【10】 聖女の敵は聖女? その1
ふるふると震えて立つフェリーチェは、ほんのちょっとの風でも吹いたら飛ばされてしまいそうなほどに儚げな様子だ。桃色の唇を噛み締め、すみれ色の瞳を潤ませている。伏し目がちにちらちらとこちらを窺う眼差しは、まるで弱々しい小動物のようだった。こういった雰囲気は周囲の庇護欲をそそるのだろう。思わず守ってあげたくなってしまう。
だけど、その頼りない姿と「軽くぶつかった」との言葉に、「ぶつかった」ときの衝撃との違和感を覚えた。
わたしが腹を立ててフェリーチェを睨んだ、ということが前提となっているみたいだし……。
「ユリアージュ様は」
微妙になってしまった空気を破ったのはクワトロ様だった。
「お優しい心根のお方です。そのようなことでお怒りにはなりませんよ」
やわらかな声色でフェリーチェやラトル様たちを見回す。それから穏やかにわたしにも頷いてみせる。
えっと……。心根が優しいかどうかは、取りあえず置いておくことにする。
おかしくなった空気を払ってこの場を治めるために助け船を出してくれたクワトロ様に感謝を込めて、心得ましたとばかりに小さく頷き返した。
「フェリーチェ様。どうかご安心くださいね。先ほども申し上げましたように、わたくしはまったく怒ってなどいません。ましてや同じ任務に就く聖女です。フェリーチェ様を疎ましくなど思うはずもありませんよ」
フェリーチェとラトル様たちに誤解だと伝えるために淑やかな笑顔を披露した。本音としては、フェリーチェにはなにかひっかかるものを感じないでもない。それでも、彼女の誤解を解き、もとから怒ってなどいない、ましてや疎ましく思うはずもないことをきちんと伝えることも大切だろう。
フェリーチェはまたもやうつむいてしまい、まだ肩を震わせていた。ラトル様たちは一様にほっとした表情をみせてくれた。
フェリーチェやあとから合流した護衛の騎士様たちと、夜営用の大鍋のスープをかけた火を囲んで夕食の続きを摂った。
夏とはいえ七連峠の麓は北の神殿と比べても、吹き下ろしてくる風は冷たい。スープ鍋をかけている火は灯り採りだけではなく、身体が冷えすぎないようにも役に立ってくれている。
フェリーチェはクワトロ様の隣を離れようとはしなかった。耳元でひっそりとなにかを話しかけては、きゃあきゃあと楽しそうな笑い声を上げている。それを穏やかに聴いて、時おり頷くクワトロ様。フェリーチェはクワトロ様に話しかけるときだけは「アルフォンソ様」と名前を呼んでいた。……ずいぶんと親しいようだ。
ラトル様はなぜかわたしに気を使ってくれていた。スープやパンのお代わりはいかがですか? 道中のお疲れはありませんか? などなど。沈黙が気まずいとでもいうように、一定以上の会話の空白をつくらない。
栗色の短髪に灰色の瞳をしたラトル様からは、落ち着いた印象を受ける。クワトロ様よりも少し歳は上のようだ。聞けば『蒼の翼』の副団長様のひとりだという。
団長のクワトロ様が大輪の華のような艶やかな雰囲気を持つのならば、ラトル様はそれを護る、緑の葉を茂らせたどっしりとした大樹のようだと思った。ラトル様が「自分はクワトロ様の右腕です」と胸を張って主張すれば、その言葉を聞いていたほかの騎士様たちも「私もです」と次々に名乗りを上げる。
「いや、私のほうが」
「いやいやいや、俺のほうが頼りにされてますって」
「違います。僕ですよ」
次々に手を挙げる騎士様たちは微笑ましくもあり、感心もしてしまう。やはりクワトロ様は部下からの信頼がとても篤いようだった。
フェリーチェの相手をしていたクワトロ様もその様子に「皆を頼りにしてるよ」と苦笑した。
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「明日の早朝にラバック砦へと向かいます。聖女様がたは村長殿のご好意があり、今夜は屋敷の部屋でお過ごしくださるようにと。なにかご用事などがありましたら、私どもは天幕に控えておりますので。いつでもお声をかけてください」
夕食後にクワトロ様から明日の予定と今夜のことを伝えられる。
この村からラバック砦までは馬で半刻ほど。馬車での移動は目立つために、わたしとフェリーチェも馬での移動予定となった。頭数を少なくするために、聖女は騎士さまと同じ馬に乗る。
乗馬はそれほど得意ではない。短い距離ならなんとかなる……かな。
