10枚目
身体が重い。
倦怠感でふらつく身体に鞭を打ち、結鶴は自室の扉を開けた。
朱里の意識が戻った安堵。
そして、耐え難いほどの疲れにより、倒れ込んだ結鶴の意識が瞬時に沈んでいく。
目を閉じる間際、結鶴はベッドの傍に立つ人影を見たような……気がした。
◆ ◆ ◇ ◇
『恵子さんと会いました』
『ほんとか!?』
『はい。とは言っても、一瞬でしたけど……』
ギターのアイコンから吹き出されるメッセージは、前に恵子が通っていた学校の生徒のものだ。
井塚と連絡を取りながら、結鶴は返ってきたチャットに続きを書き込んでいく。
『目が合うなり、逃げられてしまったんです』
『逃げた? あいつが?』
信じられないと言わんばかりの返事に、結鶴も思わずため息を吐いた。
恵子には記憶がないはず。
それなのに、どうして結鶴から逃げたりしたのか。
その理由が、今も分からないままなのだ。
『そういえば俺、部活で帰りが遅くなったことがあってさ』
いきなり変わった話に、結鶴はきょとんと目を瞬いた。
困惑する結鶴をよそに、チャットはどんどん進んでいく。
『いったん教室に寄ってから帰ろうとしたら、偶然あいつと廊下で会ったんだよ。どうせ無視か無反応だろうとは思ったけど、挨拶だけでもって声をかけてみたんだ』
恵子の名前が出たことで、結鶴の表情に硬さが増す。
『結果から言うと、俺の挨拶は無視された。まあ、それはいいんだ。いつものことだし。ただ、あいつその時……おかしなことを言ってたんだよ』
『おかしなこと?』
井塚は恵子に気があるようだが、清々しいまでの一方通行らしい。
憐れむ結鶴だったが、続けて送られてきた内容に意識が集中していく。
『私は死なない。これは絶対に渡さない……って』
スマホが手から滑り落ちた。
落ちた先の画面には、恵子の言葉がはっきりと表示されている。
『意味は分からなかったけど、あいつ事故に巻き込まれたみたいでさ……。その影響だったのかもって思ってる。その後すぐ転校してたから、実際のところは分からないけどな』
違う。
恵子には記憶があったのだ。
震える手を握りしめ、結鶴はスマホを拾い上げた。
『そっか、ありがとう。もしまた会えたら、井塚くんが会いたがってたって伝えておくね』
『は!? そんなこと言ってな……いや、会いたくないわけではないけど……って、今のなし! 取り消し!』
相変わらず、正直な性格をしている。
薄く笑みを浮かべた結鶴は、スマホの画面を切り部屋の扉を開けた。
朱里の話していた藤野宮病院へ行くため、自転車で駅まで向かう。
患者の名前は聞けなかったが、現地でなら手がかりが見つかるかもしれない。
ホームに着くと、既に電車を待っている人たちがいた。
脱線事故があったことなど嘘のように、そこには日常と呼べる光景が広がっている。
あの日、電車に乗らなければ……。
一本でも時間をずらしていれば……。
そんな後悔ばかりが、結鶴の頭を過っていく。
祖母は優しい人だ。
結鶴が自由に過ごせるよう、あまり干渉してくることはない。
それがありがたい反面、がらんとした部屋で一人眠るたび、結鶴はましろに会いたい思いを募らせていた。
時間通りやって来た電車に乗り込み、窓の外を眺める。
あの日も、今日と同じように太陽が眩しかった。
◆ ◆ ◇ ◇
最寄駅を知らせるアナウンスに、結鶴はゆるりと瞼を上げた。
ホームに降りると、地図を見ることなく進んでいく。
藤野宮病院は、かつて結鶴の母が入院していた病院だ。
長期に及ぶ治療や、リハビリに特化しており、転院先として選ばれることも多い。
幼い頃は父に連れられ頻繁に訪れていたが、結鶴もまさか、十年後に再び訪れることになるとは思ってもいなかった。
まずは痕跡を探すこと。
そして、朱里と同年代の患者を見つけることが優先だ。
シングルマザーという情報も、役に立つかもしれない。
病院の所有地に当たる庭園では、リハビリに勤しむ患者が歩いている。
ちらほらと見える淡い光を横目に、結鶴は一際明るい痕跡を探し始めた。
寿命が多く残っているほど、光の輝きも強くなる。
以前、公園で見た恵子の痕跡は、明らかに他と違っていた。
水色に輝くチケットを取り出し、指でなぞる。
朱里に寿命を譲ってから、結鶴のチケットはかなり光が弱まっていた。
渡したのは一ヶ月のはずだが、どう見てもそれ以上に減っている気がする。
ましろを思いながらチケットを眺めていた結鶴は、不意に聞こえた音に顔を上げた。
「いたい……」
「大丈夫!?」
結鶴の目の前で派手に転んだ少女は、小さな手で病院着に付いた土を払っている。
「怪我はない?」
「……うん。へいき」
「偉いね」
まだ5、6歳ほどだろうか。
少女は唇を引き結び、涙を零すことなく耐えている。
「万里ちゃーん! 戻って来てー!」
「あ……いかなきゃ」
遠くで看護師の呼ぶ声に、少女──万里は、声のする方を振り返った。
「おねえさん、ありがと」
「いえいえ。気をつけてね」
屈んで目線を合わせた結鶴が、万里に笑いかける。
万里はじっと結鶴を見つめていたが、もう一度感謝を呟くと、看護師の方に駆けていった。
その手に、結鶴のチケットを持って──。