13枚目
自室のベッドで腰掛けていた結鶴は、鳴り始めた着信音に画面の名前を見た。
『結鶴か? 悪ぃな、こんな時間に』
「いえ、ちょうど起きてたので……」
スマホから聞こえる圭吾の声に、結鶴は緊張した面持ちで応えている。
朱里の容態が気になっていたものの、挨拶もせず帰ってしまった申し訳なさから、なかなか連絡を出来ずにいた。
加えて、結鶴の心には、あの時のことを掘り返されたくないという不安もあった。
圭吾からすれば、信じられないような出来事だ。
それに、万が一圭吾が信じてくれたとしても、逆に負い目を感じさせてしまうだろう。
沈黙する結鶴の気持ちを知ってか知らずか、圭吾はからりとした様子で朱里の現状を口にしている。
『おふくろのことなんだけどよ、あの後また眠っちまってな。まずは目が覚めるのを待って、そこから手術について話し合おうって手筈になってる』
「……朱里さんは、大丈夫なんですか?」
『先生の話では、かなり落ち着いてるらしい。意識が戻れば、手術自体はいつでも始められるってよ』
ほっと吐いた息は、間違いなく安堵からくるものだ。
電話越しに微笑んだ圭吾が、結鶴の名前を呼ぶ。
『ありがとな。結鶴がいなきゃ、おふくろは目を覚まさなかったかもしれねぇ。ほんとに感謝してる』
「そんなこと……」
ありませんと続くはずだった言葉を、結鶴はぐっと呑み込んだ。
圭吾はただの偶然に感謝しているだけ。
真実を伝える必要などない。
けれど、結鶴はこの瞬間、圭吾の言葉に嘘をつきたくないと思った。
たとえ本当の事を知らなくても、この感謝だけは結鶴のものなのだと。
他の誰でもなく、結鶴という存在が成し得たことを──大切な人を救えたという事実を……確かに抱えていられるのだと。
そう、思ったのだ。
『またおふくろに会いにきてやってくれ。結鶴が来れば、おふくろも喜ぶからな』
圭吾の穏やかな声に、じわりと涙が浮かぶ。
あんは、結鶴の命がすでに風前の灯だと話していた。
急がなければ、朱里と二度と会えなくなってしまうかもしれない。
「はい……。近いうちに伺いますね」
『そうしてくれ。俺も、おふくろの目が覚めたら連絡するからよ』
視界が潤み、今にも涙が溢れそうだ。
泣きたくないのに泣いてしまうのは、昔からちっとも変わっていない。
袖で目元を拭い、結鶴は嗚咽が漏れないよう唇を噛み締めた。
『なあ、結鶴』
「……どうしましたか?」
普段通りに聞こえるよう、明るめの声を出す。
『おふくろは、結鶴を本当の娘みたいに思ってる。だから、なんて言うか……いつでも頼ってこいよ。おふくろの娘ってことは……俺の妹でもあるんだからな』
込み上げる羞恥心で、圭吾の口調がぶっきらぼうになっている。
電話の向こうで頭を掻く圭吾が想像できて、結鶴はくすりと笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。すごく……嬉しいです」
両親のいない結鶴にとって、朱里と圭吾はもう一つの家族のようだった。
けれどまさか、圭吾からそんなことを言ってもらえるとは思ってもいなかったのだ。
『不甲斐ない兄なのは許せよ』
そう付け足した圭吾は、ちょっとした冗談のつもりだったのかもしれない。
しかし、結鶴は真面目な顔になると、はっきりした口調で話し始めた。
「前に、朱里さんが言ってました。『圭吾がいたから、ここまで来れたんだ』って」
何度も通ううちに、朱里は色々な話をしてくれるようになった。
夫と離婚したことや、圭吾が幼い頃の話。
中には、結鶴が聞いていいのかと焦るものまであった。
さっぱりした朱里は、もう過ぎたことだからと笑い飛ばし、むしろネタになると唇を吊り上げていた。
『……俺のおやじは碌なもんじゃなかったが、それでもおふくろの支えにはなってた。でも俺は……』
圭吾の言葉が、結鶴の記憶を思い起こさせる。
弱音を吐く圭吾に、結鶴は自分の姿を重ねていた。
「私のお母さんは……私を生んだせいで死にました。なのに、お父さんはいつも『私がいるから頑張れるんだ』って言ってくれてたんです」