村長夫人は村長様と同じように、人好きのする笑顔で迎えてくれた。客間へと通してもらう途中に、屋敷の中を案内してくれた。
長年連れ添った仲のよい夫婦は顔も似てくると聞いたことがある。村長様と夫人はにこにこと微笑む表情も、優しそうな雰囲気もとてもよく似ている。
ふと……元夫だったあの方の笑顔を思い出す。わたしと彼は……なにもどこも似てはいなかった。
小さな村の長の屋敷は決して大きくはない。きらびやかでもない。それでも住む人の性質が宿っているかのように、建物はどこか懐かしく、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
フェリーチェはクワトロ様と離れてからは、一言も言葉を発していなかった。おとなしく後ろをついてきている。西の神殿からの移動とクワトロ様とのお喋りで疲れてしまった様子だった。西の神殿からこの村までは、北の神殿からよりも距離がある。
客間へと続く屋敷の廊下を連れだって歩いていると、なにか小さな……声のようなものが聞こえてきた。
フェリーチェが喋ったのかと思い振り返ったが、うつむきがちについてくるだけで唇は動いてはいない。
気のせいかもしれないと思ったときに、今度は確かに聴こえた。くうぅんと甘えるような鳴き声は、なにかの動物の鳴き声のようだった。犬の鳴き声のようにも聞こえた。
お屋敷で動物を飼っているのかしら。
周囲を見回してみても声の主の姿は見えない。
「どうかなさいましたか?」
きょろきょろと周囲を見回していた様子に気がついた村長夫人は首をかしげた。
「鳴き声が聴こえたもので……。実家には犬がいたのです。なんだか懐かしくて」
実家の子爵家ではお父様が狩猟に連れていく犬を飼っていた。まだほんの仔犬のころに子爵家にもらわれてきた犬だった。夜になると誰かを呼んでいるようにくぅんくぅんと鳴いていた。その鳴き声は窓を開けると微かに聞こえてきた。
母犬や兄弟犬を恋しがっていたのだろう。見知らぬ屋敷の慣れてもいない小屋に一人きりでは心細くて不安にもなるし、淋しいに決まっている。兄と密かに部屋を抜け出して小屋に忍び込み、震えている小さな身体を抱き締めて眠った。肌に触れる柔らかな仔犬の毛はくすぐったくもあり、とても温かくもあり。動物の生命の匂いを初めて感じた。
次の日にはすぐに母や家の者に見つかってしまい、仔犬は我が家に慣れるまでは兄と一緒に世話をすることになった。わたしが嫁ぎ先からもどってきたときには尻尾を大きく振って迎えてくれた。わたしを忘れないでくれて、迎えてくれたことがとても嬉しかったことを思い出す。
わたしの言葉に夫人は困惑したように首をかしげた。
「さあ……? ここには動物はなにもおりませんが……?」
「……そうですか。聞こえたような気がしたもので。では気のせいなのかもしれませんね」
「ちっ」
ちっ?
後ろから明らかに舌打ちをする音が聞こえた。振り返るとうつむいているフェリーチェのすみれ色の瞳と目が合った。上目使いにわたしを見つめている。……というか、睨んでいる。なんで?
「気のせいじゃないわ。聞こえたわよ」
フェリーチェがふいに顔を上げると、はっきりと言った。
「あの……こちらが聖女さまがたのお部屋になります」
村長夫人の声に弾かれるようにしてフェリーチェから視線をもどす。
「遠方の神殿からの移動はお疲れになったでしょう? 今晩はよくお休みくださいね」
「ありがとうございます」
村長夫人に案内と気遣ってくれたことへの謝辞を述べる。「私どもに協力できることはこれくらいですから。なにかありましたらお声をかけてください」。そう言って村長夫人は部屋を出ていった。
フェリーチェはさっそく長靴を脱いで奥の寝台に寝転がっていた。
「フェリーチェ様。あの、さっきのはどういう意味でしょうか?」
手前の寝台に腰を下ろす。長靴の紐を解きながら訊いた。
すでに服も脱いで、薄手のブランケットの中に潜り込んだフェリーチェからの返事はない。
もう眠ってしまったのかもしれない。随分と疲れた様子だった。急ぐこともない。また明日にでも訊いてみたらいい。
隣の棚のランプを消した。寝台に横になりブランケットを肩まで引っ張り上げる。暗闇の中にぼんやりと浮かぶ天井を見上げて目を瞑ろうとしたときに、こちらに背を向けていたフェリーチェがぼそりと呟いた。
「あんた、嫌い。話しかけないで。ルミナスと同じ臭いがするわ」