。
「心配なのよ、本当に」
「わかっとる」勇三は窓の外に目を戻した。
「でもな、裕美。わしにも譲れんもんがある」
「・・・自由?・・・」
「ああ。この年になってまで、誰かに監視されて生きたくない」
「監視じゃないわ」
「おまえにはそうでも、わしにはそう見えるんじゃ」
裕美は何も言えなかった。父の背中は頑なだった。
「・・・ゆっくり食べてね」裕美は部屋を出た。
第二章 攻防戦
翌朝。勇三は普段通りの時間に起きて、普段通りに朝食を食べた。それでも裕美たちとは目を合わせない。
「お父さん、今日はどこか行くの?」裕美が恐る恐る聞いた。
「図書館じゃ」
「そう。気をつけてね」
「分かっとる」勇三は出て行った。
裕美は窓から父の後ろ姿を見送った。
「大丈夫かな」
「大丈夫だと思うよ」正樹が言った。
「でも、また道に迷ったら・・・」
「その時は、近所の人が教えてくれるでしょう」
「そうね・・・」しかし、裕美の不安は消えなかった。
---
その日の夕方、勇三は予定通り帰ってきた。何事もなかったように。翌日も、その次の日も。しかし、裕美は諦めていなかった。
四日目の朝、裕美は再びGPS端末を持ち出した。
「お父さん、やっぱりこれ持ってて」
「まだ言うか」
「お願い」
「嫌じゃ!」
同じやりとり。
五日目。
「お父さん、お願いだから」
「わしも頼むから、そういうこと言わんでくれ」
六日目。
「お父さん、心配なの、本当に」
「わしは大丈夫じゃ言うとるじゃろ」
「でも・・・」
「でも、じゃない。大丈夫なもんは大丈夫じゃ」
七日目。
朝食の席で、裕美はまたGPS端末を取り出した。
「お父さん」
「またか」勇三は箸を置いた。
「お父さん、私たちだって好きで言ってるんじゃないのよ」
「じゃあ言うな」
「言わないわけにいかないでしょ!」裕美の声が大きくなった。
勇三も負けじと声を張り上げる。
「わしの人生じゃ!わしの自由じゃ!おまえらに指図される筋合いはない!」
「お父さんに何かあったら、私たちが困るの!」また同じ言葉が出た。
勇三は立ち上がった。
「やっぱりそれか。わしの心配じゃなくて、おまえらの都合か」
「そうじゃないわ」
「そうじゃろ。わしが道に迷ったら困る。世話せんといかん。責任問われる。そういうことじゃろ」
「お父さん!」
「もうええ。話にならん」勇三は自室に戻ってしまった。
リビングに重い空気が流れた。拓也が口を開いた。
「お母さん、ちょっと作戦変えてみない?」
「作戦?」
「うん。今のやり方じゃ、おじいちゃんは絶対に受け入れないよ」
「じゃあどうすればいいの?」
「おじいちゃんが何を嫌がってるか、ちゃんと考えてみようよ」
正樹も頷いた。
「そうだね。お父さん、『監視』という言葉をだして嫌がっているみたいだ」
「でも、監視じゃないわ」
「僕たちにはそうでも、お父さんにはそう見えるんだよ」
裕美は黙り込んだ。
「お母さん」拓也が続けた。
「おじいちゃん、『自由に好きなところへ行きたい』って言ってたよね」
「うん」
「それって、行き先についてとやかく言われたくないってことじゃないかなぁ」
「・・・そうかもしれないわね・・・」
「だから、行き先を見てもそれを追及しなければいいんじゃない?」
「追及しない?」
拓也は説明した。
「GPSで場所は分かる。でも、『どこ行ってたの?』とか『何してたの?』とかは聞かない。それなら、おじいちゃんの自由も守れるし、お母さんたちも安心できるんじゃないかな」
正樹が賛成した。
「それはいい考えかもしれないね」
「でも・・・」裕美は迷った。
「見てるだけで、何も聞かないなんて、できるかしら」
「できるよ、お母さん」拓也は母を励ました。
「おじいちゃんを信じるんだよ」
裕美は考え込んだ。信じる、そうだ、信じればいい、お父さんを。
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八日目の朝。裕美は父の部屋のドアをノックした。
「お父さん、話があるの」
「・・・なんじゃ」
「入ってもいい?」
「・・・ええよ」
裕美は部屋に入った。勇三は椅子に座って、本を読んでいた。
「お父さん」裕美は向かいの椅子に座った。
「この一週間、ごめんなさい。しつこく言って」
「・・・」
「お父さんが嫌がる理由、考えてみたの」
勇三は本から目を上げた。
「監視されるのが嫌なのよね。どこに行くか聞かれて、何をしてるか監視されるのが」
「・・・ああ」
「だから、約束する」裕美は真剣な目で父を見た。
「ちゃんと身につけて、ちゃんと帰ってきてくれさえすれば、行き先は追及しない」
勇三は娘を見つめた。
「・・・どういうことじゃ」
「どこに行くか、何をしてるか、聞かない。約束する」
「ほんまか?」
「本当よ。お父さんがちゃんと帰ってきてくれさえすれば、それでいい」
勇三はしばらく考え込んだ。
「・・・どこ行っても文句言わんのか?」
「言わない」
「何時に帰っても?」
「それは・・・」裕美は少し考えた。
「心配だから、大体の帰宅時間だけ教えて。それさえ守ってくれれば、何も言わない」
勇三は娘の目を見た。本気だ。この娘は、本気で約束しようとしている。
「・・・分かった」
「本当?」
「ああ。持つわ」
裕美は安堵のため息をついた。
「ありがとう、お父さん」
「でもな、裕美」
「何?」
「もし追及したら、その時は捨てるからな」
裕美は頷いた。
「分かったわ。約束する」
勇三は小さく笑った。
「『約束』・・・か」
「うん」裕美も笑った。「約束よ、お父さん」
こうして、藤崎勇三の新しい日常が始まることになった。
第三章 最初の冒険
GPS端末を受け取った翌日。勇三は朝食を済ませると、「ちょっと出かけてくる」と言った。
「どこに?」裕美が聞きかけて、すぐに口をつぐんだ。聞かない約束だった。
「三時には帰るわ」
「分かった、気をつけてね」
「おう」勇三は出て行った。
玄関のドアが閉まるのを待って、裕美はスマホを取り出した。専用のアプリを開く。画面に地図が表示され、青い点が一つ。お父さんだ。点はゆっくりと動いている。家から離れて、駅の方向へ。
