2回目・3回目:心臓を一突きして即死、頭部破壊
呆気に取られていたが、ふと不安がよぎりアレクセイは塔の上を見上げる。
あの男の死体はどうなった?
先ほど自分の手で殺めたのだ。命を狩ったことをこの目で確かめている。だがそれが幻だとしたら? 急く気持ちに押されて外壁の出っ張りに手をかけた。
風に煽られながら再び塔を登っていく。焦っているため初めより動きが覚束ず、何度か足を滑らせそうになった。壁の破片が乾いた音を立てて落ち、闇の中に吸い込まれていく。
まさか。そんなわけない、まさか。
もう一度窓まで辿り着くと、来た時と同じく閉まっていた。
窓枠に手をかけると抵抗なく開く。鍵はかかっていない。中を覗けば記憶の中にある光景と同じものがあった。
小さな部屋に簡素な家具、中央の木製の椅子に座る男はその横顔に金色の髪を揺らしている。
アレクセイが中に入ると、相手は来訪者に気づいて緩慢な動きで振り返った。アレクセイが先ほど見た動きと寸分違わず。
「こんばんは」
男は同じ言葉を、同じ声質で、同じテンポで挨拶を口にする。その不気味さに息を呑んだ。
何が起きたんだ。信じられない光景に、アレクセイは自然と口を開いた。
「お前、本物の竜なのか」
侵入者に男は緩い笑みを向ける。
「うん、そうだよ」
この男は絶対に殺さなければいけない。アレクセイは素早く剣を抜いた。
「ならば死ね」
一気に距離を詰め、短剣を相手の心臓に突き刺す。皮膚を破り、肉を裂き、内臓を突き破る感触を確かに捉えた。
男は口から血を噴き出し、アレクセイの頬を濡らした。背もたれに預けるように崩れ落ちた体は間もなく絶命する。
「一体なんだったんだ」
心因的な理由で息を乱しながら、アレクセイは手首を振って刃についた血を払った。
今度こそ仕留めたはずだ。怪しげな技だろうとそう何度も使えまい。弛緩した男の体が動き出す様子はなかった。
「……戻るか」
死体を一瞥して振り返ると、目の前に塔の外壁が現れた。足元は踏みしめられた草が乾いた音を立て、夜の冷たい風が露出した顔を撫でる。
また外に居る。先ほどまで塔の中にいたのに。
「何で」
改めて自分の姿を確認する。手に持っていた短剣は腰に下げている鞘に戻っていて、抜いて見ると汚れひとつない。頬を濡らしていた血は消えている。
動揺による発汗で濡れた首筋は乾いていて、壁を登った際に汚れた手袋は綺麗なままだ。
「これじゃまるで……」
時間を遡っているというのか。状況を受け入れられずアレクセイは呆然と立ち尽くした。
「何が起きてる、どうして」
アレクセイは短剣で己の手首を切りつけた。浅く切られた皮膚は赤を滲ませ、ピリリと弱い痛みを走らせる。
やはり現実としか思えない。得体の知れない恐怖がまとわりつき、呼吸が速まっていった。
自分は一体何に巻き込まれているというのだ。
「まさかアイツを殺すと戻るのか」
2回とも男が死んだ直後に塔の前に戻っている。ならばターゲットの死がこの不可解な出来事のトリガーになっているかもしれない。
(落ち着け、不測の事態でも冷静に判断しろ)
アレクセイは焦りを止めるために何度か深呼吸をした。新鮮な酸素を肺に送ることで、少しだけ平静を取り戻す。
どうすればこのループから抜けられる? 相手を殺さないといけないのに相手が死ねばその出来事を無かったことにされてしまう。
竜かと問うた時に肯定された。もうその返答が冗談とは思えない。
これが竜が持つ力だとしたら、シルフィリア王国は時を操る能力を持っていることになる。父王の懸念が事実となったのだ。
「……相手から情報を得るしかない」
アレクセイは覚悟を決め、再び壁に手をかけた。
「こんばんは」
3度目の出会いも同じ言葉、同じ表情だった。
男は何の疑問も無くアレクセイを受け入れている。短剣を構えているのにも関わらずだ。
「少しでも抵抗すれば殺す」
「わぁ、物騒だね」
笑みを崩さず呑気な返答をする男に、アレクセイは若干の苛立ちを感じる。誰のせいでこうなってると思ってるんだ。
「お前は何者だ」
「俺?」
とぼける男を睨みつけると、相手は嬉しそうに目を細めた。
「俺は君たちの言うところの竜だよ。ワンと名乗っている」
「わん?」
聞きなれない名前にアレクセイは表情に警戒の色を強める。
「自分で名付けたのか」
「いいや、尋ねたらそうだと返ってきた。それで、君の名前は」
手のひらを上にして、優雅な動きでアレクセイに向ける。やはり敵意はなさそうだ。アレクセイは剣の柄を握ったまま3歩前に進んだ。
「アレクセイ・ディ・アシュレイ。隣国フォルティオンから来た国王直属の暗殺者だ」
「そう、アレクセイ。なるほど……アレクセイか」
探りを入れるために全て明かしたというのに、ワンは最初の名前しか気にしていないらしい。
「夜の精霊が来たのかと思ったけど、人間だったんだね」
「はあ?」
「君は綺麗だ」
目が腐っているのだろうか、とアレクセイは軽蔑する。塔に閉じこもっていると美的センスが失われるのかもしれない。
「お前、竜だったな」
「そうだよ」