男手一つで育ててくれた父。
毎日仕事に向かい、よれたスーツで結鶴を迎えにきては、慣れない料理を振る舞ってくれた。
朝も昼も夜も、父が休める時間などない。
それでも、父は結鶴を抱き上げて、「結鶴のおかげで今日も頑張れる。結鶴はお父さんのヒーローだ」と笑うのだ。
「小さい頃は、少しも疑うことなく信じてました。お父さんは私のことが大好きで、心からそう思ってるんだって。でも……ある日ふと気づいたんです。結鶴って名前は、お母さんの命を奪ったことで付けられた名前なんじゃないかって」
『そんなこと──』
「分かってます。お父さんは奪ったなんて思ってない。それでも、結鶴って呼ばれるたびに……お母さんのことが頭を過ぎるようになってしまったんです」
否定しようとした圭吾だが、結鶴の言葉に黙って口を閉じている。
「だからあの日、お父さんに言ったんです。本当は私じゃなくて、お母さんが生きてた方が良かったんじゃないかって」
スマホから、息を呑む音が聞こえた。
「学校に行ってから、何であんなことを言ってしまったんだろうってすごく後悔しました。家に帰ったら謝ろう。そう、何度も思っていたのに……」
教室に駆け込んできた教師は、結鶴を見るなり急いで帰るよう話してきた。
「お父さんが倒れたと聞いて、頭が真っ白になりました。病院に着いた時には、もう息をしていなくて……」
鳴り続ける電子音。
冷たくなっていく父の手を、結鶴は呆然と握っていた。
「朱里さんと話していて分かりました。圭吾さんについて話す時、朱里さんはいつも優しい目をするんです」
愛おしくてたまらないと言うような……そんな温かい目だ。
結鶴の父も、朱里と同じ目をしていた。
いつだって結鶴は、父の愛情を一身に受けていたのに──。
「お父さんに謝りたい……。大好きだよって、私も……お父さんがいてくれたから、ここまで来れたんだって……」
この世界は、結鶴に少しだけ意地悪だった。
失ってから後悔しても遅い。
そんな当たり前のような事実でも、まだ幼い結鶴が理解するには早すぎたのだ。
「……圭吾さんには、朱里さんがいます。だから……っ」
──結鶴のようにならないでほしい。
言葉にならない思いが、圭吾の心に突き刺さっていく。
必死で堪えようとする声が痛々しくて。
圭吾は己の不甲斐なさを、より痛感させられていた。
『悪かった。もう言わねぇよ。おふくろのことも……もっと大切にする』
それでも、圭吾よりも歳下の少女が、血を吐くような痛みを抱えているのだ。
出来ないなんて言葉は、圭吾の中からとっくに消え失せていた。
『……結鶴がぶつかってきた時、俺は自分のことを不幸だと思ってた。仕事も上手くいかなくて、おふろくも日に日に弱ってく。なんで俺ばっかりこんな目にって……頭ん中は恨み言だらけだった』
世の中の不公平を憎み、先の見えない暗い日々を過ごしていた圭吾の前に、突如現れたイレギュラー。
『でも、結鶴と会ってからは、良いことばかりが起こるようになったんだ。おふくろが明るくなって、俺も仕事に打ち込めるようになった。あの時も……もう駄目だと諦めかけてた俺の前で、結鶴はお袋の手を懸命に握ってくれた』
朱里に会いたいと叫ぶ結鶴の目は、少しも諦めてなんかいなかった。
それがどれほど、圭吾の心に光を灯してくれたか。
『俺は、結鶴の父親がどんな人だったか知らねぇ。けど、結鶴のことならちっとは分かってるつもりだ。だからこう思う。──結鶴のおやじなら、とっくに許してるはずだってな』
堪えていた息が、空気に溶ける。
声を上げて泣き始めた結鶴に、圭吾は握っていた拳を解いた。
『きっと初めから怒ってもいねぇよ。……良い父親だったんだな』
病室に横たわる父の側には、結鶴の好きなケーキ屋の箱が置かれていた。
甘いものが苦手な父は、ケーキを食べられない。
いつも結鶴のためだけに、デザートを買ってくれていたのだ。
箱の中には、ショートケーキとミルフィーユが入っていた。
普段は一つのケーキが、二つ入っていた時の合図。
それは、父から結鶴に向けた仲直りの合図だった。