「お父さん、電車に乗るのかな」裕美は画面を見つめた。追及しない約束をした。でも、見ることまでは禁止していない。これは監視じゃない、見守りだ。そう自分に言い聞かせながら裕美は青い点を見続けた。
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点は駅で止まった。それから、線路に沿って移動し始めた。電車に乗ったんだ。一駅、二駅、・・・四駅目で点が止まった。裕美は地図を拡大した。
「本屋さん・・・?」
駅前の古書店の辺りで、点が動いている。ゆっくりと、一軒一軒を巡っているようだった。
「お父さん、本屋巡りしてるのね」裕美は少しほっとした。危ないことをしているわけじゃない。一時間後、点が動いた。別の古書店へ。その次は喫茶店。それから図書館。
「お父さん、本が好きだものね」
裕美は微笑んだ。お父さんは元教師だ。本が好きで、読書家だった。そういえば最近、家でゆっくり本を読んでいる姿を見ていなかった気がする。家にいるとこちらが何かと声をかけてしまうから落ち着かないのかもしれない。午後二時半、点が駅に向かった。帰ってくるんだ。予定通り、三時少し前に玄関のドアが開いた。
「ただいま」
「お帰りなさい」裕美は普段通りに迎えた。「どこに行ってたの?」聞きかけて、また口をつぐんだ。聞かない約束だった。「・・・お茶、淹れるわね」
「ああ、頼む」勇三はソファに座った。
少し疲れた様子だったが、顔は満足そうだった。裕美はお茶を淹れながら思った。お父さん、いい顔してる。
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翌日、勇三はまた出かけた。
「四時には帰るわ」
「気をつけてね」裕美はアプリを開いた。今日の点は、別の方向へ向かっている。電車で、隣の市へ。「隣の市・・・?」
点は住宅街を抜けて、ある建物の前で止まった。地図を見ると、「○○高等学校」とある。「学校・・・?」裕美は考えた。そういえば、お父さんが昔教えていた学校が、あの辺りにあったはずだ。
「昔の学校を見に行ったのね」裕美は画面を見つめた。点は学校の周辺をゆっくりと移動している。懐かしんでいるのかもしれない。昔の思い出を辿っているのかもしれない。裕美は胸が温かくなった。お父さん、そんなことしたかったんだ。
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三日目。
「今日は五時くらいになるかもしれん」
「分かった」
点は今度、近所をゆっくりと歩いている。公園、神社、商店街。
「散歩かな」点は喫茶店で一時間ほど止まり、それから書店へ。夕方、予定通り帰宅した。
「ただいま」
「お帰りなさい」
勇三の手には、本屋の袋が下がっていた。
「本、買ったの?」
「ああ、ちょっとな」それ以上は聞かない。でも、お父さんが本を買って、嬉しそうにしている。それだけで十分だった。
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一週間が過ぎた。勇三は毎日のように出かけていた。裕美はアプリで見守っていたが、一度も「どこに行ったの?」とは聞かなかった。約束だから。そして、聞かなくても、お父さんが無事に帰ってくることが分かったから。ある日の夕食後、拓也が言った。
「お母さん、すごいね」
「何が?」
「一度も聞いてないでしょ。おじいちゃんにどこ行ってたかって」
「・・・うん。約束だもの」
「でも、気にならない?」
「気にはなるわ。でも、聞かない」裕美は息子を見た。「お父さんを信じているから」拓也は母を見直した。
「お母さん、かっこいいよ」
「何言ってるの」裕美は照れくさそうに笑った。でも、嬉しかった。
正樹も言った。
「お父さん、最近機嫌がいいよね」
「そうね」
「外出するのが楽しみなんだろうね」
「うん」裕美は窓の外を見た。お父さんの自由。それを守れている。そして、お父さんの安全も。両方を守れている。それが嬉しかった。
第四章 スナックプリン
二週間目の火曜日。勇三はいつもより少し時間をかけて身支度をしていた。
「今日は六時くらいになるかもしれん」
「分かったわ」裕美はいつもと違う父の様子に気づいた。髭をきちんと剃って、シャツもアイロンのかかったものを着ている。でも、聞かない。勇三が出て行った後、裕美はアプリを開いた。点は電車で二駅先へ向かった。駅前の繁華街。点が止まった場所を見て、裕美は目を見開いた。
「スナック・・・?」地図には「スナックプリン」と表示されている。「お父さん、スナックに行ってるの?」裕美は驚いた。父がスナックに通っているなんて、想像もしていなかった。母が亡くなってから三年。寂しかったのかもしれない。でも、スナック・・・裕美は複雑な気持ちになった。点はスナックプリンに二時間ほど留まった。それから駅に向かい、電車で帰宅。六時過ぎ、玄関のドアが開いた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
勇三は少し上機嫌だった。
「お父さん、夕食は?」
「ああ、外で食べてきた」
「そう」裕美は聞きたいことが山ほどあった。どこに行ってたの?スナックで何してたの?誰かいたの?でも聞かない。約束だから。
「お風呂、沸いてるわよ」
「ああ、ありがとう」勇三は自室に入った。
---
その夜、裕美は正樹に相談した。
「お父さん、スナックに行ってたみたい」
「スナック?」
「うん、GPSで見たら、『スナックプリン』っていうお店にいた」正樹は少し驚いた顔をした。
「お父さん、そういう趣味があったんだ」
「分からないわ。お母さんが生きてた頃は、そんな話聞いたことなかったけど」
「寂しいんだろうね」
「そうかもしれない」裕美は考え込んだ。「でも、聞けないのよね。約束したから」
「そうだね」
「心配だわ。変なお店じゃないかしら」
「大丈夫だよ。お父さんはしっかりしているから」
「そうね・・・」でも、裕美の不安は消えなかった。
---
翌週の火曜日。また勇三は身支度を整えて出かけた。
「六時には帰るわ」
