【05】 すべては月のせいだから
十五歳での結婚は白い結婚だった。
お相手は伯爵家の嫡子。歳はわたしよりも五つ上。いつも静かに微笑んでいる、穏やかで優しい方だった。
初夜の寝室で夫になったその人は言った。
申し訳なさそうにうなだれたまま「きみを愛することはできない」と。
体面だけの妻でいて欲しいと頭を下げられた。
驚いてしまい、どういうことなのかと理由を尋ねる。
彼にはもともと子どものころからの許嫁がいた。しかし、伯爵家の存続のためには、我が家からの融資を受けるほかはなくなってしまった。その代価は、わたしとの結婚。
わたしの実家は子爵家だ。父が事業で成功した我が家と、事業と領地経営の不振が原因で経済的に困窮した、名ばかりの伯爵家。子爵家にとってはその爵位と、伯爵家が持つ伝手が目当て。伯爵家にとっては資金援助を目当てとした、完全なる政略結婚だった。
許嫁だった彼女を心から愛していた彼は、泣く泣く婚約を解消したという。
「そんな気持ちのままでは貴女にも失礼だし、自分の心も裏切れない。だから、今はまだ……」
彼は哀しい声でそう言った。まだ彼女のことを愛しているのに、わたしを妻にはできない。そういうことだった。
なんて正直な人なのかしらと思った。黙っていたら心の内などわからないのに、わたしに伝えてしまうなんて。
そして内心は少しほっとしていた。貴族子女の心得といえども、十五歳の少女。まだまだわたしは子どもだった。夫婦生活がどういうものなのか。それさえも現実感はなかったのだから。
「彼女もわたくしたちの結婚式のあとに、別の方に嫁いでいきました」
「そうですか……」
月の光に照らされた道を、天幕へと戻るためにゆっくりと歩いた。
思い出しながら昔を語っても……まだ懐かしいせつなさが呼び覚まされてしまい、胸が痛いと知る。
クワトロ様は口をはさまずに、ただ聴いてくれていた。「冷えるといけない」と言って、自分の上着を脱いで肩にかけてくれた。
わたしたちは本当の意味での夫婦ではなかった。でも、お飾りといえども彼はわたしを尊重し、思いやりをもって大切にしてくれた。遠乗りや観劇にも連れて行ってくれたし、夜会でもきちんとエスコートをしてくれた。わたしは彼にとっては妹のようであり、わたしにとっては優しい兄のようであり……心地のよい関係を築いていた。
嫁いで三年ほどが経つ間に、伯爵家の領地経営も立ち直り、事業も持ち直した。相変わらずに白い結婚のままだったが、彼の傍にいて、心穏やかに安らいだ日々を過ごしていた。
いつしか……わたしは、いつでも静かに微笑んでいる彼のことを、兄のようではなく異性として本当に好きになっていた。このままふたりの時を過ごしていけば、いつかは本物の夫婦になれると信じるようになっていた。
「そんなときに彼の許嫁だった方の旦那様が亡くなったと報せがありました……。それからの彼は、隣にいるこちらが忍びないほどに憔悴して……。わたくしはそれを見ていられなかったのです。どうぞ会いに行ってくださいと申し上げました。彼は迷っていましたが……彼女に会いに行きました。……離婚はわたくしから切り出しました。彼が幸せになれるのならば、それでいいと思ったのです」
そう。そのときは本当にそう思った。
だけど……惹かれていた彼の優しさを手離したあとは……。
どうして本当の夫婦になることができなかったのか。どうして離婚を切り出してしまったのか。どうしてわたしを選んでくれなかったのか。そんなことばかりを考えてしまった。
彼の幸せを願ったはずなのに……。気がつけば呪いのように心が縛られていた。そんなことしか考えられなくなった自分にも失望した。
彼の笑顔を思い出すたびに、哀しみと痛みで胸がいっぱいになった。でも……妹のようにしかみてもらえなかったわたしの傍では、あの人の優しい笑顔は戻らないことも解っていた。静かな微笑みは、すべてを諦めていたからだということも……。
「それからしばらくして……聖女のご神託がありました」
「……」
神殿に入り、過去のことを忘れられるように。彼の幸せを願えるように。聖女としての修行に必死で励んだ。それからいつしか六年の歳月が流れていた。
「だから、もう大丈夫だと思っていたのですが……。まだまだ修行が足りませんね。わたくしも」
「本当に……申し訳ありません」
クワトロ様は瞳を伏せる。
「あら、また繰り返すのですか? 蒸し返すためにこのお話をしたのではありませんよ。たぶん……クワトロ様と同じように、わたくしの経歴を耳にした方のなかには、聖女としての力に疑問を持たれている方もいると思うのです。でも、クワトロ様にも事情を知っておいていただけたら……。余計な心配をおかけしないで済むのではないかと思いまして」
「それは……そうかも知れません。ですが、そんな大切な話を打ち明けさせてしまって……」
「クワトロ様も正直に話してくださいましたでしょう? これで本当におあいこです」
「……」
それでもまだクワトロ様は、自分を責めるように瞳を伏せたままだった。
うーん……どうしよう。
「あの、それでは……わたくしが言うことではないかもしれませんが……月のせいに、してみませんか?」
そう提案してみる。
「月のせい?」
クワトロ様は瞳を上げた。
「はい。月の光は人の心を癒す反面、強く作用をすると精神を狂わせることもあるのです」
「……そんなことが」
「幸いにも今夜の月は大きく輝いています……。貴方のこともわたくしのことも、すべては今夜の月のせいです」
夜空を見上げたクワトロ様。
月の光が瞳に溶ける。青と緑が混じり合った瞳はとても不思議な色合いになる。そして、少しだけ微笑んだようにも見えた。
「では……月には申し訳ないですが……そういうことにさせてもらいましょう」
「はい。これで仲直りですね」
にこっと微笑む。するとクワトロ様の口角も上がり、野性的な香りのする三白眼もやわらかく細められた。目尻が下がり、甘い印象になる。
あら。なかなか可愛らしい笑顔をするじゃない……。なんて。そう思ってしまったことは……絶対に内緒にしておこう。
本文中の表記が揺れてしまいました<(_ _;)>
ユリアージュの回想では「わたし」です。クワトロ団長との会話では「わたくし」になります。
先ほど直しました。やってしまった……(⊙.☉;)