2 夫の過去
エミリは毎日午後になると、買い出しをしてアーダの家に向かい、簡単に部屋の片付けや掃除をした後、夕食を作った。
アーダの右腕の怪我は全治8週間という事で、彼女は現在騎士の仕事を休職中だそうだ。
アーダと7歳の妹イーダが朝も昼も「パンをかじっているだけ」と知り、夕食を作るついでに朝昼用の作り置きのおかずも用意するようになったエミリ。平民向けの公立学校に入学したばかりのイーダの昼の弁当も、前日のうちに作って置くことにした。根っから世話焼き気質のエミリは、学校にパンだけを持って行って「友達に揶揄われた」と俯くイーダを放っては置けなかったのだ。
毎日バランスの良い食事を手際良く作るエミリに、アーダはとても感謝してくれた。
「エミリさん、本当にありがとう。感謝してもしきれないわ」
イーダも「エミリさんのお料理、ホントに美味しい!」と言って、エミリの作る料理を毎日モリモリ食べてくれる。
「うふふ。そう言ってもらえると嬉しいです」
毎日通ううちに、エミリとアーダ、イーダ姉妹の距離は自然と縮まり、次第に気の置けない仲になってきた。いつの間にか、イーダは夕方に学校から帰ってくると「アーダ姉さん、エミリさん、ただいま!」と、アーダだけではなくエミリにも抱き着いてくるようになっている。
「エミリさん、今日の夕飯はなぁに?」
「じゃじゃぁ~ん! 今日はサックサクの”キチンカツレツ・エミリスペシャル”だよ~!」
「わぁ~い!!」
「イーダったら、ヨダレが出てるわよ」
「出てないもん! アーダ姉さんの意地悪!」
「アハハ」
「出てないったら!」
「分かった、分かった」
「イーダちゃん。腕に縒りを掛けて作るから、待っててね」
「うん! 楽しみ!」
エミリはもともと料理好きである。おまけに独身時代は貴族邸のメイドをしていた。故に家事全般が全く苦にならない。アーダ、イーダ姉妹とも仲良くなり、二人とのお喋りも楽しい。エミリは毎日張り切ってアーダの家に通った。
ただ、エミリがアーダの家に通い始めて以来、婚家には不穏な空気が流れていた。
デニスと彼の母、妹、弟が反目し合ったままなのだ。
エミリがアーダの家の手伝いを終えて帰宅すると、いつも姑が心配そうに声を掛けて来る。
「エミリちゃん、大丈夫? アーダさんに嫌な事は言われなかった?」
「ええ。大丈夫です。アーダさんとはすっかり仲良しですし、妹のイーダちゃんも私に懐いてくれてるんですよ」
姑フレヤが一体何を心配しているのか、よく分からないエミリだが、とにかく彼女を安心させたくて、笑顔で答える。
だがフレヤの表情は曇ったままだ。
「エミリちゃん。アーダさんには心を許しちゃダメよ。くれぐれも用心してね」
「……はい(?)」
毎日似たような会話が繰り返される。
エミリは不思議で堪らなかった。
⦅お義母さんは、何が不安なんだろう?⦆
そして義妹アリスと義弟ニルスも、フレヤと同様にエミリを案じるのだ。
「お義姉さん、大丈夫? アーダさんに何もされてない?」
「義姉さん! 手伝いなんて行く必要ないよ! あのデカ女に嫌がらせされるかも知れないのに! 危ないよ!」
本当に訳が分からない。
どうしてエミリがアーダに苛められる前提なのだろうか?
婚家の家族は何故こんなにもアーダを信用していないのか?
⦅もしかして、過去に何か揉め事があったとか?⦆
ついにある日、エミリは勇気を出してフレヤに尋ねてみた。
「あの、お義母さん。お義母さんはアーダさんの事が嫌いなんですか? 私が嫁いでくる以前に、アーダさんとこちらの家族の間で何かトラブルでもあったんでしょうか?」
エミリがデニスと結婚したのは半年前だ。見合い結婚だった為、お互いの結婚前の事はよく知らない。アーダと婚家の間で何かしらの揉め事があったのだとしたら、嫁としてエミリも知っておきたいと思った。
姑フレヤは思ったよりもすんなりと口を開いた。
本当は早くエミリに話したかったのかも知れない。
「ホントは私からする話ではないんだけど――私もデニスに対して、もう我慢の限界だから話すわね」
「は、はい」
「アーダさんはデニスの恋人だったの。二人は結婚の約束もしていたのだけれど……アーダさんはデニスと同時進行で既婚者の上司とも付き合っていたのよ。それを知ったデニスは、そりゃあもう落ち込んでね。上司と別れて欲しい、って泣きの涙でアーダさんに頼んだみたい。情けないでしょ? でもアーダさんは『どっちも好きなんだから、別にいいでしょ?』って開き直っちゃって。結局、デニスは彼女との結婚を諦めて、二人は別れたの」
なかなかにハードな恋愛話ではある。
だが、それならば既にアーダとの件は過去の出来事では?
「それだけでも酷い話なのに、続きがあるのよ」
「え?」
「その後、結局上司の奥さんに不倫がバレて、仕方なく上司と別れたアーダさんが、デニスと縒りを戻したいと言い出してね」
「……それはまた。随分と勝手な言い分ですね」
「そうなのよ。でも、デニスが一言『ふざけるな!』って突き放せば済む話なのに……」
「お義母さん、まさか?」
「その『まさか』なのよ。バカ息子デニスは大喜びでアーダさんを受け入れたの」
「バカですね」
思わず口から漏れ出てしまった嫁エミリ。
「バカなのよ」
溜め息を吐く姑フレヤ。
「私は勿論、アリスもニルスも大反対したんだけれど、デニスはアーダさんと結婚するって言って聞かなくてね」
「はぁ……何だか呆れを通り越して可哀想ですね」
「可哀想なオツムの息子なのよ」
「そこまで言ってませんよ?」
「デニスがあまりにも聞く耳を持たないから、私ももう面倒くさくなっちゃって『好きにしなさい! 後悔しても自業自得だからね!』って言って、諦めたの」
「お義母さん。諦めたらそこでゲームオーバーでは?」
「だって疲れたのよ~。こっちの言葉が全然通じないんだから」
「まぁ、そうですよね……。それで、それから何がどうなって、デニッさんは私と見合い結婚することになったんですか?」
余談だが、エミリは結婚当初、5つ年上の夫の事をちゃんと「デニスさん」と呼んでいた。が、いつの間にやら「デニッさん」と呼ぶようになった。単純に言い易いからである。夫を呼ぶにしては若干雑な感じがしないでもないが、夫も姑も何も言わないので、構わないのだろう。