行方不明の幼なじみからチョコが届いた件
作中のバナー画像は楠結衣様から香月よう子様へプレゼントされたものを、本作にも掲載させていただいているものです。
楠結衣様、素敵なバナーをありがとうございました。
また、香月よう子様にも、これまでいただいたご厚情に感謝申し上げます。
下へ下へとせわしなくスクロールしていく指が、ぴたりと止まった。今日はバレンタインデー。ショコラやら手作りスイーツやらの写真であふれかえるSNSのタイムラインに、同じサムネが何度も登場しているのに気が付いた。いわゆるバズりだ。
「タイトルと印象がちがった」
「結局この子どうなったの?」
「やばい泣いた」
「よくわからん」
「さすがに嘘やろ」
記事を引用しながら、男も女も正体不明のアカウントも、みんな好き勝手なコメントを寄せている。
照明がついているのはリビングだけで、ダイニングのほうは薄暗い。ここ半年くらい取り組んでいたプロジェクトの打ち上げで、夫の春来は帰りが遅くなると言っていた。ソファに埋もれて菓子パンだけの食事をとっていると、なんだか朝食のような気分になってくる。これでコーヒーでもあればパーフェクトな朝ごはんだが、実心の手にあるのはストロング缶だ。仕事を終えて帰宅して、もうシャワーは浴びた。あとは寝るばかりの状態で、チューハイのタブに指をかけた。
(これ絶対、あとで歯磨きが面倒になるやつだ)
そう思いながらも手の中の缶の冷たい誘惑は抗いがたかった。パキリと小気味よい音を立てて口があき、炭酸の泡のさざめきが立ちのぼる。暗い食卓には、わざわざ新宿の百貨店に寄って買ってきたリキュールのボンボンの箱があった。品よく澄ましたラッピングも、暗がりの中ではまったく目立たない。リボンに挟んだメッセージカードには、しゃれたレタリングでFor Youと書いてある。店でもらったままの、手書きのメッセージはなにも添えていない状態だ。なんて書いたらいいか分からなかったのだ。
咀嚼したパンを酒で飲み下してからスマホへと視線を落とし、あっちこっちで見かけた記事のサムネをタップする。遷移した先はシンプルなテキストサイトだった。個人の書いたものらしく、プロフ欄には何やら気の抜けたカエルのイラストと、「ケロ吉」のアカウント名があった。都内在住、アラサー男性。スマホに親指を滑らせて、何の気なしに記事の内容をさらっていくうちに、実心の目は画面に釘付けになった。
え、え。もしかして。
文章に抱いた違和感は、次第に確信に変わった。二度読み返して、もう間違いないという気になった。
この記事を書いたのは、春来だ。
ー ー ー
『行方不明の幼なじみからチョコが届いた件』
バレンタインが来るたびに、近所に住んでいたお姉さんを思い出す。もう十年以上前の話だ。彼女とはいわゆる幼なじみという間柄で、親同士も仲が良かった。アイちゃんといって、ぼくよりふたつ上。妹のココちゃんは同い年だった。ぼくらは三人でよく遊んだ。小中と地元の学校に通い、違う高校に進学してからも、お互いの家でしょっちゅう夕飯を食べていた。
アイちゃんは優秀で、高校の頃に南半球へ二週間のホームステイに行った。ぼくの知らない世界に飛びこんでいくアイちゃんがまぶしくて、受験勉強真っただ中のぼくは大いに刺激を受けた。いっぽうで、彼女がぼくの手の届かない場所に行ってしまう気がして、さびしく感じたものだった。
晴れてぼくも高校生になってみると、彼女のずば抜けた出来の良さにあらためて驚いた。アイちゃんたちの家で夕飯をご馳走になっていると、アイちゃんは早々にごはんを食べ終えて、ソファのほうでペーパーバックの洋書なんかを読んで、声をあげて笑ったり、目尻をぬぐったりしていた。
いわゆるガリ勉ではない。朗らかで、ぼくらやほかの友だちと遊んだりもして、等身大で過ごしているのに、地頭の良さがそこら中からにじみ出ていた。全身から陽のオーラが噴出している感じだった。アイちゃんは軽々と受験を乗り越えて、某大学の国際系の学部へ進んだ。そこで留学生たちとつるむことが多くなって、彼女はぼくにとってますます遠い存在になった。