「気をつけてね」裕美はアプリを開いた。やはり、同じスナックプリンへ。同じように二時間留まって、帰宅。
「常連だったのかしら・・・」裕美は複雑な気持ちだった。お父さんが楽しんでいるならそれでいい。でも、どんなお店なのか、何をしているのか。気になって仕方がない。でも、聞けない。約束だから。
---
三週目も、四週目も。毎週火曜日、勇三は同じ時間にスナックプリンへ行った。裕美は見ているだけ。聞くことはできない。ある日、拓也が言った。
「お母さん、そんなに気になるなら、一度見に行ってみたら?」
「見に行く?」
「うん。店の外から、どんな店か確認するだけ」
「でも・・・」
「追及はしないけど、心配で確認するのは別じゃない?」
裕美は迷った。でも、確かに心配だった。
「・・・そうね。一度見てみようかしら」
---
次の火曜日。勇三が出かけた後、裕美も外出の準備をした。
「ちょっと買い物に行ってくるわ」正樹に言って、裕美は電車に乗った。
二駅先の繁華街。GPSの位置を頼りに、スナックプリンを探す。雑居ビルの一階。小さな看板。「スナックプリン」。ガラスのドアの向こうに、ほのかな明かりが見える。
裕美は店の前で立ち止まった。中を覗こうとして、躊躇した。これは追及していることにならないだろうか。約束を破っていることにならないだろうか。でも、心配なんだ。
裕美は少し離れた自販機の陰に隠れた。そのとき、ドアの開くのが見えた。誰かが出てくる。裕美は慌てて身を隠した。
出てきたのは父ではなく別の老人だった。それから数分後、また別の客が出てきた。みんな、勇三と同年代くらいの男性たちだ。
「普通のスナックみたいね・・・」裕美は少し安心した。怪しいお店ではなさそうだ。
もう少し様子を見ようかと思ったとき、また ドアが開いた。今度は勇三だ。裕美は慌てて身を隠した。勇三は店を出て駅の方向へ歩いて行った。その後ろ姿は、満足そうだった。
裕美はそっと後をつけた。勇三は駅に向かい、電車に乗った。裕美も同じ電車に乗ったが、別の車両から父を見守った。家の最寄り駅で降りて、勇三は先に家に向かった。裕美は少し時間を置いてから、帰宅した。
「ただいま」
「お帰り」
リビングでは勇三がテレビを見ていた。何も気づいていない様子だ。裕美は胸を撫で下ろした。お父さん、楽しそうだった。それが分かっただけで十分だった。
第五章 神社の謎
一ヶ月が過ぎた。勇三の外出は続いていた。平日は古書店や図書館、昔の学校。
火曜日はスナックプリン。そして週末は、また別の場所へ。ある日曜日、勇三は朝から出かけた。
「今日は五時過ぎくらいになるわ」
「遠出?」
「まあな」
勇三は嬉しそうに出て行った。裕美はアプリを開いた。点は電車で三駅、そこからバスに乗り換えた。
「お父さん、今日は遠いのね」
点はバス路線に沿って移動し、郊外の住宅地へ。
「住宅地?お父さん、あの辺に知り合いでもいるのかしら」
点が動いた。少し歩いて、ある建物の前で止まった。「神社・・・?」地図には小さな神社のマークがあった。しばらくすると、点がまた動き始めた。神社から離れて、山の方へ。裕美は地図を拡大した。細い山道だ。点はゆっくりと、その道を登っている。
「お父さん、山道を・・・」
しばらくしてある地点で止まる。そこから小さく動き回っている。まるで何かを探しているような動き。狭いエリアの中を、行ったり来たりしているようだ。一時間、二時間、三時間・・・。
「三時間も?お父さん、山で何してるの?」裕美は不安になった。具合が悪くなったんじゃないだろうか。でも、点は微妙に動いている。座っているわけではなさそうだ。四時過ぎ、ようやく点が動き出した。バスで駅へ、電車で帰宅。五時半、勇三が帰ってきた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
勇三は少し疲れた様子だったが、顔は満足そうだった。
「お父さん、お疲れ様」
「ああ、ちょっと歩き回ったからな」勇三は荷物を置いた。
裕美は聞きたかった。どこに行ってたの?神社で何してたの?三時間も。でも、聞かない。約束だから。
「お茶、淹れるわね」
「ああ、頼む」勇三はソファに深く腰を下ろした。
---
翌週の日曜日。また勇三は同じ時刻に出かけた。裕美はアプリを開いた。やはり、同じルート。電車、バス、神社。そして神社から山道へ。同じ場所で、また三時間。
「また・・・」裕美は不安になった。お父さん、あの神社で何をしてるんだろう。お参り?でも三時間は長すぎる。誰かに会ってる?それとも・・・裕美は悪い想像をしてしまう。変な宗教とか、詐欺とか。でも、お父さんはしっかりしている。そんなものに引っかかるはずがない。それでも、心配は消えなかった。
---
三週目の日曜日。また同じ神社へ。四週目も、五週目も。毎週日曜日、決まって同じ神社で三時間。裕美はだんだん我慢できなくなってきた。
「ねえ」ある日、正樹に相談した。
「お父さん、毎週日曜日、同じ神社と山に行ってるの」
「山か・・・」
「うん、三時間も」
「お参りだろうか」
「三時間はおかしいわ。何か他のことをしてるはずよ」裕美は不安げに言った。「変な宗教とか、そういうんじゃないかしら」
「お父さんがそういうものに引っかかるとは思えないが・・・」
「でも、心配なの」裕美は迷った。「聞いてみようかしら」
「うーん、でも約束は?」
「でも、心配で・・・」
正樹は考え込んだ。「もう少し様子を見たらどうだ。お父さん、元気そうだし」
「そうね・・・」裕美は頷いたが、不安は募るばかりだった。
---
六週目の日曜日。勇三は朝から準備をしていた。
「今日も出かけるの?」拓也が聞いた。
「ああ」
「どこに?」
「それは内緒じゃ」勇三は笑った。
「おじいちゃん、毎週日曜日、なんか楽しそうだねぇ」
「ああ、楽しいわ」勇三の顔は本当に楽しそうだった。拓也は母を見た。裕美も父の顔を見ていた。お父さん、楽しそう。それは間違いない。でも、何をしているのか分からない。それが不安だった。
---
裕美は決心した。「ちょっと出かけてくるわ」
「どこに?」正樹が聞いた。
「・・・お父さんのところ」
