3/9のティラミス
乃璃子から『大学卒業した』と一件のLINEがきたとき、私は渋谷にあるドラッグストアでマジョリカマジョルカの香水と、CANMAKEのアイシャドウを買い物籠に入れて、レジの列に並んでいた。LINEを打つため、肘に挟むように持った籠の中で、四色の小さなアイパレットと、耽美なキャッチフレーズの華奢な香水が、不安定にからころ、と転がる。
『おめでとう』という言葉と共に、うさぎがクラッカーを鳴らしているスタンプを送ると、既読 がついて、彼女が好きなゲームのキャラクターの イラストの右横に『ありがとうでごじゃる』と書かれたスタンプが送られてきた。
そして、『今日あたしの家、寄れる?』と再び メッセージがトーク画面に表示され、私もすぐに 『寄れるよ』と返信したところで「次でお待ちのお客さまー」と店員に呼ばれ、私はバッグのポ ケットに素早くスマホを突っ込むと、ピンクのリボンのついた白のウェッジソールを鳴らして、レジカウンターに向かった。
×××
「髪、染めたんだね」
LINEで指定された新宿駅の東改札の柱に凭れかかりながら、濃紺のツーピースを着て、太宰治の『人間失格』を読んでいた乃璃子は、「お待たせ」と告げた私を見て開口一番にそう云うと、似合ってる、と淡々と、喜怒哀楽のどれでもない無表情を顔に浮かべた。
三日前に原宿で染めた、私のいちごミルク色の髪に驚いた様子もない、彼女の反応に安堵する。
ジンジャー色やバニラ色に染めていた美術学生時代と違い、ピンクな髪の上にロリータファッションを身に纏った私は、街中を歩いたり、電車に乗るだけで、好奇の目に晒されることがザラだ。
だから、乃璃子の興味がなさそうな淡白な反応が嬉しくて、私は思わず弾んだ声を上げる。
「卒業祝いのケーキ、どこで買う?やっぱり、ピエール・エルメ・パリ?」
ドラッグストアでの買い物を終えた私に、卒業パーティーを一緒にしようとLINEを送ってきた彼女に、今日明日とバイトが休みだった私は、おっけー。とうさぎが云っているスタンプを送って、今学校から帰る途中の彼女と新宿駅で待ち合わせをした。新宿へと向かう電車に、吊り革を持ちながらも、くらげのように、ゆらゆらと揺れて駅へと着いた。
「そんな金ないよ」
「私が奢るよ」
「いや、そんなの君に悪い。スーパーでいいよ」
さすが、有楽町でサイゼリアの昼食を食べる女だ、と乃璃子のあまりの無欲さに感動すら覚えながら、改札を抜けて、彼女の独り暮らしする江東区のアパートへと向かう電車に今度は乗った。隣の席に座った乃璃子が独り言のように云う。
「…本当に卒業できてよかった。これでお母さんに迷惑かけないで済む」
その言葉に、高校三年生だった彼女に、馬鹿な大学に行ったら学費を払わない、と云ったらしい、何度か見たことのある、瀟洒な格好の気品がある女性を思い出した。私の、母親と形容するのもおぞましい女性も、コーカソイドを思わせる彫りの深い目鼻立ちの美しい人で、容姿端麗な人は、お母さんという職業に向いてないのではないか、と一瞬思う。
「でも、カラオケで学割使えなくなるよ」
「ああ、それは嫌かも」
しばしの空白の後、そう返した私に乃璃子は今日初めて笑う。その笑顔を見て、私にも嬉しさが伝染し、rom&ndのピンクベージュを塗った唇の口角が上がるのがわかった。
すると、彼女はブルーブラックのバッグから、青い筒を取り出して蓋を開けると、中に入っていた卒業証書を私に見せる。
クリーム色の紙には達筆で『朝木那 乃璃子 あなたは大学の課程を終了したことをこれを証します』と書かれていた。
「どうせなら、人生の課程も終了したかった」
「わかる。私卒業式、喪服で出ようかと思ったもん」
「喪服いいね、着たの?」
「ううん、ピンクの和風ロリータにした」
「なんだ」
失笑した乃璃子に、私も苦笑した。
大学を留年し、首を吊るための縄を買った乃璃子と、卒業制作で天才と同じアトリエになり、自分の才能の無さに絶望してODした私は、生きていくというだけで傷つき血を流す、まるで双子のように魂の形が似ている。
「人間の最大の不幸って、こんな世界に生まれてきたことだよね」
「わかる、私も単位足りなくて留年するぐらいだったら、生まれてくるのも落単したかった」
しばらく、車内に人がほとんどいないことをいいことに不穏な会話をしていると、次は東雲駅ー、東雲駅ー、とアナウンスがかかり、電車が減速し始める。