よく妹のココちゃんがぼやいていた。
「あたし、出涸らしみたいじゃん」
ぼくが「なら一人っ子の自分はどうなるんだ」って言うと、ココちゃんは笑い飛ばした。
「あたしたち、凡人仲間だね」
アイちゃんへの憧れが強くなればなるほど、みじめな気分は深まっていった。アニメでも漫画でも、光と影の対比っていうのはよく見かけるけど、本当にそういう気持ちになるものなんだなぁと感心した。夏に向けて日差しが強くなってくると、アスファルトに落ちる影もくっきりと濃くなる、アレだ。白と黒で二分されたコントラストの強さに、ぼくは目を回していた。
ぼくとココちゃんがまたもや受験で四苦八苦しているうちに、アイちゃんは世界中を旅してまわった。トリリンガルになって、文化なんとか学のフィールドワークとやらで地球の裏側のほうまで飛んでいく。秘境を突き進むこともあったみたいだ。日に焼けて、真っ黒なロングヘアをポニーテールにしたアイちゃんは、なんだか日本人ばなれして見えた。
だから、彼女が就活を始めたことに、ぼくもココちゃんも心底驚いた。
アイちゃんは持ち前のパワフルさで数多のインターンに参加し、やすやすと内々定を勝ち取った。まだ、彼女が四年生に上がる前の話だ。そのころ一年生だったぼくは、そのすごさをあまり実感できていなかったけど、とにかく彼女がとんでもない逸材だというのを、思い知らされた。
そう、すごい人だったんだ。型にはまらず、自分からどこへでも飛び出していく、行動力のかたまりみたいな人だった。
それから一年経って、アイちゃんがもうすぐ卒業というころ、まだ「成人式」と呼ばれていたはたちの集いに、ぼくとココちゃんは出席した。アイちゃんは当のぼくらよりも嬉しそうに晴れ着の写真を撮りまくり、その次の週末に焼肉をおごろうと言ってくれた。それで、ぼくとココちゃんは相談して、お返しにとアイちゃんに就職祝いを買うことにした。アイちゃんはなんでもいいって言ったけど、ぼくは、こういうのはきちんとした品を選ぶべきだと思っていたから、新宿の百貨店に行こうと提案した。
三人で歩く都会は、すれ違う人々の頭がシャボン玉に見えるくらい、浮かれて虹色に輝いていた。ぼくらは百貨店の革小物売り場をじっくりと見て回り、最後にはアイちゃんに選んでもらって、なんたらっていう国内ブランドの財布と名刺入れを買った。世界を股にかける彼女が日本の品を選んだのが、ちょっと意外だった。
ぼくは背伸びの買い物にすっかり浮足立っていたけど、ココちゃんはなんだか冷めた顔をしていた。アイちゃんも、なんとなく口数が少なかった。もう少しで学生時代が終わってしまうのだから、名残惜しく感じるのは当然だろう。でも当時のぼくにはそういう機微が分からなくて、疲れたのかなって感じただけだった。それで、地下に下りて甘いものでも探そうかって提案してみた。ココちゃんは不服そうだったけど、アイちゃんは「いいね!」って賛成してくれた。
スイーツ売り場に行ってみて、ぼくはすっかり気おくれしてしまった。そこは、買い物疲れをいやすためにちょっと甘いものをつまむ、なんて目的で足を踏み入れる場所ではなかった。ケーキにゼリー、カラフルなマカロンに、名前のよく分からない焼き菓子がショーケースに整然と並べられている。スポットライトの強い照明を浴びてキラキラ輝くのは、食べる宝石で、学生のぼくたちが気軽に手を出せるお値段のシロモノではなく、贈答品を選ぶための場所だった。世間知らずのぼくは言い出しっぺの意地で、冷や汗をかきながら先頭を歩いた。
食品売り場の片隅にアイスクリームスタンドを見つけて、ようやくぼくらはベンチに腰を落ち着けた。真冬だったが、暖房と重いコートでのぼせていたぼくらの五臓六腑に、ジャージー牛アイスの冷たさが染みわたった。