「でも、約束は」
「見るだけよ。追及はしないわ。でも、どんな場所なのか確認したいだけ」裕美は車の鍵を持った。
「一緒に行こうか」
「一人で大丈夫よ」裕美は家を出た。
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車を運転しながら、裕美はGPSの位置を確認した。お父さんは、今日も神社にいる。カーナビに神社の位置を入力して、目的地に向かった。三十分ほど車を走らせて、神社に着いた。小さな神社だった。住宅街の中にある、地域の氏神様といった感じの。
裕美は車を降りた。境内には数人の人影があった。老人たちだ。そして、その中に父の姿があった。勇三は他の老人たちと話をしていた。みんな、同年代くらいの男性たちだ。
「お父さん・・・」裕美は物陰に隠れて様子を見た。父は楽しそうに笑っている。他の老人たちも笑っている。それから、一同は神社を出て、山の方へ向かって歩き始めた。裕美も徒歩で後を追った。
---
十五分ほど登ると、開けた場所に出た。そこで老人たちは立ち止まり、何かを探し始めた。よく見えなかったが何かを集めているようだ。一人の老人が「山菜」という言葉を発した気がした。「山菜・・・?」裕美は目を見開いた。父たちは山菜を採っていたのだ。
「お父さん、山菜採りしてたの・・・」
裕美は安堵と驚きで胸がいっぱいになった。変な宗教でも詐欺でもない。ただの山菜採りだった。老人たちは楽しそうに山菜を探し、籠に入れていく。勇三も一生懸命に探している。その顔は、生き生きとしていた。裕美は、父のそんな顔を久しぶりに見た気がした。家にいるときの父は、どこか退屈そうだった。でも今、父は本当に楽しそうだ。裕美はそっと引き返した。
もう十分だった。お父さんは大丈夫。ちゃんと仲間がいて、楽しいことをしている。それが分かった。
---
家に戻ると、正樹が心配そうに待っていた。
「どうだった?」
「大丈夫だったわ」裕美は微笑んだ。「お父さん、山菜採りしてた」
「山菜採り?」
「うん。神社は集合場所だったみたい。そこから山に登って、みんなで山菜を採ってた」
正樹は安心した顔をした。「それなら安心だね」
「うん。お父さん、すごく楽しそうだった」裕美は嬉しかった。
お父さんには、こういう居場所があったんだ。こういう仲間がいたんだ。
「でも・・・」裕美は少し心配そうに言った。「山道、大丈夫かしら。転んだりしないかしら」
「お父さんなら大丈夫だよ」
「まあそうね・・・」裕美は窓の外を見た。お父さん、まだまだ元気ね。
第六章 雨の日
それから二週間が過ぎた。勇三は相変わらず毎日のように出かけていた。裕美も相変わらずGPSで見守っていたが、一度も追及することはなかった。約束は守られていた。そして両者とも、その状態に満足していた。
ある日曜日の朝。窓の外は雨だった。
「今日は雨ね」裕美が言った。
「ああ」勇三は窓の外を見ながら答えた。
「お父さん、今日はどうするの?」聞きかけて、裕美は口をつぐんだ。聞いてはいけない。でも、この雨の中、山菜採りに行くんだろうか。心配だった。朝食後、勇三は雨合羽を取り出した。
「お父さん、今日も出かけるの?」
「ああ」
「でも、雨よ」
「分かっとる」勇三は準備を続けた。
「今日は・・・」裕美は言いかけて、やめた。やめた方がいいと言いたかった。でも、それは父の自由を奪うことになる。
「・・・気をつけてね」
「ああ。六時には帰るわ」勇三は出て行った。
裕美はすぐにアプリを開いた。点はいつものルートを進んでいく。電車、バス、神社。
「やっぱり行ったわ・・・」裕美は不安になった。この雨の中、山道を登るなんて。
一時間後、点が動いた。神社から、いつものように山の方へ。「お父さん・・・」点は山道を登っていく。でも、今日はいつもよりゆっくりのようだ。そして、途中で止まった。五分、十分、十五分・・・。
「動かない・・・」裕美は不安になった。
雨で滑ったんじゃないか。転んだんじゃないか。また点が動き始めたが、動きが鈍い。
「まずいわ。こんな雨の日に山道なんて・・・」
裕美は正樹を呼んだ。
「お父さん、雨の中、山にいるわ。しかも、いつもより動きが遅いの」
「そうなんだ」正樹もアプリを覗き込んだ。「山道、滑りやすいんじゃないか」
「そうよ、危ないわ」裕美は迷った。約束を守るべきだろうか。でも、お父さんの安全も大事だ。
「危険があるときは別だし、これは緊急事態よね」裕美は決心した
拓也も賛成した。「俺も行く」
三人は車に乗り込んだ。
---
雨は強くなっていた。ワイパーが忙しく動く。
「こんな天気に、山菜採りなんて・・・」裕美は運転しながら呟いた。カーナビに神社の位置を入力し、三十分ほど走って着いた。GPSを確認すると、点は神社からさらに山の中にある。
「この先、車で行けるかしら」
「無理そうだね」正樹が外を見て言った。「歩いて行こう」
三人は雨合羽を着て、車を降りた。山道を登る。雨で地面がぬかるんでいる。
「滑らないように」裕美は拓也に声をかけた。
「うん」
十分ほど登ると、開けた場所に出た。そこには・・・数人の老人たちが、雨合羽を着て、山菜を採っていた。その中に、勇三の姿があった。
「お父さん!」裕美が声をかけた。勇三は振り返って、驚いた顔をした。
「おお、来たんか」でも、すぐに笑顔になった。「ちょうどええわ。荷物多くてな」
勇三は籠いっぱいの山菜を見せた。他の老人たちも笑っている。
「藤崎さんの娘さんか」
「心配させたのう」
「いやいや、元気な娘さんじゃ」
裕美は呆気に取られた。心配して駆けつけたのに、みんな楽しそうにしている。
「お父さん・・・」
「どうした?」
「こんな雨の日に、山なんて・・・」
「大丈夫じゃ。ちゃんと雨合羽着とるし、長靴だって履いちょる」勇三は平然としていた。他の老人の一人が言った。
「雨の日の方が、ええ山菜が採れるんじゃよ」
「そうなんですか・・・」
「ああ。でも、そろそろ引き上げるかのう。雨も強くなってきたし」
「そうじゃな」
一同は山菜を籠に入れて、山を降り始めた。
---
