21枚目
結鶴をまいた恵子は、タイムリミットを超えたことで深く息をついていた。
一階に下りた恵子だが、医師や看護師が慌ただしく行き交っているのを見かけ、そのまま地下に向かう階段を下りていく。
おそらく、結鶴が死んだことで騒ぎになっているのだろう。
罪悪感も、自分への嫌悪感も山ほど抱えている。
恵子がいなければ、結鶴は今頃大切な家族と楽しく過ごしていたはずだ。
それでも、恵子にとって母は……何を犠牲にしても助けたい存在だった。
階段下の空間は閑散としており、薄暗い電球の明かりがぼんやりと周囲を照らしている。
もう少しだけ隠れていようと膝を抱えた恵子は、昔の記憶を思い返していた。
恵子の父は暴力的な人だった。
恵子に対して常に完璧を求めており、テストは満点が必須。
有名な進学校に入学させるため、恵子は小学生の頃から勉強ばかりの毎日を送っていた。
学校が終わればすぐに帰宅し、部屋でひたすら勉強三昧。
父の過剰な指導により友達と遊ぶこともできなかったが、恵子は決して逆らわず、父の言うことに従い続けた。
恵子は分かっていたのだ。
自分が従順であれば、母が痛い思いをすることが減ると。
父に暴力を振るわれるたび、母はいつも泣きながら恵子に覆い被さっていた。
ごめんねごめんねと何度も謝りながら、父に髪を引っ張られようが、背中を蹴られようが、恵子を抱きしめて離さなかった。
いつしか、恵子は母を守りたいと思うようになっていた。
細い腕で抱きしめてくれる母を、今度は自分が守ってあげたい。
そんな思いで、恵子は血の滲むような努力を続けた。
父の横暴が減るよう、恵子はとにかく完璧であり続けなければならなかった。
父の理想を体現するためなら、どんな無茶振りにも応えてきた。
それなのに……最悪の事態は、恵子が中学生の時に起こってしまった。
高校受験を控えていた恵子は、その日も部屋で勉強に励んでいた。
時折聞こえてくる父の声に吐き気を催しながら、あと数年だからと何度も自分に言い聞かせる。
高校を卒業したら、母を連れて海外に行くつもりだった。
恵子の頭脳は既に大学卒業レベルに達しており、制度を使えば一時的に移住することも難しくない。
そのためにも、まずは受験を成功させる必要があったのだ。
気を引き締める恵子だったが、突如耳に父の怒鳴り声が届いた。
「なんだこれは!」
「あなた、待ってください……!」
父の怒号には慣れていたが、今回はただならぬ雰囲気を感じる。
恵子は鉛筆を置くと、急いで部屋から出た。
「あなた止めて!」
母の悲鳴が響く。
ドンっという衝撃のあと、恵子はうつ伏せに倒れていた。
鼻血が顔を濡らし、殴られた頬が熱を発している。
止めようとする母と、その母を押し退け拳を振り上げる父。
その後の記憶はあやふやだ。
気がつくと、恵子は病院にいた。
異変に気づいた隣人の通報で、父は逮捕されたらしい。
混乱する恵子が母はどこだと問いかけるも、看護師は難しい顔で医師を見ている。
「実はね……」
病室を飛び出した恵子は、一目散に母の元へと向かっていた。
「お母さん!」
沢山の管に繋がれている母が、ガラスの向こうに横たわっている。
「どうして……どうしてこんなことに……」
全部、恵子のせいだった。
父に内緒で海外の大学を調べていた恵子は、移住や制度についての資料を隠し忘れてしまったのだ。
資料を見た父は激怒し、恵子の意識が無くなるまで殴り続けた。
恵子を庇おうとした母が父の腕にしがみつくも、父の怒りは収まることがなく、母まで殴り飛ばしたらしい。
母は収納箱の角に頭をぶつけ昏倒。
警察が到着したのは、その直後のことだった。
泣きじゃくる恵子の背を、看護師が撫でている。
医師は恵子に、脳の出血が酷いため、助かっても障害が残る可能性が高いと説明した。
それでもいい。
自分が必ず面倒を見るから助けてくれ。
そう叫ぶ恵子の目を真っ直ぐに見つめ、医師は最善を尽くすと約束してくれた。
結局、行きたかった高校の受験は終わってしまい、恵子は滑り止めの高校に入学した。
進学校とは真逆の学内で、ひたすら勉強に集中する恵子の姿は、異質に映ったことだろう。
数ヶ月後には、いじめが始まっていた。
父のいた地獄に比べれば、いじめなんて大したことはない。
何より、恵子は母のためならどんなことにも耐えられた。
それから程なくして、母の転院が決まったこともあり、恵子は病院から数駅ほどの距離にある、進学校の転入試験を受けることになった。
土曜日も授業のある高校で、有名な大学への進学率も高い。
テストには自信があった恵子だが、実際に合格の通知を目にした時は、安堵の息をついたのを覚えている。
あの日、転入を来月に控えた恵子は、手続きに向かうため朝から電車に乗っていた。
学校が近くなれば、母の元にも通いやすくなるはずだ。
明るい気持ちで窓の外を眺めた恵子は、瞬きの直後、世界が横転していくのを目にした。
次に目を開けた時、恵子は駅のホームにいた。
見覚えのないホームだが、周りには他の乗客の姿も見える。
とりあえず、ここが何処か調べなければ。
立ち上がった恵子が辺りを見回すと、近くに真っ白な猫がいることに気がついた。
人慣れしているのか、恵子が近寄っても逃げる様子はない。
雪のように真っ白な毛と、宝石のように青い目。
首に赤い首輪を見つけたことで、恵子はその猫を抱き上げた。
飼い主が近くにいるかもしれない。
そう思い探していると、恵子と同年代くらいの少女が、焦った様子で視線を彷徨わせているのが見えた。
「……ましろ。ましろはどこ!?」
「あの……もしかして、この猫を探してたりしますか?」
「ましろ!」
少女の暗かった表情が一転し、太陽のように輝きだす。
どんな環境で育ったら、こんなにも綺麗な笑顔を浮かべられるようになるのだろうか。
感嘆と、ほんのちょっとの妬ましさ。
あの日、恵子が結鶴に抱いた印象は“幸せそうな子”だった。