私は膝に乗せていた、ピンクのハート形のバッグを手に持つと、何かのキャラクターのキーホルダーがじゃらじゃらと付いた、フォーマルなバッグを肩にかけた乃璃子の後に続き、駅のホームへと降りた。
「一番安いスーパー、ここから歩いて三十分なんだけど、その靴で歩ける?」
「うん、この靴で出かけること多いんだけど、結構歩きやすいよ。これ」
ぴょん、と片足を上げて、ウェッジソールを自慢するように見せびらかした私に、なら歩こうか、と彼女はさっさと灰青色のローヒールで歩き出す。私は慌てて追いかけ、乃璃子の隣にすぐに並んだ。
強い春風が吹いて、隣を歩く彼女の下ろした長い黒髪をぶわり、と扇のようにたなびかせる。露わになった右耳に、シルバーのイヤーカフがついているのが見えた。
「乃璃子がアクセサリーつけてるの珍しいね」
「うん、鷹凪がつけてるの見て、お揃いにした」
鷹凪というのは、乃璃子の好きなソーシャルゲームの推しで、彼女がガチ恋しているキャラクターだ。相互フォローしているXでも、鷹凪のことばかり呟いている。
常に豪風雨のように荒ぶったポストばかりしている人とは思えないほど、別人のように相変わらずの無表情で感情のこもっていない声で、
「そういえば、君の推しのメン地下?のTシャツ着た写真、見たよ」
「あ、うん。モカ君のTシャツ、デザイン可愛かったから、通販で買ったの。これから暑くなるし、ちょうどいいかなって」
三つ持っているTwitterのアカウントのひとつで、趣味垢に載せた、私のHARIBOグミと同じぐらい好きなメン地下、『傾国ロイヤル』のメンバーで、私の推しのモカ君がデザインした、白地で胸元にピンクの心臓に絡みついた薔薇と、背面にはピンクの編み込みリボンが描かれ、フリルの大きな丸襟と袖口にレースのついたTシャツを着て、スタンドミラーの前で撮った写真は、十四件ほどいいねのハートマークがついた。確か乃璃子もいいねを押してくれた気がする。
「実は髪、ピンクに染めたのも、そのTシャツに合わせるためなんだよね」
「へー、そういえば君の推し、イメージカラー、ピンクだったっけ」
「うん、モカ君とお揃いにしてもらったの」
推しの自撮り写真を美容師に見せて、何度もブリーチしてもらい、ペールピンクに髪を染めた次の日、何か心無いことを言われるかもと諦観を覚えながらも、バイト先であるアニソンバーに出勤すると、客たちからはVOCALOIDの巡音ルカが3Dになったようだ、と意外にもたいへんウケがよかった。
そのことを乃璃子に云うと、ああ確かにルカ姉さんっぽいかも、と私の綿菓子のように巻いたロングヘアをちらり、と見る。
「君の髪、原宿とかで一時期バズるスイーツみたいだね」
「…それって褒めてる?それとも貶してる?」
「さぁ、どっちだろうねー」
揶揄っているのではなく、ただ単に思ったことを口に出しているだけなのであろう乃璃子は、真昼というには少しだけ太陽が転げ落ちた、春の青い涙を貯めて霞んだ空の下で、くっきりと輪郭を保ったスーパーの前で足を止めた。
そして、着いたよ、と一言云うと、さっさとスーパーの自動ドアをくぐり抜け、私も慌てて後に続く。
すると、ほーおをさーすあさのやまてどぉりー、と獣の慟哭のような女性のBGMと、開けっ放しの冷蔵庫のような冷気が私を出迎えた。
買い物籠を片手に持った希望は、迷うことなくスイーツコーナーへと向かうと、ふた切れのショートケーキとモンブラン、そしてティラミスが入ったパックをじっと見る。たばこのあきばこをすてるー、と椎名林檎の歌声が、主婦であふれかえる牧歌的なスーパーに、不協和音を奏でた。
「君、ティラミス食べれる?」
「あ、うん。私カフェイン中毒患者だし」
「じゃあ、これにしよ」
と、ティラミスがふた切れ入った、三百五十円のパックを丁寧に、彼女はプラスチックの緑の買い物籠に入れると、さっさとレジカウンターへと向かう。私は邪魔にならないよう、レジカウンターの近くの壁にもたれかかり、ロリィタさんのバイブルである、嶽本野ばら先生の『ハピネス』を読み始めた。
程なくして会計を済ませ、有料のビニール袋にティラミスを入れた乃璃子が、お待たせ、と声をかけてきて、私は小説から顔を上げ、栞を挟む。
「じゃあ、あたしの家いこっか」
「うん」
ティラミスと氷結にほろ酔いが無造作に入った小さなビニール袋を揺らして、リストカット跡だらけの手を握り合い、昼の街に立ち入り禁止令が出された私たちは、夕方の中でいつまでもレミオロメンの3月9日を歌っていた。
瞳を閉じればあなたが
まぶたのうらにいることで
どれほど強くなれたでしょう
あなたにとって私も そうでありたい