11枚目
「……え? ちょっと待って、どうしてチケットが……!」
いつの間に取られたのか。
そもそも何故、万里にチケットが見えているのか。
結鶴が我に返った時には、すでに万里の姿は見えなくなっていた。
想定外の出来事に、頭が混乱している。
とにかく万里を探さなければと、結鶴は急いで病院の中に足を踏み入れた。
受付の看護師に尋ねようにも、何と説明したらいいのか分からない。
本来なら目に見えないはずのチケットを、万里に取られてしまいました──なんて、結鶴の方が病院を勧められるかもしれない。
こんな時、案内役が居てくれれば……。
弱音を吐きそうになる自分の頬を叩き、捜索を続けようと辺りを見回す。
フロントの要所に建っている白い柱と、各科ごとに貼られた案内板。
とある柱に視線を移した際、結鶴は白に馴染む外装を目にした。
「あんちゃん……?」
柱にもたれかかり、吹き抜けの部分を見上げていた案内役は、驚いた様子で結鶴の方を向いた。
視線が合ったことで、あんの吊り上がった目が狐のように細められる。
あんは何やら考えごとをしていたが、やがて結鶴に向けて手招きをしてきた。
結鶴が近寄って来るのを確認し、あんは病院の奥へと進んでいく。
「あの……あんちゃん」
あんが足を止めたのは、階段下にある閑散とした場所だった。
薄暗い電球の明かりが、ぼんやりと周囲を照らしている。
「君、いったいどれだけ寿命を渡したの?」
話しかけようとする結鶴を遮り、あんが怪訝そうに問いかけてきた。
質問の意図が分からず、結鶴は口ごもっている。
「どれだけって、一ヶ月ですけど……」
「一ヶ月? そんな訳ないでしょ。多少の誤差は予想してたけど、まさかこんなことになってるなんて」
以前会った時は掴みどころのない存在だと思っていたが、今のあんはどこか拗ねているように感じられる。
困った表情の結鶴を見て、あんは「また上役に怒られちゃう」と口にした。
「その上役って、どんな人なの?」
「上役は上役だよ。あんより上の立場にいる」
仕事で言う、上司のようなものだろうか。
案内役にも上下関係があると分かり、結鶴は少し興味が湧いた。
「てゆーか、君はもう知ってるでしょ」
「え?」
「大変だったんだよ。余計なことをするなって散々叱られて」
ぷくりと頬を膨らませたあんは、まるで小狐のようにあどけない顔をしている。
「わたしは上役のためを思って教えてあげたのに、上役はルールを破ってまで止めに行こうとするし……」
結鶴の中で、点と点が繋がっていく。
あんの言う上役とは、おそらく案内役のことなのだろう。
理由は分からないが、あんが結鶴に寿命の譲渡方法を教えたことを、案内役は相当怒っていたようだ。
「せっかく、わたしたちと同じになるチャンスだったのに」
ぽつりと溢された言葉に、結鶴は妙な不安を覚えた。
あんの真意は掴めないが、悪意のようなものは感じられない。
静寂が流れる中、先に沈黙を破ったのはあんの方だった。
「とにかく、君が譲渡を選んだことで、上役はずっと不機嫌なんだよね。しかも、その様子じゃ自分が何をしたか、気づいてもいないみたいだし」
「……どういう意味?」
結鶴はあんに教わった通りの方法で、恵子に一ヶ月という期間を譲渡した。
手順は間違っていなかったはずだ。
しかし、困惑する結鶴を見て、あんは呆れた表情を浮かべている。
「結鶴はあの人間に一ヶ月分の寿命を譲ったつもりみたいだけど、実際は半年くらい渡しちゃってるよ」
あり得ない。
半年など、念じてもいないことだ。
動揺する結鶴をよそに、あんは話を続けていく。
「寿命を譲渡する方法は、対象の人間に自分のライフチケットを当てて強く念じること。君は、どんな風に念じたの?」
「一ヶ月だけ渡すと……念じました」
「ほんとーに?」
恵子から寿命を取り戻さなければならない結鶴にとって、本来であれば僅かな余裕さえない。
一ヶ月は、結鶴にとってもぎりぎりの期間だった。
どんなに渡したくとも、一ヶ月以上など渡せるはずがないのだ。
「深層心理って言葉を知ってる? 心の奥深くにある無意識の領域で、普段は意識できない心理のことを言うんだけど──」
あんの目が、糸のように細められる。
「もしかして君、自分の命を軽いものだと思ってる?」
結鶴の呼吸が止まった。
息の吸い方を忘れてしまったかのように、口からは空を切る音だけが漏れている。
「表では一ヶ月だけと念じながらも、深層心理では違うことを考えてたんだね。君はさ、あの人間の命の方が重要に思えたんだよ。だから、あの人間が助かるために必要な時間を渡そうとした」
命の重さは同じではない。
結鶴が生まれたせいで、結鶴の母は死んでしまった。
父に名前を呼ばれるたび、結鶴は心の何処かでずっと……母への負い目を感じていた。
──自分は、母の命を譲られて生きている子なのだと。
「無自覚だろうと関係ないよ。君が強く念じた結果、ライフチケットはそれに応えようとした。結果、君の命は風前の灯火になっちゃったってわけ」
結鶴には、父も母もいない。
唯一の家族だったましろさえ……もういない。
でも、朱里には圭吾がいた。
朱里を助けると決めた時点で、結鶴の心はとっくに決まっていたのだろう。
そのせいで万が一、結鶴が死ぬことになったとしても、朱里が死ぬよりかはマシだと考えたのだ。
「……私……最低だ……」
ましろに貰った命さえ、勝手に手放してしまおうとした。
溢れる涙の止め方も、もう分からない。
過呼吸気味になった息が苦しくて、結鶴は胸元の服を握りしめた。
「さっきロビーでわたしの姿を見つけられたのも、君がもうすぐ死ぬ人間だからだよ。あーあ。さすがのわたしも、ここまで短くなるのは想定外だったなぁ」
親に叱られるのを嫌がる子供のように、あんは不満を呟いている。
霞む視界に立っていられなくなり、結鶴の身体がぐらりと傾いた。
「いったぁ!」
鈍い音が鳴った直後、あんが頭を押さえている。
倒れかけた結鶴の背中を支える腕と、抗議するあんの声。
半泣きのあんの姿が見えたのを最後に、結鶴の意識は真っ黒に塗りつぶされていった。