人心地ついたアイちゃんは、やれ、あそこのチーズスフレが絶品だとか、あのクッキー缶のデザインはどこそことコラボしているとか、地下売り場で目についたものをひとつひとつ取り上げておしゃべりを展開していった。ぼくはほっとした。さっき元気がなさそうに見えたのは、やっぱり疲れていただけだったんだ、小腹が満たされて充電できたんだって。ぼくもアイちゃんの話に乗っかった。
「あそこのチョコもおいしそうだったよね。赤と黒のお店。お酒が入ってるやつ」
「ボンボンのこと?」
ボンボンというのをぼくは知らなかったけれども、知った風にうなずいてみせた。
「ケロ吉はまだ十九じゃん」
ココちゃんが鋭くツッコむ。早生まれのぼくは、二十歳の誕生日を迎えていない。ココちゃんは四月生まれの余裕からか、コーンの巻紙をぴりぴりと破きながら言った。
「あたしは、どうせならお酒そのものが欲しいな」
「じゃあ、お姉さまがプレゼントしちゃおうかな」
アイちゃんがわざとらしい笑顔で片目をつむると、ココちゃんは「えっ、いいの?」と目を輝かせた。
「はいはい、誕生日プレゼントね」
「初任給が入ってからでいいよぉ」
「五月になっちゃうよ」
「えっ、まじで? 四月はお給料もらえないの?」
目を丸くするココちゃんから、アイちゃんはぼくのほうへと目を向けた。
「ケロくんは、ちゃんと当日にあげるから安心して。なんたってチョコレートだもんね」
姉妹の会話を微笑ましく聞いていたぼくは、アイちゃんの言葉に驚いた。口の中のアイスの汁が変なほうに入ってむせた。
「ああ、バレンタインが誕生日だもんね。よかったじゃん、ケロ吉」
ココちゃんはニヤニヤ笑ってこっちをぼくを見てから、アイちゃんと顔を見合わせた。悪だくみでもしているみたいだった。そう、ぼくの誕生日は二月十四日。バレンタインデー、その日なのだ。
「た、高かったし、いいよ」
「そうだね、これから焼肉ご馳走してもらうんだしね」
ココちゃんが軽く相槌を打って、その場は流れた。休憩が終わって、なんとなくカラオケへ行って二時間くらい歌ってから、約束どおり焼肉を食べた。アイちゃんとココちゃんは生中で、ぼくはウーロン茶で乾杯した。食べ放題・飲み放題のコースでさんざん飲み食いしたあと、電車で地元へ帰るのがとにかくだるかった。実に大学生らしい休日の過ごし方だった。
二月に入る前に、アイちゃんは卒業旅行がてらホストファミリーに会いに行くといって、日本を発った。おばさん――アイちゃんたちのお母さん――が空港まで送るって言ったが、「ゼミのみんなと待ち合わせるから」と断ったそうだ。
そしてそのまま、アイちゃんは帰ってこなかった。
ゼミうんぬんの話はでまかせだったようで、アイちゃんは単身で出国していた。ホストファミリーに会いに行ったのは本当らしかったが、その後の行方が分からず、領事館に連絡しても、外務省に届け出ても、彼女の足取りは追えなかった。
ココちゃんもおじさんもおばさんも憔悴しきっていた。誰も何も言わなかったが、生きているか死んでいるかも分からなかった。もちろんぼくも戸惑った。心にぽっかり穴があく、というよりも、真っ暗な穴の中に突き落とされた気分だった。でも、穴の上では、いつもどおりの日常が続いていく。そして、ぼくはココちゃん以上に悲しむことが許される立場ではない。いくら仲の良い幼なじみだといったって、ぼくはアイちゃんの家族ではないのだから、わきまえるべきだ。ココちゃんは気丈に振舞っていたが、それがかえって痛々しかった。まるで、穴の中と穴の外で、二重生活を送っているかのようだった。
じきにぼくらは三年へ進級し、就職活動をはじめることになった。企業研究や自己分析をしたり、説明会に行ったり、インターンに参加してみたり。日常は慌ただしく流れていった。けど、その流れの渦の中心には常にアイちゃんの不在という空白があって、激流にもまれて流されていても、けっしてその渦からは離れられない、抜け出せない。そんな気がしていた。