車の後部座席。勇三は大量の山菜の入った袋を膝に乗せていた。拓也がその隣に座っている。フロントシートでは、裕美が運転し、正樹が助手席に座っていた。気まずい沈黙が流れた。裕美は何を言えばいいのか分からなかった。心配して来たのは本当だ。でも、約束を破ったのも事実だ。
「・・・お父さん」ようやく裕美が口を開いた。「ごめんなさい」
「ん?」
「追及しないって約束したのに・・・」
勇三は笑った。「ええんじゃ」
「でも・・・」
「見とったんは知っとったわ」
裕美は驚いて、バックミラーで父を見た。「知ってたの?」
「そりゃあな」勇三は窓の外を見た。「毎週同じところ行っとったら、見とるじゃろうと思うわ」
「じゃあ・・・」
「でもな」勇三は娘を見た。「追及はせんかったじゃろ。それで十分じゃ」
裕美は何も言えなかった。
「おかげでな、いろんなとこ行けたわ」勇三は続けた。「古書店も行けたし、昔の学校も見に行けた。この山菜採りの仲間にも再会できた」
「仲間・・・?」
「ああ。昔、よう一緒に山菜採りに来とった連中じゃ。何十年ぶりかで会うてな」
裕美は初めて知った。お父さんには、そんな仲間がいたんだ。
「あの神社は集合場所なんじゃ」勇三が説明した。
「そこから山に登って、みんなで山菜採る。昔と同じじゃ」
「そうだったんですか・・・」正樹が相槌を打った。
「わしもな」勇三は少し真剣な顔になった。「多少は道に迷うこともあるかもしれん。年じゃからな」
「・・・」
「でもな、まだまだ行きたいところがあるんじゃ。会いたい人もおる。やりたいこともある。元気なうちになっ」
裕美は胸が熱くなった。
「このGPSのおかげで、おまえらも安心できるんじゃろ?」
「ええ、まあっ」
「じゃあ、それでええじゃないか」勇三は優しく言った。「わしは自由に動ける、おまえらは安心できる、どっちも大事じゃ」
拓也が口を挟んだ。「おじいちゃん、かっこいいよ」
「なにがじゃ」
「82歳で、そんな風に考えられるの、すごいと思う」
勇三は照れくさそうに笑った。「大したことじゃないわ」
車は雨の中、家路についた。裕美は運転しながら思った。お父さんは私たちのことも考えてくれていた。自由を主張するだけじゃなく、私たちの心配も理解してくれていた。そして、両方を大切にしようとしてくれていた。それが嬉しかった。
第七章 新しい日常
雨の日の出来事から、何かが変わった。いや、変わったわけではない。お互いの理解が深まった、というべきか。裕美は相変わらずGPSで見守っていた。でも、以前ほど頻繁には見なくなった。お父さんはちゃんと帰ってくる。それが分かったから。勇三も相変わらず出かけていた。でも、少し変化があった。
「今日は三時までには帰るわ」自分から帰宅時間を告げるようになったのだ。
「気をつけてね」
「おう」
そして、時々、自分から話すようにもなった。
「今日な、昔の教え子に会うたわ」ある日の夕食時、勇三が言った。
「まあ、どこで?」裕美は嬉しそうに聞いた。追及ではない。ただの会話だ。
「古書店でな、向こうから声かけてきよった」
「覚えていてくれたのね」
「ああ、もう五十過ぎとるんじゃけど、昔と変わらん顔しとったわ」勇三は楽しそうに話した。
裕美も楽しく聞いた。こういう会話ができるようになったことが、嬉しかった。
---
ある日曜の夕方。勇三は大量の山菜を持って帰ってきた。
「今日は大漁じゃったわ」
「すごい量ね」裕美は驚いた。
「どうするの、これ?」
「半分は、知り合いに持っていこうと思うてな」
「知り合い?」
「ああ。喜んでくれるんじゃ」勇三は嬉しそうだった。裕美は聞きたかった。誰に?でも、聞かない。お父さんが話したいときに、話してくれる。
---
翌火曜日。勇三はいつものように身支度を整えて出かけた。裕美は知っていた。
スナックプリンに行くんだ。でも、何も言わない。夕方、勇三が帰ってきた。
「ただいま」
「お帰りなさい」勇三は上機嫌だった。「今日な」勇三が自分から話し始めた。
「日曜に採った山菜、持っていったんじゃ」
「そうなの」
「ああ。めちゃくちゃ喜んでくれてな」勇三は嬉しそうに話した。「料理が上手い人でな。山菜の天ぷら、作ってくれたんじゃ」
「美味しかったの?」
「ああ、めちゃくちゃうまかった」裕美は微笑んだ。お父さん、いい顔してる。
「その人、どういう知り合いなの?」裕美は自然に聞いた。追及ではなく、ただの関心から。
「昔からの友達じゃ」勇三は答えた。「お母さんとも仲が良かったんじゃ」
「そうなの」
「ああ。三人でよう飲みに行っとった」勇三は少し遠い目をした。
「お母さん、元気じゃったからのう」
「うん」
母の思い出話。裕美は静かに聞いた。
「じゃから、時々会いに行くんじゃ。お母さんの話をしたりしてな」
「そうだったのね」裕美は胸が温かくなった。お父さんは、お母さんのことを今も大切に思っている。そして、お母さんの友達とのつながりも大切にしている。
「また山菜採れたら、持っていったるわ」
「ええ。喜ぶでしょうね」
二人は笑い合った。
---
次の日曜日。朝食の席で、拓也が言った。
「おじいちゃん、今日、俺も一緒に行っていい?」
勇三は驚いた顔をした。「山菜採りか?」
「うん。おじいちゃんがいつも行ってるところ、見てみたい」
「ええぞ」勇三は嬉しそうだった。「じゃあ、雨合羽用意しとけよ」
「今日は晴れてるよ」
「それでも持ってけ。山の天気は変わりやすいけえ」
「分かった」
二人は一緒に出かけた。裕美はスマホを開いた。青い点が二つ。お父さんと拓也。
二人の点は、いつものルートを進んでいく。電車、バス、神社、そして山。裕美は微笑んだ。お父さんと拓也が、一緒に冒険している。それが嬉しかった。
---
夕方、二人が帰ってきた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
二人とも、いい顔をしていた。
「お母さん、すごかったよ」拓也が興奮気味に話した。
「おじいちゃん、山登るの速いし、山菜見つけるの上手いし」
「そう」
「それに、おじいちゃんの友達、みんないい人だった」拓也は籠いっぱいの山菜を見せた。「俺も採ったんだよ」
