9枚目
「やっぱりね。あの時もわたしに気付いてたみたいだったし、もしかしてと思ってたんだ」
「あの時……?」
「前に廊下ですれ違ったでしょ」
初めて朱里の元を訪れ、見舞いに通うと決まった日、結鶴は病院の廊下で白い外装を目にした。
あれは見間違いなどではなく、結鶴の前に立つ少女のものだったらしい。
「にしても、なるほどねー。こういうのが良いとか、上役も変わってるなぁ」
じろじろと結鶴を観察した少女は、何やら一人で謎の納得をしている。
様子のおかしい少女に、結鶴が距離を取ろうか悩んでいた時だった。
「君、あの人間を助けたいんでしょ?」
核心を突く言葉に、結鶴の呼吸が止まる。
結鶴の反応に笑みを深めた少女は、距離を詰めると耳元に唇を寄せてきた。
「方法、教えてあげてもいーよ」
目の前の少女が、天使にも悪魔にも見える。
そんな感情に襲われながらも、結鶴は朱里が死ななくて済むかもしれないという可能性に、希望を見出していた。
「……あなたも案内役なんですか?」
「んー、まあそんな感じ。紛らわしいから、わたしのことはあんちゃんって呼んでくれていーよ」
「あんちゃん……?」
「案内役だから、あんちゃん。可愛いでしょ」
笑うと目が糸のようだ。
あんと名乗った少女は、友好的な態度で結鶴に擦り寄ってくる。
「どんな方法なんですか」
「君のライフチケットから、あの人間のライフチケットへ寿命を譲渡する」
硬まった結鶴をおかしそうに見つめながら、あんは結鶴の腕に自らの腕を絡ませていく。
「ライフチケットを所有するのは、過去に生死を彷徨った者か、死期の近い者のみ。所有している自覚もないから、普通なら譲渡なんて出来るわけがないんだけど……」
蛇が絡みつくような誘惑だ。
するりと腕を抜いたあんは、結鶴の周りを踊るように歩いている。
「君は、自分のライフチケットを取り出すことが出来るでしょ?」
あんが歩くたび、かつりかつりと音が響く。
「譲渡したい人間に自分のライフチケットを当てて、強く念じればいい。君が念じた期間に応じて、チケット同士で寿命の受け渡しが行われる」
あと一ヶ月。
圭吾の叫びが、脳裏に焼き付いている。
移植が成功するかは分からない。
たとえ成功しても、どれだけ生きられるかは神のみぞ知ることだ。
手に現れたライフチケットには、変わらず1という数字が記載されている。
悩む結鶴の背後で足を止めたあんは、「どっちを選ぶのか楽しみにしてるよ」と囁いた。
気配の消えたあんを振り返ることなく、結鶴は近くの長椅子へと座り込んだ。
ましろは許してくれるだろうか。
案内役は、また馬鹿だと怒るだろうか。
ぼんやりと照らされたロビーで、結鶴はずっと──考え続けていた。
◆ ◆ ◆ ◇
手術室のランプが消え、中から医師が出てくる。
重苦しい表情の医師は、朱里の容態を聞く圭吾に「今夜が山場です」と告げてきた。
ICUに移された朱里を、ガラス窓越しに眺める。
朱里なら大丈夫だと信じているのに、圭吾の震えは止まることがなかった。
覚悟なんてしたくない。
相反する思考を抑えつける圭吾の近くで、看護師の慌てる声が聞こえた。
「あのね、お嬢さん。面会はご家族か、ご家族の許可がある人しか無理なのよ」
「お願いします……! どうしても……どうしても会わなきゃいけないんです!」
「……結鶴?」
聞き覚えのある声に立ち上がった圭吾は、看護師の後ろから声のする方を覗き込んだ。
予想通り、そこには結鶴の姿があった。
「ったく。まだ帰ってなかったのかよ」
「ごめんなさい……。でも私、どうしても会いたくて……!」
呆れ顔の圭吾に謝る結鶴だが、すぐに必死の形相で訴えかけてくる。
ちらりと朱里の方を見た圭吾は、結鶴に視線を戻すと、やれやれといった様子で頭に手を置いた。
「家族の許可があればいいんすよね? 俺が許可するんで、通してやってください」
「分かりました。マスクと消毒液を持ってきます」
仕事として切り替えた看護師が、テキパキと準備を始める。
今夜が山場ということもあり、すぐに会わせてくれるようだった。
もうすぐ夜明けがくる。
手を握りしめる結鶴を見下ろし、圭吾は緩く微笑んだ。
「心配すんな。結鶴が来てくれたんだ。おふくろもそのうち目を覚ますさ」
「時間は10分程でお願いします」
結鶴を励ます圭吾に、看護師が声をかけている。
付いてこいと話す圭吾に連れられ、結鶴はICUの中に足を踏み入れた。
沢山の管に繋がれている朱里は、そのまま永遠に眠ってしまいそうな儚さを漂わせている。
隣で見守る圭吾から、喉が引き攣ったような音が聞こえた。
背中を優しく押され、朱里のすぐ傍まで近寄る。
そっと手に触れた結鶴は、残り1時間という数字に胸を痛めていた。
もしもこの先、恵子から無事にチケットを取り戻せたとして……ここで朱里を見捨ててしまえば、結鶴はこれまで通り生きていくことが出来なくなるだろう。
結鶴を生んだせいで母は死んだ。
それでも、父が結鶴を責めたことは一度もない。
辛いことも苦しいことも、父は全てを背負いながら、結鶴を懸命に育ててくれた。
圭吾も強い人だ。
たとえ朱里を失っても、いずれ自らの力で立ち上がり、再び前に進んでいくだろう。
──だからこれは、結鶴のエゴだ。
結鶴は結鶴のために、朱里を助けると決めた。
ライフチケットを朱里に握らせ、その上から手で覆う。
渡せるのは一ヶ月だけ。
後のことは、朱里の意志と運命が決めてくれる。
ぴくりと動いた指先を感じ、結鶴は俯いたまま手を離した。
心配そうに近づいた圭吾の耳に、微かな吐息が届く。
「……ぁ」
「おふくろ……?」
朱里の瞼が震え、薄く開いた目がぼんやりと天井を映した。
「……っおふくろ! 俺だよ! 分かるか!?」
焦点の合わない視線が、圭吾の方に向けられる。
「け……いご……?」
掠れた声だが、確かに呼ばれた名前に、圭吾がぐしゃぐしゃの笑みを浮かべた。
「すみません! いったん待合へお願いします!」
駆けつけた看護師が、圭吾にICUから出るよう促す。
指示に従った圭吾は、いつの間にか結鶴が居なくなっていることに気がついた。
スマホを開くも、連絡は来ていない。
気を遣い、帰ってしまったのだろうか。
慌ただしく動くICUの外で、圭吾は結鶴を思い、一人立ち尽くしていた。