「竜はよっぽど物好きらしいな」
「そんなことはないさ。俺は美しいものにしか興味ないよ」
ワンが微笑むと開けたままの窓から冷たい空気が流れ込んでくる。森の匂いを纏った風は目の前にいる男によく似合う。
未知数で、見えているのに全貌を掴みきれない不気味さ。
彼は自然そのものだ。緊張感から抜け出せず、アレクセイは重い口を開いた。
「竜は妖しの技を使うのか」
「どうだろう。俺はまだ同胞に会ったことがない。そして自分が何をできるかも知らない」
「知らない?」
「うん、俺はまだ幼体なんだ」
まさかアレクセイの身に起きていることを知らないのだろうか。余計状況を把握できずに混乱していると、ワンは立ち上がり好奇心を宿した目でアレクセイの顔を覗き込んだ。
「それより君のことが知りたい。アレクセイ、君のことを教えて」
「お前が知るべき情報は先ほど全て話した」
「はて」
「お前を殺しにきた」
相手の視線を鬱陶しげにするアレクセイは、もはや隠し事をする気は無かった。何度も手をかけてわかったが、この男はまるで危機感がなく無防備で隙だらけだ。口封じをしようと思えばいつでもできる。
また時間を戻すことにはなるが、相手が何度も対策せず殺されるあたり記憶を保持していないか邪魔する気は無いように見える。
「俺を殺したいのか。それは困る。俺はまだ君のことを何も知らない」
「は?」
「君の名と、種族以外知らない。何も知らないのに死ぬのは困る」
「だから言っただろう。隣国から来た暗殺者だと」
「それはただの肩書きだ。俺は君の中身を知りたい」
ワンは前のめりになると、ためらわずにアレクセイの空いている方の手を握った。振り払おうとしたが、離す気は無いようで握りしめられたままだ。
「本気か」
「本気だよ」
薄気味悪い男だ。殺しに来たという相手に何故ここまで隙を見せられるのだろう。アレクセイは肌が粟立つのを感じながらも、ならば試してみるかと考えを巡らせた。
「知りたければ俺と戦い、屈服させてみろ」
「それはさらに困った。俺は君と戦いたくない」
眉をハの字に下げて悲しそうにする。演技なのか素なのかまるでわからない。
「お前が持つ力を使えばいいだろう」
「俺の? そっかぁ……」
自覚が無いワンは少し悩んだ後、アレクセイの手を引いた。
「なら」
後頭部にワンの手が添えられたと思うと、ワンの唇はアレクセイの唇に重なった。あまりにも自然な動作だったため、反応が遅れてされるがままになってしまう。
(え……)
抵抗しようとしたが、もう片方の手で腰を支えられ体を密着させられる。角度を変えながら何度も唇が落とされると、未知の感覚に頭が痺れ、アレクセイは動きを止めた。
潤いを帯びた柔らかな感触。甘い果実に口をつけるような瑞々しさ。長い睫毛の奥に潜む黄金の瞳は甘い蜜を溶かしたように深く濃厚で、アレクセイの心の中まで見透かしているようだ。
あれ、同じだ。
夢の中で一瞬目が合った生き物。遠くに羽ばたいていく美しい体躯。輝く光を集めた色。
何度も何度も焦がれて安らぎを与えてくれた竜と、この男はやはり似ている。
体から力が抜けたのを見計らい、ワンの舌が口内へと差し込まれる。中に潜んでいた柔らかな舌を絡めとられ、交わりを楽しみながらしっとりと撫でられる。
「んっ……んう」
羞恥や驚愕を甘い感触に上塗りされ、舌から全身へ喜びが駆け巡っていく。まるで長年望んでいたものを得たような幸福感、安心感。締め付けられる心に、思わず男にすがりたくなってしまう。魂の空いた部分を埋められたようだった。
ああ、世にはこんなに満たされるものがあるのか。心地よさに身を任せ、自らも熱を求めてワンの舌を追った。唾液が絡むたびに脳を刺すほどの悦を感じた。
手に残っていた力が抜けると、剣が重力に逆らえず落ちる。床にぶつかる金属の高い音が耳に届き、アレクセイの脳は覚醒した。
……俺は今、何をしている?
……コイツは今、俺に何をしている?
父王の声が頭を駆け巡る。国を守れ、人類の未来を守れ。
お前の存在意義はそのためだけにある。
もう一度男の黄金の目を見た。今も甘い蜜はアレクセイを飲み込もうとしている。取り込み、消してしまう。全てを。
怖い。
「ぐッ……」
ワンの体が揺れると同時にアレクセイは相手の体を突き飛ばした。足元をふらつかせるワンは目を見開き、空を掴んでる手を放心して眺めていた。
開いたままの相手の口からはドロドロと血があふれ出ている。アレクセイが床に向かって吐き出すと、血液と共に噛みちぎった舌の残骸が転がった。
「あ、りぇく、せ……ぃ」
傷つけられたことより拒絶されたことの方がショックだったらしい。酷く気遣う様子でアレクセイの頬に触れようとする。
だがアレクセイの心は怒りに染まり、目に殺意を帯びさせた。
「俺を……辱めたなッ‼︎」
ワンの頭を鷲掴みにすると、勢いのまま石の壁に叩きつけた。首の骨が折れ、頭蓋骨が砕ける感触を手のひらで感じる。
即死だ。
命を絶たれた体は無機物同然の動きで地面に落ちた。壁には赤黒い血痕が擦れながら残っている。