「まあ、すごいわね」
裕美は息子と父を交互に見た。二人とも、本当にいい顔をしている。
「お父さん、ありがとう」
「なにがじゃ」
「拓也を連れて行ってくれて」
「ええんじゃ。孫と一緒は楽しいわ」勇三は笑った。
「それにな、拓也は筋がええわ。山菜採りの才能あるかもしれん」
「本当?」拓也が嬉しそうに聞いた。
「ああ、また一緒に行こうや」
「うん!」
裕美は二人の様子を見ながら、思った。これでいいんだ。GPSは、監視の道具じゃない。見守りの道具だ。そして、お互いを信頼するための、約束の印だ。お父さんは自由に生きている。私たちは安心して見守っている。その両方が、ちゃんと成り立っている。見守りと自由のあいだで。私たちは、ちょうどいいバランスを見つけたんだ。
第八章 スナックプリンへ
それから二週間後の火曜日。拓也が勇三に声をかけた。
「おじいちゃん、今日はどこ行くの?」
「いつものところじゃ」勇三は身支度をしながら答えた。
「俺も連れてって」
「え?」勇三は驚いた顔をした。
「今日は・・・ちょっと」
「ダメ?」
「いや、ダメじゃないけど・・・」
勇三は少し困った顔をした。裕美が口を挟んだ。
「拓也、お父さんには行きたいところがあるんでしょ」
「うん。でも、おじいちゃんの友達に会いたいんだ」拓也は真剣な顔をしていた。「山菜のお礼言いたいし」
「山菜の?」
「うん。おじいちゃん、山菜持っていくんでしょ?その人に」
勇三は観念したように笑った。
「まあ、ええか。ミミちゃんも喜ぶじゃろ」
「ミミちゃん?」
「スナックのママじゃ」
裕美も驚いた。「お父さん、スナックに・・・」
「ああ」勇三は堂々と答えた。「スナックプリン。昔からの知り合いじゃ」
裕美は複雑な気持ちになった。スナックに行っていたことは知っていた。でも、お父さんから直接聞くのは初めてだった。
「拓也、あんたまだ未成年でしょ」
「ジュース飲むだけだよ」
「そうじゃ。心配せんでええ」勇三が言った。「ちゃんと見とくわ」
裕美は迷ったが、頷いた。「分かったわ。気をつけてね」
二人は電車に乗った。二駅先の繁華街。
「この辺、初めて来た」拓也が周りを見回した。
「そうか。じゃあ案内したるわ」勇三は慣れた足取りで歩いた。スナックプリンに着き、入り口のドアを開けた。
「こんにちは」
「あら、藤崎さん」カウンターの向こうから、明るい声が返ってきた。
「今日は若い子も一緒ね」
「孫じゃ」
「まあ、いい子ね、いらっしゃぁい」
ミミは60代半ばくらいの、明るい女性だった。化粧は濃いが、目は優しい。
「初めまして」拓也は緊張しながら挨拶した。
「初めまして。ミミって呼んでね」
「はい」
「藤崎さん、今日も山菜持ってきてくれたの?」
「ああ。日曜に採ってきた」勇三は袋を渡した。
「ありがとう。また天ぷらにするわね」
「頼むわ」
二人はカウンターに座った。ミミがグラスを差し出す。
「藤崎さんはいつものウーロン茶ね。拓也くんは?」
「オレンジジュースください」
「はいはい」
店内には他に二、三人の客がいた。みんな勇三と同年代くらいの男性たちだ。
「藤崎さん、今日はお孫さんか」一人が声をかけた。
「ああ。山菜採りにも連れてったんじゃ」
「おお、若い衆は頼もしいのう」
和やかな雰囲気だった。拓也は少し緊張が解けた。
「ミミさん」
「なあに?」
「いつもおじいちゃん、お世話になってます」
「こちらこそ。藤崎さんが来てくれるとねぇっ、お店がフワッと明るくなるのよ」ミミは笑った。「それにね、山菜まで持ってきてくれて」
「おじいちゃん、ミミさんが料理が上手って言ってました」
「あら、いま聞いていた?」ミミは嬉しそうに勇三を見た。
「当たり前じゃ。ほんとのことじゃけえ」
「ありがとう」厨房から天ぷらのいい匂いがしてきた。
「はい、できたわよ」ミミが天ぷらを運んできた。
「わあ、美味しそう」拓也が目を輝かせた。
「食べてみて」
一口食べて、拓也は驚いた。「すごく美味しい!」
「でしょ?」ミミは満足そうだった。
「山菜は新鮮が一番なのよ」
三人で天ぷらを食べながら、話は続いた。
「ミミさん、おじいちゃんとは昔からの知り合いなんですか?」
「ええ。藤崎さんがまだ教師してた頃からね」
「そうなんですか」
「奥さんとも仲良かったのよ」ミミは懐かしそうに言った。
「三人でよく飲みに来たわ」
「おばあちゃんも?」
「ええ。藤崎さんの奥さん、明るくて素敵な人だった」
勇三は静かに頷いた。
「酒が強くてな。わしより強かった」みんな笑った。
「だから」ミミは優しく言った。「藤崎さんが通ってきてくれると、奥さんを思い出すの。嬉しいのよ」
拓也は祖父を見た。祖父の目が、少し潤んでいるように見えた。
「ミミちゃんにはな、お母さんの話ができるんじゃ」勇三が静かに言った。「家じゃ、なかなか話せんけえ」
拓也は理解した。おじいちゃんは、おばあちゃんのことを話したかったんだ。でも、家では話しづらかった。お母さんが悲しむかもしれないから。だから、ここに来ていたんだ。
「おじいちゃん」
「なんじゃ」
「また一緒に来ていい?」
「おお、ええぞ」勇三は嬉しそうに笑った。
「ミミちゃん、ええか?」
「もちろんよ。いつでも大歓迎よ」
帰りの電車の中。拓也は祖父に言った。
「おじいちゃん、いい場所だね」
「そうじゃろ」
「ミミさん、いい人だし」
「ああ。ええ人じゃ」
電車が揺れる。二人は並んで座っていた。
「おじいちゃん」
「なんじゃ」
「お母さんに、言っていい?今日のこと」
勇三は少し考えた。「・・・ええぞ。もう隠すこともないし」
「それにな」勇三は窓の外を見た。
「裕美も知っとると思うわ。GPS見とるじゃろうし」
「でも、追及はしてないよね」
「ああ。それが嬉しいんじゃ」
拓也は頷いた。「お母さん、頑張ってるよね」
「ああ。ほんまに、ええ娘じゃ」
家に着くと、裕美が玄関で待っていた。「お帰りなさい」
「ただいま」
「どうだった?」裕美が拓也に聞いた。
「すごく良かった!ミミさん、めちゃくちゃいい人だった」
「そう」
裕美は少しほっとした顔をした。「それに、天ぷらがすごく美味しくて」
