1枚目
「……どういうこと?」
恵子はあの世逝きが決まっていたはずだ。
呆然と座り込む結鶴に、案内役が近寄ってくる。
「あちゃー。これは始末書確定ですね。まさか、チケットを書き換えるほどの執念を持っていたとは」
頭を押さえ呻く案内役は、結鶴を見下ろすとチケットを確認するよう話してきた。
「でもこれ……恵子さんのチケットですよね。数字が見えるわけ──」
無地だったはずのチケットに、0という数字が浮かんでいる。
くっきりと浮かんだ文字を見て、結鶴の身体から力が抜けていく。
ひらひらと落ちていくチケットは、つい先ほどまで恵子が所有していた物だ。
襲い来る恐怖に耐えながら、結鶴は案内役に助けを求めた。
「わたし……どうしたら……」
「現世に行って、直接取り戻す以外ないでしょうね」
「それなら──」
「ですが、貴女に残された寿命はありません。よって、代わりにあの世へ行っていただきます」
結鶴の表情が、絶望に染まった。
「待ってください! 私はチケットを無理やり奪われたんですよ……!?」
「僕も油断したことは認めます。とは言え、奪われた貴女にも責任はありますよね?」
「そんな……」
流れる雫が頬を濡らしていく。
本当に自分は死ぬしかないのか。
恵子への怒りよりも、どうにもならない事への悲しみが大きかった。
扉から引き寄せられるような力を感じていたが、今はもう微塵も感じられない。
ふらふらと立ち上がった結鶴は、付いて来るよう話す案内役の後を、抜け殻のような状態で追おうとした。
『あと一年』
「……え?」
ふと聞こえた声に、結鶴は扉の方を振り返った。
耳に届いた声が誰のものかは分からない。
けれど、温もりに溢れた響きは、結鶴に安心感を与えた。
不意に、背中を押されるような感覚。
バランスを崩した身体が、扉の方へと倒れ込んでいく。
磁石のように引き寄せられる身体を捻り、結鶴は背後の光景を見ようとした。
映ったのは、驚いた様子の案内役。
そして、その足元で結鶴を見つめる──ましろの姿だった。
◆ ◆ ◆ ◇
電子音が規則的なリズムを刻んでいる。
うっすらと開いた目に、白い光が差し込んだ。
眩しさに眉を顰めた結鶴は、反射的に目を覆おうとした。
「……いたっ」
腕に走った痛みが、意識を急速に浮上させる。
右腕から伸びたチューブは、頭上の袋に繋がっていた。
「失礼します。点滴を変えに──」
室内に入ってきた看護師が、結鶴を見て硬まった。
「先生! 201号室の患者さん、目が覚めましたよ!」
声を上げながら病室を出ていく看護師は、少し経ってから初老の医師を連れて戻ってきた。
「この光を見ててくださいね」
医師は結鶴にいくつか検査をすると、安心した様子で頷いている。
「特に問題なさそうですね。どこか気になる箇所や、痛いところはありますか?」
「……いえ。ありません」
「もうすぐお祖母様がいらっしゃいますからね」
結鶴を元気づけようと、看護師がにこやかに声をかけてきた。
医師が去った後も、看護師は血圧を測ったり、備品を変えたりしている。
「あの、いったい何が……」
何があったのかと問いかける結鶴に、看護師は優しい口調で説明し始めた。
「電車に乗っていたのは覚えてる?」
「……はい。たしか、引越しの途中で……」
「その電車が脱線事故を起こしたの。結構な事故でね。もし詳しく知りたければ、新聞を持ってくるわよ」
スマホどころか、リュックも無くなっている。
看護師の話では、本人確認が終わっておらず、まだ持ち物は返せないとのことだった。
「……わたし、ましろと……猫と乗ってたんです。何処に行ったか知りませんか?」
「ごめんなさい。そこまでは……」
器具を仕舞った看護師が、申し訳なさそうに眉を下げる。
「お祖母様に聞いてみるといいですよ」
そう言って部屋を後にする看護師から視線を逸らし、結鶴はガーゼの貼られた頬に手を当てた。
そのまま左手を翳した結鶴の眼前に、ひらひらと何かが降ってくる。
「……なにこれ。チケット?」
「正確には、ライフチケットですね」
すぐ近くで聞こえた声に、結鶴は思わずびくりと震えた。
いつの間にか、ベッド脇の椅子に青年が腰掛けている。
白い外装と、駅員のような帽子。
どこか見覚えのある青年の姿を目にした瞬間、結鶴の脳裏にあの駅での記憶が蘇ってきた。
「ましろ……。ましろが……っ!」
「落ち着いてください。話ができません」
「いづっ」
額を指で弾かれ、結鶴は痛みで悶絶した。
「そんなに痛かったですか? 力加減はしたんですけどね」
あれ?と言わんばかりの顔で結鶴を見る案内役は、少なくとも、わざとやった訳ではないようだった。
「鬼だ……」
「案内役です」
おでこを押さえ唸る結鶴をよそに、案内役は「そろそろいいですか?」と首を傾げている。
「そのチケットに記載されている通り、貴女の寿命は残り一年ほどです。つまり、寿命が尽きる前に盗人を見つけ出し、チケットを取り戻さなければなりません」
淡々と伝えられる現状に、結鶴は唇を固く閉じた。
「本来であれば、記憶を返すのは規則違反です。ですが、こちら側の不手際も考慮して、今回は特例の処置を施すことにしました」
かち合った視線。
案内役の瞳に映る結鶴は、思いの外平気そうに見える。
「記憶の返却に加え、ライフチケットを可視化できるようにします。期限は貴女がチケットを取り戻すまで。または、貴女の寿命が尽きるまでです」
「どうやって探せばいいんですか」
恵子を見つけようにも、手がかりが少なすぎるのだ。
知っているのは恵子という名前と、同じ高校生だということだけ。
たとえ近くに住んでいたとしても、見逃してしまう可能性の方が高いだろう。
「貴女は、このチケットが何色に見えますか?」
「水色……です」
透き通るような水色は、ましろの目を彷彿とさせる。
「ライフチケットは、過去に生死を彷徨った者か、死期の近い者にのみ渡されます。今の貴女であれば、他者のチケットを視認できる他、痕跡を色で捉えることが可能なはずです」
案内役の言葉に、結鶴はチケットをまじまじと見つめた。
確かに、チケットの周りには輝く粒が浮かんでおり、動かすたびに光の線が出来ている。
「ライフチケットは通常、持ち主の身体の中に取り込まれています。所持している自覚がないため、貴女のように出し入れできる人間はほとんどいません」
どうやら、結鶴のようにチケットを手元に出せる者は稀らしい。
「とにかく。チケットを持つ者が通った場所には、しばらくのあいだ痕跡が残ります。記載された寿命が長いほど色も濃く残るはずなので、それを手がかりに探してみてください。そもそも、チケットを持っている者自体そう多くありませんからね」
肩をすくめた案内役は、「では、僕はこれで」と言いながら腰を上げている。
「案内役さん」
結鶴に呼び止められ、案内役は視線だけを結鶴の方へと向けた。
「ましろは……後悔してませんでしたか?」
結鶴を救うため、ましろは自らの命を手放してしまった。
本当はもっと生きたかったはずだ。
結鶴を生んだせいで亡くなった、母のように──。
「さあ、どうでしょう」
興味がない。
案内役の声には、そんなニュアンスが含まれていた。
「まあ、強いて言うなら……貴女を見送った後の表情は、とても満足げでしたね」
言葉の置き土産が、結鶴の涙腺を刺激する。
一人きりになった病室で、結鶴は声が掠れるまで泣き続けた。