泣き虫アサシンと竜の夢
視界の端から羽ばたく黄金が現れる。竜だ。
竜は全身の鱗に光を帯びながら優雅に空を飛んでいた。吸い込まれそうなほど澄んだ青に、太陽に負けずに輝く金がよく映えて美しい。
ゆらゆらり。
ゆるやかな曲線を描く尾は風に吹かれる麦の穂のようだ。
アレクセイはこの夢を見るたびに心を慰められる。どんなに鬱々とした想いを抱えていても、竜に会うとその神々しさに魅了されて、己の悩みが矮小なものに感じるのだ。現実が変わらずともまた生きようと勇気が湧いてくる。
見惚れていると一瞬視線が交わったが、竜はこちらに頭を向けることなく飛び去った。
とても自由で、うらやましい。
いつから見るようになったのだろう。気づいたら竜がこうして夢の中に現れるのだ。本の挿絵でしか見たことがないのに、その姿は鮮明で本物をそのまま映しているみたいだ。
会いに来て。彼が待ってる。
声が聞こえて振り返るが、誰もいない。そのまま奥から暗闇が広がり、間も無くアレクセイは飲み込まれた。
「ん……」
薄く瞼を持ち上げると月明かりの淡い色を感じる。夢の中で見た鱗と比べると随分と優しく穏やかな色合いだ。
窓から見える空は灰を混ぜた深い群青色で、月が雲のない空間を孤独に浮いている。寂しげな様子はどこか親近感があった。
アレクセイが目を覚ましたのは音がしたからだ。王城の端の塔で隔離されるように配置された部屋には滅多に人が来ない。遠くから響く足音だけで自分に用があることがわかった。アレクセイは頬に伝うぬるい雫を拭い、固いベッドから起き上がった。
前開きのシャツはボタンを留め忘れていて、心臓あたりにある小さなアザが目に入った。怪我をした記憶がない箇所だけど、いつの間にかある円状のアザは長年残り続けている。が、特に支障はないため放置している。
シャツを着直し上着を羽織ると、さらに上から闇に紛れる漆黒のマントを身につけた。腰には刃渡り30cmほどの短剣を下げる。
母親譲りのオリーブグリーンの髪をフードで隠し、王族の証である紫色の目を細めて小さく息を吐いた。
アレクセイ・ディ・アシュレイ。王族の名を持っているが私生児のため王位継承権はない。
アレクセイは王命を授かって要人を殺める、王直属の暗殺者だった。それは王族として中途半端で、しかし平民としても生きられないアレクセイに唯一残されたお役目だ。
「殿下」
扉の向こう側から聞こえるのは警戒するような低い声。おそらく王から指示を出された大臣あたりだろう。
「何用だ」
「陛下から直々にお話があると」
「わかった。もう行け」
このような接し方には慣れた。使用人すらろくに近寄らないこの塔は、アレクセイを俗世から切り離すためだけに存在する。
訪れる人は皆気味悪がり、あの大臣も先ほどのアレクセイの言葉ですぐに立ち去ったようだ。
自分は王のために他者の命を奪う。それだけの存在だ。人らしい扱いを求める方がおかしいのだ。
アレクセイはもう一度扉越しに気配を探ってから、音を立てずに部屋から出た。
父王に直接呼び出されたのは数ヶ月ぶりだ。普段命令を出す時は文をよこし、任務を終えた時は大臣や直属の兵士を通して話を聞くなど、父はできる限りアレクセイを物理的に遠ざける。
長い廊下を歩きながらアレクセイは嫌な予感に表情を曇らせた。煌びやかな装飾品が並ぶ光景が余計に不快な気持ちを増幅させる。
直接呼び出すということは、よっぽど人に知られたくないことか、重要な任務であることを示している。
これまでも死にかけたことは何度もあった。先月は単身で野党の根城に飛び込み壊滅させたが、首に敵の毒針が刺さり3日間生死を彷徨うことになった。
今回はそれよりも重い事案なのだと思うと足が重い。
「何だ」
すでに気配を察知してしたアレクセイは、相手が姿を現す前に視線を向ける。道角から現れたのはアレクセイより5つほど年上の男だった。
「ご無礼をお許しください」
「構わない、用件は」
彼は父王が気に入っている祈祷師だ。名は確かリシャと言っただろうか。
質の良い臙脂色の布に銀の刺繍を施したローブはいつ見ても派手に映る。一方で濃灰色の目に漆黒の髪と、他は地味な色合いで、穏やかな目つきは相手の警戒を無意識のうちに解かせるほど柔らかい。男にしては線の細い顔立ちは儚ささえ感じられた。
「殿下にどうしてもお伝えしたいことが」
「端的に言え」
「星のめぐりが特殊なのです。これから殿下の身には人々の価値観を覆すほどの出来事が起きるかと」
「は?」
リシャは夜空に輝く星の動きを見て占う星読みであった。この城に来る前は複数の貴婦人のもとを訪れて占っていたようで、さらにその前は異国で修行を積みながら町を巡っていたらしい。柔らかな物腰が評判よく、アレクセイとは対照的な存在だ。
