17枚目
別棟の二階では、ちょうどリハビリが行われているところだった。
快活な看護師やスタッフが、朝の挨拶を交わしている。
「おはようございます。どなたかお探しですか?」
背後から声をかけられ、結鶴はびくりと身体を震わせた。
振り向くと、白衣を着た爽やかな男性が立っている。
「えっと、理学療法士の細谷さんという方はいますか……?」
「多分というか、ほぼ間違いなく僕のことですね」
自分を指さした男性は、「理学療法士の細谷なんて、この病院に一人しかいないですから」と笑っている。
「ここで入院中の、幸野という女性を探しているんです。細谷さんなら知っているかもと、筒井さんに教えていただいたんですが……」
「筒井さんに?」
名前に覚えがあったのだろう。
筒井という名前を出した途端、細谷は納得した表情で結鶴を見ている。
「てっきり、どなたかの娘さんかと思いました」
「いえ、違います。その……」
「すみません。答える必要はないので、気にしないでください」
やんわりと会話を止めた細谷は、結鶴を安心させるように微笑むと、そう言えばといった様子で語り始めた。
「筒井さんの担当になってから、割と長いんですよ。幸野さんについては、前に少しだけ担当していたくらいですが」
「いるんですか!?」
「え、ええ……いますよ。ただ幸野さんは……いえ、実際に会っていただいた方が早いですね」
ここに幸野という患者がいる。
それが分かっただけでも、結鶴にとっては大きな一歩だった。
食い気味な結鶴に驚いていた細谷だが、何やら難しい顔になると、病棟の奥に向かって進んでいく。
エレベーターで六階に昇り、廊下の突き当たりで足を止めた細谷は、手前にある病室のドアを示している。
「ここが幸野さんの部屋です」
ドアをノックした細谷が、「入りますよー」と言いながらスライドしていく。
跳ね上がる心拍数。
固唾を呑んだ結鶴が、病室の中に足を踏み入れた。
人がいるとは思えないほど、静寂に満ちた室内だ。
窓から吹き込む風がカーテンを揺らし、ベッドに横たわる女性の髪をくすぐっている。
「この方が幸野さんですよ」
黒い髪と白い肌。
瞼を閉じた女性──幸野は、結鶴たちが入ってきたにも関わらず、ぴくりとも動かない。
「眠ってるんですか……?」
「正確には、昏睡状態なんです」
死んだように眠る幸野を見て、結鶴の脳裏に母の姿が過っていく。
「……どこか悪いんですか?」
「元々は別の病気のリハビリで転院してこられたんですが……。数ヶ月前に、電車の脱線事故があったのはご存知ですか?」
「……はい、知ってます……」
電車の脱線事故。
結鶴自身もよく知る事故があげられたことで、自然と声が震えた。
「その事故に、幸野さんの娘さんが巻き込まれたんです。意識不明で運ばれたと聞いて、ショックを受けた幸野さんが倒れてしまって……。それからずっと、この状態が続いています」
眠っていても分かる。
幸野の容姿は、恵子を彷彿とさせるほどそっくりだ。
目の前にいるのが恵子の母親だと確信したことで、結鶴は折れそうになる膝にぐっと力を込めた。
「娘さんは……お見舞いに来られたりするんですか?」
「ええ、頻繁にいらっしゃってますよ。退院された際も、真っ先にいらしたみたいですし。あまり話したことはないのですが、母親思いの素敵な娘さんでした」
献身的な姿勢に感心する細谷に、結鶴は早まる呼吸を整えながら口を開いた。
「今日も来られますか? 娘さんとも会ってみたくて……」
「それが、金曜日は学業が忙しいとかでいらっしゃらないんですよ。今日も同様の可能性が高いと思います」
頭を殴られたような気分だった。
目眩が起きた時のように、視界がぐらつく。
「大丈夫ですか? 顔が真っ青で──」
「どうしても……、どうしても今日会いたいんです……! 連絡先とか、教えていただけたりしませんか……!?」
明日では間に合わないかもしれない。
懇願する結鶴に対し、細谷は申し訳なさそうに視線を逸らしている。
「すみません。それは流石に……」
「……そう、ですよね……」
壁に腕を預け、俯く。
支えがなければ、今にも崩れ落ちそうだった。
折り畳みの椅子を広げた細谷が、結鶴に座るよう促している。
「もし、今日も待ってみるのであれば……先ほど降りたエレベーター前が休憩スペースになっています。面会時間は9時から12時と、14時から19時までです。その時間でしたら室内に入られても大丈夫ですが、あまり長居はしないでください」
不幸中の幸いは、家族以外の面会が謝絶されていないことだろう。
とは言え、一般の面会で長時間の滞在はできない。
今の結鶴が取れる選択は、恵子が見舞いにくる僅かな可能性にかけて、病室の近くで待ち続けることだけだった。
「……わかり、ました……」
「ひとまず、僕は仕事に戻りますね。何かあれば二階までいらしてください」
結鶴を気にかけつつも、細谷が仕事へと戻っていく。
残り1日と書かれたチケットを見つめながら、結鶴は襲ってくる恐怖と闘っていた。