そして一年後のぼくの誕生日、つまり、バレンタインデー。うちに小包が届いた。配送伝票にアイちゃんの名前を見つけて、ぼくは荷物を取り落としそうなくらい驚いた。依頼人欄にはアイちゃんの実家が書かれていた。
ぼくはすぐにココちゃんに連絡をとろうとして、やめた。アイちゃんが失踪したのはずいぶんと噂になった。悪質ないたずらだとしたら、不用意にココちゃんを傷つけかねない。
慎重に外箱を開封すると、新宿の百貨店の包装紙が目に飛び込んできた。小箱がひとつ、細長い箱がひとつ。それにメッセージカードが添えられていた。活字の印刷物だった。
『ケロくんへ お誕生日おめでとう! ココと仲良く食べて飲んでね。私は元気です』
たったそれだけだったが、その印字を読んだ瞬間、ぼくはアイちゃんに抱いていた憧れという風船の紐を手放さなければならない時がきたのだと理解した。
包みを開けなくても分かった。小箱の中身はボンボンチョコレートで、細長い箱の中身はお酒だ。アイちゃんは一年前の約束を叶えてくれた。そしてぼくに、ココちゃんの隣にいてほしいと願っている。
きっと日本にいるときからあった百貨店通販サイトのアカウントで購入したものなんだろう。カードにも百貨店のロゴが印字されていて、通販サイトのメッセージサービスを利用したように見えた。
アイちゃんがどこから日本の百貨店サイトにアクセスしたのか分からない。もしかして、海外から? しかも、妹のココちゃんではなく、ぼくにこれを送ってきた。その意図は分からないけど、察するに、家族には絶対に居場所を知られたくないんだろう。
分からないことばかりだったけど、ひとつだけはっきりしているのは、アイちゃんが生きているということだ。それは暗闇に浮かぶ希望の星明りだった。この世界のどこかで、アイちゃんが元気に暮らしている。そうと知れただけで、穴の深さがかさ上げされた感じがした。
その日の夜、ココちゃんがうちにやってきて、誕生祝いにとチョコをくれた。新宿の百貨店で見かけた、あのボンボンだった。ぼくは、アイちゃんからそっくり同じチョコレートが届いたことをココちゃんに言わずにいた。
ココちゃんが帰ったあと、ぼくの手元にはふたつのボンボンが残った。どちらを選ぶべきかは明白だった。ぼくはココちゃんがくれたボンボンを食べた。パリっと硬いビターチョコレートの中から、とろりとしたウイスキーの蜜が舌に溶け出す。アルコールはきつくなかったけど、ツンと鼻に痛みが走った。
あれから十年以上が経った。ココちゃんは毎年、ぼくの誕生日にボンボンをくれる。たとえそれがアイちゃんとの思い出をなぞるだけの行動だったとしても、それをありがたく、嬉しく思う。そして数年前、ココちゃんはぼくの妻になった。
あのとき、アイちゃんからのプレゼントについてココちゃんに黙っていたのが、正しかったのか間違いだったのか分からない。でも、ぼくはココちゃんを支えようと決めた。はたから見れば、同じ喪失を抱えるもの同士の傷の舐めあいなのかもしれないけど、ココちゃんがぼくを拒まない限りは、アイちゃんの思い出を丸ごと抱えるぼくが、ココちゃんの心の穴を埋めようと思う。もちろん、ココちゃんのほうもぼくの心の穴を埋めてくれている。でもそれは当たり前のことではなくて、常に変化し続けるぼくらのありようが、お互いの心の穴の形にぴったりとはまるあいだだけ有効になる鍵のようなものなんだろう。つまり、奇跡なんだと受け止めている。幸いなことに、その奇跡はあのバレンタインデー以来ずっと続いている。この先も続くか分からないけれども、二人の共通項であるアイちゃんとの思い出が色あせないうちは、その奇跡を信じていたい。
ー ー ー
記事はそこで終わっていた。その記事だけが異様に長文で、あとの記事はどこそこのラーメンがおいしかったとか、今日は冷えるとか、そんな他愛のないひとこと日記ばかりだ。記事の公開日は、昨日の深夜だった。ラスト勤務でくたくたに疲れていた実心はすぐに眠ってしまったので、夫がこんなものを書いているなんているなんてつゆ知らなかった。