城に来て間もない頃はアレクセイの腹違いの兄……正当な後継者である兄王子ライアンの側にいたはずだが、気づけば王の近くにいるようになった。
父はよっぽどこの男を気に入ったらしい。
リシャが不吉だと言えば王は用心深くなり、幸運だと言えば気分よく事を進める。そんな彼がアレクセイの身に何か起きると話すのだ。大抵の人は鵜吞みにするだろう。
「俺が死ぬと言いたいのか」
余計な世話だ。アレクセイは占いの類いを欠片も信じていなかった。
「わざわざ不幸になると伝えに来るとは殊勝な心掛けだな」
苛立ちの声色で返すとリシャは恐れを示して頭を下げた。仮にもアレクセイは王の子で、リシャは出身地もわからない流れ者。身分差は明らかだった。
「そんなつもりは。私はただ殿下に」
「貴様に案じられる筋合いは無い」
「……申し訳ございません」
アレクセイはリシャを無視して通り過ぎた。リシャは頭を下げたままだった。
彼から話しかけてくることは初めてで、なんなら直接言葉を交わしたのも兄王子が彼を紹介した時くらいだ。荒ぶる思考の隅で昔より顔色が悪かったなと思いながらアレクセイは歩を進めた。
王の私室に辿り着くと、父は険しい表情でアレクセイの顔を見た。灯りはサイドテーブルにひとつ灯しているだけで、窓から差す月明かりでやっと室内の様子がわかるくらいだ。薄暗い空間にいる父は生気をあまり感じられず、細く高い体格は針葉樹を連想させる。
「久しいな」
「はい」
アレクセイはフードを外してその場に跪く。例え血が繋がった相手だろうと無遠慮に見続けるわけにはいかない。
「お前に頼みたいことがあってな」
「何なりと」
顔を床に向けていると重々しい足音が近づき、ちょうど手が届かないほどの距離で止まった。アレクセイと同じ紫色の目が冷たく見下ろしているのだろう。
「隣国の竜を討て」
「竜、ですか」
思いがけない単語にアレクセイは顔を上げて父王の真意を探る。相手は冗談を言ってるわけではないようで、厳しい光を目に宿している。その眼差しに恐怖を感じ、すぐに目を伏せる。
竜。おとぎ話でしか聞いたことがない生物。人が住む大陸の外に実在していると言われているが、その姿を見た者はいない。だから竜を討てと言われてもピンと来なくて、何かの比喩表現じゃないかと思った。
「それはどのような……」
「シルフィリア王国は竜を飼っている。10年前に竜の卵を手に入れたと聞いたが、孵化させ今は生物兵器として育てているそうだ」
「本物の竜なのですか」
「わからぬ。だがリシャは国を揺るがす存在だと言っていた」
また星読みか。アレクセイは悪態をつきたい欲求を抑え言葉の続きを待った。
「竜の存在が今後我が国に影響を及ぼすのは明白だ。今のうちに潰しておく必要がある。だが竜は王都で飼っているそうだ。軍隊を向けるわけにはいかない」
「そこで、私を……ですか」
夢の中で見た竜の姿が頭によぎる。堂々としていて美しく、人とは異なる次元に存在する生き物。
そんな相手を殺せるのか? 自分が?
「お言葉ですが……流石に私1人で竜を退治するのは難しいかと」
それに今は北部の国境が他国から攻められており、戦況は思わしくないと聞いている。今シルフィリア王国にちょっかいを出す余裕はないはずだ。
「私の命令に逆らうのか」
父王の言葉は刃そのものだった。アレクセイは恐怖に駆られ奥歯を噛み締める。
「いえ」
神経を逆撫でしたことを悟り己の失言を恥じた。自分に進言する権利も拒否する権利もない。ただ言われたことをこなすのが役目だ。
「竜は脅威だ。我々が北と争っている間に竜を使って攻め込んでくるかもしれない。これは一大事なのだ」
「……」
アレクセイは黙って父の意見を受け入れた。
「アレクセイ、国を守れ。人類の未来を守れ。お前の存在意義はそのためだけにある」
「……はい」
答えながら腰に下げた短剣の鞘を撫でる。王族の護身用に作られたこの剣には、王家の家紋が刻まれている。アレクセイを縛りつける枷だ。
例え王族として正式に認められずとも、血の責任からは逃れられない。剣を抜くたびにその事実を突きつけられるのだ。
父はそうやって息子の人生を操り続けている。だがアレクセイも他にどう生きれば良いのかわからず、甘んじて受け入れていた。
アレクセイは自分の人生を諦めているから。
「話は終わりだ。準備ができ次第向かえ」
アレクセイは立ち上がり一礼をすると、そのまま父の私室を出た。相手は扉が閉まる瞬間までもこちらを見ず、窓の外を眺めていた。
「竜に、会えるのかな」
再び冷たい通路を歩きアレクセイは呟いた。夢の中で見た美しい姿。もし本当に実在するのなら会ってみたい。
虚しいだけの人生の終止符を竜が打ってくれるなら、尚のこと良いかもしれない。そう思うと少し心が軽くなり、無意識のうちに歩調を速めた。




