20枚目
たった一人の親友なんだ。
そう頼み込む友人の姿に、男は涙を堪えていた。
少女が渋々許可を出すと、友人はほっとした様子で男の方を振り返っている。
「行こうぜ」
「……ああ」
二人で並びながら、たわいもない会話をした。
初めは笑っていた男だが、扉が近づくにつれ顔が強張っていく。
これでお別れか。
強がってはいても、本当は怖くてたまらなかった。
段々と口数が減っていく男の隣で、不意に友人が足を止めた。
「……どうした?」
「あのさ、お前のチケット少し見せてくれねぇ?」
「別にいいけど……どうせ見えないんじゃないか?」
案内役の少女は、本人以外に寿命が見えることはないと言っていた。
しかし友人は、チケットを手に取ると「マジで0なんだな……」と呟いている。
「君には見えるのか?」
「ばっちりな」
訳が分からず眉を寄せる男を見て、友人は小さく笑った。
「ほら、返すよ」
手渡されたチケットを受け取ると、友人は「なんか伝えたいことあるか?」と聞いてきた。
「どうせ覚えてないだろうし、言っても無駄だろ」
「そうか? 俺はそうは思わねぇけど」
余裕がなくて、嫌な言い方をしてしまった。
内心焦る男だったが、友人に気にした様子はない。
「お前さ、プロポーズするつもりだったんだろ?」
「きゅ、急になんだよ。まあ、そうだけど……今更だな」
失笑した男に眉を上げた友人は、男の肩を拳で殴ってきた。
普段よりも強い拳に、男の身体がふらつく。
「俺のダチは、愛した女一人幸せにできないような、情けねぇ男じゃないんだわ」
「あのなぁ……!」
言い返そうとした男だったが、何かに気づいた様子で口を噤んでいる。
先ほどまで0だったチケットに、二桁の数字が並んでいるのだ。
異変を察した男が、友人の方を見つめる。
「……なあ君、そのチケット……」
「止めろよ。このチケットは俺のだぞ」
友人のチケットに手を伸ばした男だったが、届く前に引かれてしまう。
呆然と佇む男に向けて、友人は口角を吊り上げた。
「次会った時は、酔うまで付き合えよ」
胸元をどつかれ、扉の前に押し出される。
咄嗟に友人を見た男だったが、磁石のような力に引き寄せられ、そのまま扉に吸い込まれてしまった。
「──友人は、満足そうに笑っていたよ。酒好きで、いつも酔う前に止める儂を不満そうに見ていてのう。じゃから次に会えた時は、夜通し呑まなければと思っていたんじゃよ」
静寂に包まれ、結鶴は俯いていた顔を上げた。
結鶴に寿命を与えてくれたましろのように。
老人の友人は、老人を助けるために自らの命を捧げたのだ。
「お爺さんの友人は、チケット自体を交換したんですね。どうしてそんなことが可能だったんでしょうか……」
にわかには信じがたい話だ。
けれど、結鶴は既に恵子という存在を知っている。
「人は、自分の命よりも大切な存在を救いたいと願った時、とてつもない力を発揮することがある。かつて儂の友が、チケットを書き換えた時のようにな」
チケットの書き換え。
恵子が結鶴のチケットを書き換えられたのは、恵子にとって母親が、自らの命よりも優先すべき存在だったからなのだろう。
「娘さん。君は儂のために、最後の時間を使ってくれた。だからこれは、そのお礼として受け取っておくれ」
結鶴の手を握った老人が、感謝の言葉を囁く。
そっと手を離す老人に視線を向けた結鶴は、老人の寿命が残り数分も残っていないことに気がついた。
「お爺さん! どうしてですか……!」
青ざめる結鶴に微笑んだ老人は、穏やかな目で庭園の方を眺めている。
「病院には、繰り返す明日を願う者も、安らかな終わりを請う者もいる。この場所からは、庭園がよく見えるんじゃよ。どうか万里ちゃんの分も受け取っておくれ」
「それはどういう……」
問いかけようとした結鶴を、老人の手が遮る。
出口を指した老人は、優しい眼差しで結鶴を見つめた。
「さあもう行きなさい。最後は一人で空でも眺めたい気分なんじゃ」
老人の言葉に、結鶴の目が潤んでいく。
唇を噛み締めた結鶴は、深く頭を下げると出口に向かって駆けていった。
「ありがとのう、御使様」
何処からともなく現れた案内役は、老人の言葉には答えず、黙って近くに立っている。
「御使様が方法を教えてくれたおかげで、娘さんを助けることができた」
案内役の表情を見て、老人は柔らかく微笑んだ。
不平等に思える世の中でも、奇跡というものは存在している。
神とは平等に不平等だ。
そして、気まぐれでもある。
結鶴は神の気まぐれによって手にした運を、自らの価値で奇跡に変えてみせた。
──老人を救った、かつての友のように。
恩に報いるため、老人は友の欠けた日々を精一杯生きてきた。
でも、もういいだろう。
そろそろ会いに行っても、怒られることはないはずだ。
空を見上げた老人の目に、美しい満月が映る。
「ああ、今夜はいい月じゃ……」
むかし酌み交わした月見酒を思い浮かべ、老人はゆっくりと瞼を閉じた。
月光の下で安らかに眠る老人の姿は、まるで幸せな記憶に浸っているかのようだった。