姉の実愛が失踪してから、春来の虚脱状態は長く続いた。もともと内気でおとなしい性格だったが、輪をかけて生気を失って見えたのだった。もちろん、喪失の深い淵にいたのは、実心も同じだ。しかし、春来の気持ちが姉に向いていたのを知っていた実心は、抜け殻と化した春来を放っておけなかった。ふたりは冷たい沼のほとりで身を寄せ合い、互いを温めた。
(傷の舐めあい、か)
そのとおりだと思った。実際、SNSでそのような意見は少なくなかった。残りもの同士がくっついて惨めだとか、もっと強烈な言葉では、妹が姉の代替品として扱われているだとか。
実心も春来も、実愛がいなくなってからすぐに恋人同士になったわけではない。三十を過ぎたころに、なし崩し的に付き合いはじめ、すぐに籍を入れた。子どもの頃からよく知っている幼なじみ同士の結婚に、互いの両親は喜んだが――それが果たしてふたりの正解だったのだろうか。
――春来はどういうつもりで、実愛のことを記事に書いたのだろうか。なぜ、今になって?
実心はため息をついてチューハイを飲み干し、暗がりの中の食卓を見やった。ボンボンの小箱は相変わらずそこにあって、その静かさはまるで時間の流れの干渉を受けずに凍り付いているかのようだった。時計の針は二十二時を回っている。
スマホをソファに放りだして、念入りに歯を磨き、寝床にもぐりこんだ。春来は帰ってこない。明日は早番だ。考えても仕方ないのだから、寝るしかない。面倒な歯磨きをきちんとした自身を、実心は内心でほめたたえた。布団がぬくまってくると、意外にもすんなりと眠気がやってきた。からだ中の疲労が心地よい重みに変わっていくのを感じながら、実心は眠りに落ちていった。夢も見ないほど、深い眠りだった。
目が覚めたときには、春来の寝顔が目の前にあった。
日焼けはしないが、ニキビのできやすい肌。眉毛を整えてから数日経ったのか、短い毛がつんつんと顔を覗かせている。閉じた小さな瞼の淵はなだらかな丘陵に沿って曲線を描き、いかにもまろやかだ。丸い鼻にも愛嬌がある。まだ三人で昼寝をしていた幼いころから変わらない寝顔を、実心はじっくりと観察した。ごくあっさりとした睫毛が並ぶ列からわずかにそれて、抜け落ちた睫毛が頬に乗っていた。実心はその睫毛を拾おうか迷い、やめておいた。起こしてはいけない。
そっと寝床から抜け出した実心は、まず食卓に目を向けた。ボンボンの小箱はなくなっている。春来が片付けたのだろう。音を立てないように支度を整えながらSNSをチェックすると、昨晩のバズりはすっかり落ち着いていた。ブクマしていた「ケロ吉」氏の記事は、もうアクセスできなくなっていた。非公開としたのか、それともアカウントを消したのか。一瞬、きのう見かけた記事は夢だったのかとも思ったが、SNSでキーワード検索をかけてみれば大勢のコメントがヒットする。
「おはよ」
背後からの突然の声に驚いて、実心はヘアブラシで耳をこすってしまった。ひりつく耳を手で押さえ、平静を装って振り返ると、洗面所の入口に春来が立っていた。
「起こしちゃった?」
春来は寝ぼけまなこをさらに細めて答えた。
「いや、起きようと思ってた時間だよ。今日は早いんでしょ」
「うん」
実心は鏡に向き直って化粧を始めた。オールインワンクリームを薄く塗って粉をはたき、眉を引く。春来はカラカラとうがいをしてから台所へ向かい、実心に訊ねた。
「食べてくよね?」
「ゼリーでいい」
春来が起き出すと、にわかに家が活気づく。鍋を取り出す音、ガスコンロのカチカチという点火音。実心は鏡越しに台所の方を見た。春来の様子にいつもと違ったところはない。
化粧を終えてリビング・ダイニングに戻ると、春来は自分のための朝食の準備を終えようとしていた。一足さきに実心が椅子に座り、音を立ててゼリー飲料を吸っていると、まだパジャマのままの春来が二人分のカフェオレを運んできた。春来はカフェオレに冷たい牛乳をたっぷり使うので、慌ただしい朝に一気飲みをしても火傷をする心配はない。
