4枚目
心臓が早鐘を打つ。
震えそうになる足を踏ん張り、一歩、また一歩と距離を縮めていく。
あと数歩で届きそうな距離に、結鶴は思わず手を伸ばした。
何を話そうかなんて、考えてもいなかった。
とにかく、これでやっと解決するのだと──そう、思っていた。
指先が触れるよりも早く、恵子が結鶴の方を振り返った。
結鶴を映した目が、大きく見開かれていく。
恵子には記憶がないはずだ。
怯えの滲んだ表情に違和感を覚えた結鶴が口を開きかけるも、数歩後ずさった恵子は、何故か結鶴に背を向けて走り出した。
「待って!」
慌てて後を追う結鶴だが、思っていた以上に逃げ足が速い。
体力を消耗していたことも仇になり、結鶴と恵子の距離は段々と離れつつあった。
「お願い、止まって! 少しで良いから話を──」
疲労で足が絡まる。
向かいから走ってきた男と肩がぶつかり、結鶴は大きくバランスを崩した。
「おい! あんたどこ見て……って、大丈夫か!?」
朦朧とする意識の中、焦った様子で叫ぶ男の姿を最後に、結鶴の視界は真っ暗になった。
◆ ◆ ◆ ◇
「……恵子さん!」
「けいこ?」
ベンチで目を覚ました結鶴は、すぐ傍で聞こえた声に目を瞬いた。
「もう起きて平気なのかよ。つーか、びっくりしたんだぜ。急にぶつかってきたと思ったら、そのままぶっ倒れちまうんだからな」
「すみません。ご迷惑をおかけしました……」
しょんぼりと俯く結鶴を見て、男はやりづらそうに髪をかき上げている。
「もういいよ。俺は怪我もなかったし。嬢ちゃんはあとで医者に診てもらえよ」
「はい、そうします……」
ベンチにはタオルが置かれていた。
枕代わりになるよう、男が気を利かせてくれたのだろう。
タオルを持ち上げた男は、そのまま結鶴の隣に腰掛けてくる。
「てか、嬢ちゃんは何かあったわけ? かなり焦ってたみてぇだけど」
「……人を探してたんです。あの、私どのくらい寝てましたか?」
「たぶん、30分くらい?」
それほど時間は経っていないが、痕跡を見失うには充分な時間だ。
あの様子では、恵子が再びこの公園を訪れる可能性は低いだろう。
膝に顔を埋めた結鶴は、涙が溢れないよう唇を思いきり噛み締めた。
「嬢ちゃんが探してる相手の名前って、けいこ?」
「知ってるんですか!?」
「いや、さっき嬢ちゃんが自分で叫んでた」
希望を感じた結鶴が顔を上げるも、すぐに打ち砕かれてしまった。
「でも、どっかで聞き覚えがあるんだよな……」
落ち込む結鶴の隣で、男は顎に手を当てている。
「思い出した。前におふくろが話してた相手の中に、けいこって名前のやつがいたんだ」
「……っ、あの! お兄さんのお母さんと、会わせていただけませんか?」
結鶴の言葉に、男は悩んでいるようだった。
「いや、名前が同じってだけで、全くの別人かもしれねぇし……」
「それでもいいんです! お願いします!」
必死に頼んでくる結鶴を見て、男も何かを察したのだろう。
メモ帳を取り出すと、何かを書き込んでいく。
「明日の14時に入口で集合な」
「桜華大学病院……」
「俺のおふくろ、そこの病院に入院してるんだよ」
公園からほど近い場所にある大学病院は、先進医療や名医が揃っていることでも有名だった。
ぶっきらぼうだが、節々に根の良さが見えている。
結鶴が頷いたのを確認すると、男は「遅れんなよ」と言いながら去っていった。
◆ ◆ ◇ ◇
翌日、渡されたメモを握りしめ、結鶴は桜華大学病院の入口に立っていた。
タワーのように高い外観は、見上げるだけで首を痛めそうだ。
「お、来たか」
「あの……昨日は本当にすみませんでした」
ビニール袋を片手にやってきた男は、謝る結鶴に「もういいって」と返している。
「病室は五階だ。早く来ねぇと置いてくぞ」
「今行きます!」
小走りでついていく結鶴は、エレベーターの中で気づかれないように男の方を見た。
二十代後半といったところだろうか。
半袖から覗く腕は、よく鍛えられている。
「毎日お見舞いに来てるんですか?」
「まあな。あの公園はランニングコースの一部だし、ついでみてぇなもんだけど」
あくまでランニングのついでだと話す男だが、隠しきれない優しさを感じて、結鶴は小さく笑みを浮かべた。
「家族思いなんですね」
「嬢ちゃん、話聞いてたか?」
呆れと羞恥心に挟まれたかのような表情で、男は結鶴から顔を背けている。
503という文字の下には、日比野と書かれたプレートが差し込まれていた。
「おふくろー。来てやったぞ」
「あんたって子は、仕事もせずこんな時間に何やってるのよ」
「しばらく夜勤になったって言っただろ」
そうだったかしら?なんてとぼける女性を横目で見ながら、男はテーブルの上にビニール袋を置いている。
「今日は会わせたいやつがいるんだ」
男に手招きされ、結鶴はそろそろと前に進み出た。
「あ、あんた……! 未成年に手を出すなんて犯罪よ!」
「ちげぇよ! おふくろに会いたいって言うから連れてきただけだ」
「あら、あたしに?」
息子が連れてきた少女が、まさか自分に会いにきたとは思いもしなかったらしい。
女性は意外そうに目を瞬いている。
「なんて名前なの?」
「……あー」
「まさかあんた、名前も聞かずに連れてきたの?」
怒気を含んだ声に、男が気まずそうに視線を逸らした。
「不出来な息子でごめんなさいね」
「そんなことありません! えっと、思いやりのある方です……」
「あらあら」
声が尻すぼみになる結鶴を、女性は微笑ましそうに見ている。
「小っ恥ずかしいこと言うな」
「いいじゃないの。素直で可愛い子だわ。それなら自己紹介しましょう。あたしは日比野 朱里よ。こっちは息子の圭吾」
「結鶴と言います」
緊張した面持ちの結鶴に、朱里の表情が柔らかさを増した。
「結鶴ちゃんって言うのね。素敵な名前だわ」
「……ありがとうございます」
名前を褒められた結鶴の声が、微かに揺れる。
しかし、その些細な変化に気づいたのは、朱里だけのようだった。
「それで、あたしに会いたかった理由は何かしら?」