拓也は興奮気味に話した。裕美は父を見た。父は静かに微笑んでいた。
「お父さん」
「なんじゃ」
「私も・・・一度、行ってみてもいいかしら」
勇三は驚いた顔をした。「ええのか?」
「ええ。だってお母さんの友達なんでしょ?」
「ああ」
「なら、私も会いたいわ」
勇三は嬉しそうに頷いた。「じゃあ、今度一緒に行くか」
「うん!」裕美は微笑んだ。追及じゃない。ただ、お父さんの大切な場所を知りたい。お父さんの大切な人に会いたい。それだけだった。
第九章 家族で
次の火曜日。
裕美は勇三と拓也と一緒に、スナックプリンに向かった。正樹は仕事があって来られなかったが、「また今度」と言っていた。電車の中、裕美は少し緊張していた。スナック。人生で数えるほどしか行ったことがない。
「お母さん、大丈夫?」拓也が聞いた。
「ええ、大丈夫よ」
「ミミさん、優しい人だから」
「そうね」裕美は窓の外を見た。
お父さんが毎週通っている場所。どんなところなんだろう。ドアを開けると、明るい声が迎えた。
「いらっしゃい・・・あら、藤崎さん」
「こんにちは」
「今日は女性も一緒なのね」
「娘じゃ」
「まあ!」ミミは驚いた顔をした。「えっもしかして・・・裕美ちゃん?」
「はい、えっ何で?」
「当たり前よ、小さい頃よく会ってたわ」ミミは嬉しそうに笑った。「こんなに大きくなって。立派なお母さんになって」
裕美にはおぼろげな記憶があった。母に連れられて、どこかのお店に行ったこと。明るい女性が、自分に優しくしてくれたこと。
「言われてみると・・・なんか少しだけ、覚えてます」
「そう?嬉しいわっ」
三人はカウンターに座った。
「裕美ちゃん、久しぶりね」ミミが優しく言った。「お母さんのこと、よく思い出すのよ」
「そうですか」
「ええ、とぉっても明るくて素敵な人だったのよ」ミミは懐かしそうに笑った。「最期は・・・穏やかだった?」
「ええ、苦しまずに逝きました」
「そう・・・」ミミは少し目を潤ませた。「それなら良かったわ」「お葬式、行けなくてごめんなさいね。その頃、私体調崩してて・・・」
「お気になさらないでください」
「でも、藤崎さんがこうして通ってきてくれて、嬉しいの」ミミは勇三を見た。「奥さんのこと、たくさん話してくれるから」
裕美は父を見た。父は少し照れくさそうにしていた。
「お父さん、ここでお母さんの話をしてたのね」
「ああ、ミミちゃんはお母さんのことよう知っとるけえ」
「そうだったの・・・」裕美は少し胸が痛くなった。お父さんは、家では母の話をあまりしなかった。自分たちに気を遣っていたのかもしれない。でも、ここでは話せた。だから、お父さんにとって大切な場所だったんだ。
「裕美ちゃん」ミミが言った。「お父さん、本当に奥さんのこと大事に思ってるのよ。毎週来て、奥さんの話をして。時々、山菜も持ってきてくれて・・・」ミミは優しく笑った。「奥さんね、山菜料理が好きだったの」
「そうなんですか」
「ええ。だから、藤崎さんが山菜持ってきてくれると、奥さんを思い出すの」
裕美は涙が出そうになった。お父さんは、母のために山菜を採っていたんだ。母のために、ここに持ってきていたんだ。
「お父さん・・・」
「なんじゃ」
「ごめんなさい」
「何がじゃ」
「お父さんの気持ち、全然分かってなかった」裕美は涙を拭いた。「GPS持たせようとして、監視するみたいなこと言って」
「もう、ええわ」勇三は娘の肩を叩いた。「今はちゃんと分かり合えとるじゃろ」
「うん」
「それで十分じゃ」
ミミが天ぷらを運んできた。「さあ、召し上がれ」
四人で天ぷらを食べながら、話は続いた。母のこと、昔のこと、楽しかったこと。
裕美は初めて知る母の姿を、ミミから聞いた。
「奥さんね、とても明るい人だったのよ。歌も上手くて、よくカラオケ歌ってたわ」
「そうなんですか」裕美は驚いた。母が歌好きだったなんて、知らなかった。
「藤崎さんより上手だったわよね」
「ああ、認めるわ」勇三は笑った。「わしは音痴じゃけえ」
みんな笑った。裕美は、温かい気持ちになった。ここは、お父さんにとって大切な場所だ。母を思い出せる場所。母との思い出を共有できる場所。そんな場所があることが、嬉しかった。帰りの電車の中。裕美は父に言った。
「お父さん、いい場所ね」
「そうじゃろ」
「お母さんも喜んでると思うわ」
勇三の目が潤んだ。「・・・そうじゃな」
「お父さん、これからも通ってね」
「ああ」
「私も、時々一緒に行ってもいい?」
「もちろんじゃ」勇三は嬉しそうに笑った。
拓也も言った。「俺も行く」
「じゃあ、家族で行くか」
「うん」裕美は微笑んだ。
GPSは、監視の道具じゃなかった。お父さんを理解するためのきっかけだった。お父さんの大切な場所を知るための。そして、家族の絆を深めるためのきっかけだった。家に着くと、正樹が待っていた。
「どうだった?」
「良かったわ」裕美は笑顔で答えた。「ミミさん、とてもいい人だった」
「そう」
「お母さんの友達で、お父さんの大切な場所だったの」
裕美は正樹に今日のことを話した。正樹は静かに聞いていた。
「お父さん、そんな風に奥さんを思ってらっしゃったんだね」
「うん」
裕美は幸せな気持ちになった。お父さんを理解できた。お父さんの大切なものを知ることができた。それが何より嬉しかった。
第十章 一年後
それから一年が過ぎた。藤崎勇三は83歳になっていた。相変わらず元気に出かけている。スナックプリン、古書店、昔の学校、山菜採り。そして最近、新しい場所も増えた。地域の老人会。図書館のボランティア。近所の子供たちへの読み聞かせ。裕美はGPSで見守っている。でも、以前ほど頻繁には見なくなった。お父さんは、ちゃんと帰ってくる。それが分かっているから。ある日、勇三が珍しく昼過ぎに帰ってきた。
「お父さん、どうしたの?」
「ちょっと疲れてな」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃ。年じゃから、こういう日もある」勇三はソファに座った。
裕美は心配したが、何も言わなかった。お父さんは自分の体のことを、ちゃんと分かっている。無理はしない。それも信じている。その日、勇三は早めに寝た。