「ありがと」
実心が短く礼を言うと、春来はトーストにマーガリンを塗りながらふにゃりと笑った。
「こっちこそボンボンありがとう。昨日は遅くなってごめんね」
春来はマーガリンを一筋ずつ丁寧にパンに塗りつける。トーストに齧りつくころには、実心はゼリーもカフェオレもすっかり飲み干していた。歯磨きもそこそこに、実心は家を飛び出そうとする。
「いってくるね」
「ちょっと待って、実心ちゃん」
春来が玄関口へ走り寄ってきた。足でドアを押さえ、リップを塗りながら実心が待っていると、春来は実心の口元に指をさっと差し出した。唇に押し当てられたものを手で押し返し、実心は抗議した。
「なに、いきなり」
「いただいたチョコ。一個どうぞ」
春来の表情には百パーセントの善意しか見当たらない。悪戯心のひとかけらでもあれば救いがあるのだがと、実心は頭を抱えた。
「仕事前にアルコールは厳禁! 歯磨きだって済んでる!!」
「そっか。それじゃ帰ってきたらね」
「うん、いってきます!」
春来の見送りを受けて、実心は玄関から勢いよく飛び出した。
駅へ向かいながら、実心は春来の様子を思い返していた。例のバズ記事について春来のほうから触れるつもりがないのは明らかだ。当然と言えば当然だろう。妹と結婚する前に、姉のほうに惹かれていたと明言しているのだから。
(何を今さら)
春来の気持ちが実愛に向いていたことに、実心はとうに気付いていた。実心だけではなく、実愛も気付いていたはずだ。だからこそ、実愛は春来に小包を寄越したのだろう。
そして、実心のもとにも。
春来が実愛からの小包を受け取る数週間前、実心もまた実愛から電報を受け取っていた。
(いまどき、電報なんてね)
実心は当時の鮮烈な驚きを思い出し、苦笑いをかみ殺した。電報など、卒業式でお偉方のメッセージを紹介するものとしか認識していなかったが、それを私信に使う突飛さが、実に実愛らしい。発信元は出鱈目だったが、実心にはすぐに姉だと分かった。
限られた文字数を割いて、実愛は妹に、春来へ気持ちを伝えろと言っていた。実愛自身の情報についてはただ元気だとだけ、どこで暮らしているとも何をしているとも書いていなかった。
それでも、きっとあのまま就職して社会人になるよりは充実しているのだろうと、実心は信じている。大学卒業が近づくにつれて塞ぎがちになっていった姉の姿を、実心は誰よりも近くで見ている。実愛は妹にだけは、自分は企業人に向いていないと弱音を吐いていた。周囲から寄せられる期待と自分の実像のはざまで身動きが取れなくなっていたのだ。だから、受け取った電報を抽斗の奥底に封印し、姉が無事だということは、誰にも、親にさえ知らせなかった。姉は探されることを望んでいないと確信していた。
姉のことはある程度理解しているつもりの実心だったが、あのバレンタインデーに、姉がまさか春来にまで接触していたとは、驚いた。実愛は、年下の二人の気持ちのベクトルを知っていて、キューピッドまがいの真似をしたのか。黙っていた春来も春来だ。実心たちの両親に知らせなかった点には拍手を送りたかったが、それにしても、実心には教えてもよかったのに。
そう考えたところで、はたと実心は足を止めた。駅への道すがら、ちょうど赤信号の交差点だった。車両用の信号が青になり、目の前をコンビニ配送のトラックが過ぎていく。
その答えは、春来自身が既に記事に書いていた。小包が実愛からのものでなかった場合、その情報は実心を傷つけるものとなる。不用意に実心に動揺を与えないために、春来は実心に黙っていた。
では、なぜ今になって、あんな風にネット上でテキストを公開したのだろうか。堂々巡りの疑問が実心の頭を駆け回る。あれから十年以上経つというのに――
(いや、十年以上も経ったから?)
