【03】 夜のいざこざ
……あら。なんでここに?
近づかないでおこうと思ったばかりなのに。
反射的に足がくるりと回れ右をする。今来たばかりの道を戻るその後ろを、砂利と下草を踏み鳴らす足音が追いかけてきた。
「どうしたのですか? 何かありましたか?」
前に回り込んだクワトロ様は、戻り道を塞いでしまった。
「いいえ。何もないです」
そう答えはしたものの、クワトロ様は訝しげな表情でこちらを窺う。
「何もないのに……こんな夜中に天幕から出ているのですか?」
若干、非難めいた口調なのは気のせいではないはず。
「あ……もしかして用を足しに……」
「違います!」
驚くほどデリカシーがない……!
喩えそうであったとしても、女性に面と向かっては訊かないものだと思う。
物腰が丁寧? カペラの言っていたことが信じられない。
クワトロ様は指を口許に充てると、視線を怪しく流して笑った。
「そうですか……それでは、もしかして私の天幕に夜這いでも……?」
なっ……!?
その瞬間に、ざわざわと騒ぎかけていた血が一気に沸騰して、頭にぼるのを感じた。
馬鹿にするのにも、自信過剰にもほどがある。冗談でも……不適切過ぎる。いくら離縁をした経験があるとはいえ、わたしを……どんな女だと思っているのだ。それに……。
気がつくとクワトロ様の頬に思いきり平手を打っていた。
パァンと乾いた音が鳴る。
「貴方……いくらわたくしが出戻りの聖女だからといって、言って善いことと悪いことがあります。わたくしは……そんなふしだらな女ではありません」
声が震えた。とても自分が発したとは思えない低い声だった。
焚き火の炎で照らされた青と緑の溶け合った瞳は、驚いたように瞪かれていた。その瞳を強く睨みつける。
「わたくしのことがお気に召さないのであれば、かまわずに放っておいてください」
「あ……いや、あの、私は……」
クワトロ様は打たれた頬を押さえて、なんだか呆然としている。
ずいぶんと女性に人気がお有りになるようですから、頬を張られたことなんてなかったのでしょうね。夜這いをされたことならあるのかもしれないですけど。
……叩いた手も痛い。
「どうかしましたか?」
不穏な空気を察したのか、ひとりの騎士様が近づいてきた。
「ユリアージュ様、クワトロ団長。なにかありましたか?」
「……なんでもありません」
明らかに震える声で答える。
……わたしはまだ、動揺している。
「いや、なんでもないことは……」
騎士様は困ったように、わたしとクワトロ様を交互に見た。
「すまない。ラトル。私が悪いんだ」
騎士様にそう言ったクワトロ様は、わたしに頭を下げた。結んだ金色の髪が肩からこぼれていく。
「申し訳ありません。決して貴女を侮辱したかったわけではなくて……冗談が過ぎました」
そんな言い訳……聞きたくない。
「……おやすみなさい」
話の途中だったが踵を返すと、その場から走って逃げだした。もう、この場にはいたくなかった。
「ユリアージュ様! そちらは……!」
後ろからクワトロ様の声が追いかけてくる。それを無視した。そのまま天幕と天幕の間をすり抜けて走る。
夜這いだなんて……。
嫌われているのは別にいい。だけど、そんな性質の悪い冗談を言われる筋合いはない。
わたしのことなんか何も知らないくせに。
……あのときのわたしの気持ち。
それまでをも汚された気がした。
瞬間的に沸騰してしまったクワトロ様に対する怒りは、どろどろとした醜い塊となって胸一杯に沸き上がり、広がった。べったりと心に張りついて息苦しい。
その怒りの感情を抑えるどころか、制御もできなかった。そのことさえも自分が情けなく苛立たしく、とても腹が立つ。
もう、何年も前のことだ。もう、大丈夫だと思っていたのに……。
とてもじっとしてはいられずに、足の向くままに駆けた。
やり場のない気持ちをぶつけるままにしばらく走り続ける。それから、疲れを覚えて歩幅をゆるめ、足を止めた。
ふと我に返る。
どれくらい走ったのか──。
今夜は満月に近かった。幸いにも月明かりのお陰で、足元に淡い影ができるくらいには周囲が見通せる。
川の土手の斜面には背の高い草が生い繁っている。月の光を受けた茎や尖った葉は、やわらかく頬を撫でてゆく風に揺れていた。
多くの天幕の間を走り抜けて、川岸を下流へと走っていたようだ。靴の裏で砂利を踏む感触が土を踏む感触へと、いつの間にか変わっていた。
荒くなった息を整える。
ふうっと深い息を吐くと空を見上げた。
月の光が星の輝きを消している紺色の夜空。
降ってくる月の光の中に立つと、気持ちはさらに落ち着いてゆく。川のせせらぎの音も耳に届く。
冷静になってみると……かなり軽率な行動だった……と思う。
……やってしまった、よね。
いくらクワトロ様が失礼だったとはいえ、騎士団長様に手を上げてしまうとは……。
じんと痺れている手のひらを軽く握る。
それだけ……あの人とのことは、わたしにとってまだ越えられていない痕になっているのだと……よく解った。
はぁ。
口からはため息がこぼれてしまう。
……戻らなくちゃね。
戻って、手を上げてしまったことは謝らなくては。気は重いけど……。
そう決心して、くるりと身体の向きを変えた瞬間に──。
「ユリアージュ様」
「……なんでっ!?」
驚きのあまり思わず叫んでしまった。
背後に音もなく気配もなく立っていたのは、ほかでもないクワトロ様その人だった。
ずっと後ろをついてきていたの?
まったく気がつかなかった!