翌日、また元気に出かけて行った。拓也は、月に二回ほど、祖父と山菜採りに行くようになった。大学の友達にも、その話をする。
「うちのおじいちゃん、83歳なのに、毎週山登ってるんだ」
「すげー」
「しかもGPS持って、行き先は基本的に秘密」
「かっこいいじゃん」
「でしょ」拓也は誇らしかった。
自分の祖父が、こんなに元気で、こんなに自由に生きている。
正樹も、月に一度は義父と出かけるようになった。古書店巡りや、昔の学校巡り。
「お父さんって博識ですよね」
「そうか?」
「ええ、本のことも、歴史のことも、よく知ってらっしゃる」
「長く生きとるけえな」
二人の関係も、以前より近くなった。
裕美は、週に一度、父とスナックプリンに行くようになった。ミミとも親しくなり、母の思い出話をたくさん聞いた。
「お母さん、こんな人だったんだ」
知らなかった母の姿。それを知ることができて、嬉しかった。そして、父がここに通う理由も、深く理解できた。
ある日曜日の夕方。勇三は山菜採りから帰ってきた。拓也も一緒だ。
二人とも、いい顔をしていた。
「お父さん、今日はどうだった?」
「ええのが採れたわ」勇三は籠を見せた。「これ、ミミちゃんに持っていくわ」勇三は籠を台所に置いた。
それから、ポケットからGPS端末を取り出した。
「これな」
「うん」
「一年以上、持ち続けとるわ」
裕美は頷いた。「うん」
「最初は嫌じゃった」
「覚えてるわ」
勇三は端末を見つめた。「でもな、このおかげで、わしは自由に動けた」
「お父さん・・・」
「おまえらが約束守ってくれたからじゃ」
裕美は目頭が熱くなった。
「これからも持ち続けるわ、わしの自由の証じゃ」
拓也が言った。
「おじいちゃん、かっこいい」
「またそれか」
みんな笑った。
勇三は続けた。「でもな、いつかは持てん日が来るかもしれん」
「・・・」
「そのときは、おまえらに任せる」
裕美は頷いた。
「わしが本当に道に迷うようになったら、その時はもっと別の助けが必要じゃろ。でも、今はまだ大丈夫じゃ」
「分かったわ、お父さん」
勇三は端末をポケットにしまった。「さあ、今日の山菜で、何作るんじゃ?」
「天ぷらがいいわ」
「おお、ええな」
家族は夕食の準備を始めた。その夜、裕美は一人で考えた。一年前、自分は必死だった。お父さんにGPSを持たせること。それだけを考えていた。お父さんの気持ちは、二の次だった。でも、お父さんは教えてくれた。
自由の大切さを。
信頼の大切さを。
約束の大切さを。
そして、見守りと自由は、対立するものじゃないということを。両立できるということを。
裕美はスマホを開いた。GPSアプリ。青い点が、家の中にある。
お父さんは、ちゃんとそこにいる。裕美は微笑んだ。見守りと自由のあいだで。私たちは、ちょうどいい距離を見つけた。
お父さんは自由に生きている。
私たちは安心して見守っている。
それでいい。それが一番いい。裕美はアプリを閉じた。明日も、お父さんは出かけるだろう。そして、私は見守るだろう。追及せずに。信じて。それが、私たちの新しい日常だ。
翌朝。勇三は朝食を済ませると、出かける準備を始めた。
「今日は四時には帰るわ」
「気をつけてね」
「おう」勇三は玄関に向かった。
そのとき、拓也が声をかけた。
「おじいちゃん、来週の日曜、俺も行っていい?」
「おお、来るか」
「うん。友達も連れて行きたいんだけど」
「ええぞ。若い衆は大歓迎じゃ」
「やった」
勇三は嬉しそうに笑った。
エピローグ
半年後の秋。日曜日の午後、藤崎家のリビングには珍しく全員が揃っていた。
「おじいちゃん、これ見て」拓也がノートパソコンを開いた。
「なんじゃ」
「GPSの履歴、地図に表示できるんだよ」
画面には、この一年半の勇三の足跡が、色とりどりの線で描かれていた。
「おお・・・」勇三は画面を覗き込んだ。
自分が歩いた道。訪れた場所。すべてが、そこに記録されていた。
「すごいでしょう。これ、プリントアウトもできるんだよ」
「ほう」
「『おじいちゃんの冒険マップ』って名付けようと思って」
勇三は笑った。
「冒険ちゅうほどのもんじゃないわ」
「いや、冒険だよ」拓也は真剣な顔で言った。「83歳で、こんなにいろんなところ行ってるんだもん、すごいよ」
裕美も画面を見ながら言った。
「本当ね。お父さん、よく歩いたわね」
「まあな」勇三は少し照れくさそうだった。
正樹が指差した。
「これ、一番遠いところはどこですか?」
「ああ、それは隣の県じゃな。昔の教え子が店出しとるって聞いて、行ってみたんじゃ」
「へえ」
「喜んでくれてな。昔の話で盛り上がったわ」
家族は画面を囲んで、勇三の足跡を辿った。一つ一つの場所に、物語があった。
「お父さん」裕美が言った。「この地図、額に入れて飾ろうか」
「ええのか?」
「ええ。お父さんの勲章よ」
勇三は少し考えて、頷いた。
「じゃあ、頼むわ」
---
その夜、勇三は一人でベランダに出た。秋の夜風が心地よい。ポケットからGPS端末を取り出した。小さな機器。最初は嫌で嫌で仕方なかった。でも今は違う。これは自分の自由の証だ。
「お父さん」裕美が隣に立った。
「寒くない?」
「大丈夫じゃ」
二人は並んで夜空を見た。
「お父さん、ありがとう」
「なにがじゃ」
「約束、守ってくれて」
「当たり前じゃ。おまえも守ってくれたじゃろ」
裕美は微笑んだ。
「見守るって、こういうことなのね」
「ああ」
勇三は娘の肩に手を置いた。
「見守りと自由。どっちも大事じゃ」
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翌朝。勇三はいつものように出かける準備をしていた。
「今日は五時には帰るわ」
「気をつけてね」
勇三は玄関を出た。裕美は窓から、父の後ろ姿を見送った。スマホを取り出したが、アプリは開かなかった。今日は見なくてもいい。お父さんは、ちゃんと帰ってくる。
見守りと自由のあいだで。私たちは、ちょうどいい距離を見つけた。完璧じゃないかもしれない。でも、私たちにとっては、これが一番いい。
(了)