春来は、実愛が無事だと実心に告げられずに十年以上も過ごしていたのだ。ひとりきりで抱えるには重い秘密を吐き出すための場所を求めていたのだろうか? それとも、ネット上で幼なじみ三人のエピソードを公開することで、この世界のどこかにいる実愛に向けて何かを伝えようとしているのか――もしかして、実愛を探そうとしているのか?
歩行者用の信号が青になり、立ち止まっていた人々がめいめいに歩き出すが、実心の足は動かなかった。いつも穏やかな春来との日々に安心しきっていたが、それは実心の側だけだったのだろうか。後ろから来た人が実心のバッグに軽くぶつかり、実心は「すいません」と頭を下げた。気を取り直して横断歩道を渡りはじめ、そして気付いた。
(あたし……春来に『誕生日おめでとう』って、まだ言ってない)
昨日は互いの生活時間帯がすれ違い、言葉も交わさないまま眠ってしまった。今朝は実心の出勤時刻が早いため、焦っていた。スマホを取り出して時刻を確認すると、電車の発車時刻が迫っている。メッセージアプリを立ち上げ、春来に「ハピバ」のスタンプを送信しようとして、やめた。
実心は不安を振り切るように、駅に向かって走り出した。
一足踏み込むごとに実心の心は震えた。その震源は、紛れもなく姉の実愛なのだと、実心は理解していた。胸の奥の空白だった地帯に、春来が実愛を呼び戻した。心の中の実愛は身体を大きく揺らして、自分はここにいると主張していた。酔いがさめたように、視界がクリアになっていく。
冬の灰色の街に、春めいた日差しが降り注ぐ。こんな駅前のどこに咲いているのか、蝋梅の清々しい香りが実心の鼻に届いた。
駅に着き、改札を抜け、プラットホームへと下りていく。発車のベルの鳴り響く中、電車に飛び乗りながら、実心は心に決めていた。
家に帰ったら、春来におめでとうと言おう。
昨日、自分が読んだもの、感じたことを、春来に話してみよう。
毎年さだめのように買い続けてきたボンボンから、そろそろ卒業しよう。
次に春来と休日が重なったら、改めてスイーツを買いに行こう。
そうして新しいお祝いの仕方を、二人で探そう。
もっと、春来と話そう。二人を繋いでいるのは、実愛の思い出だけではないはずだ。細い糸や太い綱、ふたりをつなぐ色々の種類の縁を、ひとつひとつ数え直してみよう。
そうして二人がきちんと向かい合うことができたら。実愛に依らずに二人が自らの足で立つことができたら。
そのとき、実愛がひょっこり顔を出してくれるような気が、実心にはしたのだった。
本作は、香月よう子様・楠結衣様主催の「バレンタインの恋物語企画」に寄せた物語です。
企画につきましては、楠結衣様の活動報告をご参照ください。
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/1670471/blogkey/3404205/