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僕がついた本当の嘘

作者: 歩織玲音


僕がついた本当の嘘



「10月も半ばというのにこの暑さは異常だよな」


引越し業者の責任者である男性は額の汗をぬぐいながらそう言った。


「しかも階段はキツイっすね」


もう一人の若く体格のいい従業員が、階段に養生シートをかけながらそう言うと、責任者は慌てて人差し指を立て、「シ―」とわかりやすいジェスチャーを取った。

いくら家賃が少し安いからといって、エレベーターなしの4階の部屋を選んだのはやはり失敗だったと一番後悔しているのは僕だ。


何も自ら引越しを望んだわけではない。

大家さんはよくしてくれたし、部屋も、場所も最高というわけではないが特に問題はなかった。

高校を卒業し、大学に通うために入居した初めての自分の城で、10年住んでいれば当然愛着も沸く。

大家さんのおばあちゃんが、体調を崩し入院してから、そのアパートが売却されるまではあっという間だった。

良かった事といえば大家側の都合ということで、いくらかの立退料が出されたことくらいだ。


「これで全部になります、ありがとうございました」


責任者の男性は帽子を取り、頭を下げ階段を勢いよく音を立て降りて行った。

僕は積まれた段ボールを眺めながら大きくため息をつき、まだカーテンもない窓から外を眺めた。周りには高い建物もなく、山が近く感じる。以外といい景色だ、自分に言い聞かせた。


いくら男一人暮らしの荷物といえども段ボールを開封して片付けていく作業はなかなか骨が折れる。ある程度の目途がついたのは時計の針が22時を少し廻ったところだった。

段ボールの数もあと少しとなったところで、この箱はどうしようかと少し悩んだ。


その箱は段ボールの半分くらいの大きさで、僕が高校を卒業して初めて一人暮らしを始める際、実家の部屋から当時自分の大事なものだけをほり込んで持ってきたものである。

明らかに段ボールのやれ具合が異なり、色もくすんでいる。

前のアパートでは結局開けることなく押し入れに置きっぱなしにしていたからなおさらだ。

何を入れたか思いだそうとしたが浮かばない。

少し余裕も出てきたので、懐かしさもあり開けてみることにした。


ほこりを手で払い、10年振りの封印を解くようにすっかり固着したガムテープをゆっくり外す。

単行本が数冊出てきた。

村上春樹の「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」、カフカの「変身」、ヘミングウェイの「老人と海」、あとは推理小説が数冊。パラパラとページをめくってみたがほとんど内容は覚えていいない。

小説を箱から取り出すと下には当時使っていたゲーム機のソフトが数本。

今使えるゲーム機自体手に入らないだろうが、当時の僕にとっては大切なものだったのだろう。懐かしい。

その次に出てきたのは小中高時代の卒業アルバムと輪ゴムで束ねた大量の写真。

アルバムを開きたい欲にかられたが、これを見だすとあっという間に時間を費やすと思い途中で自制した。


これだけかと思ったところ、段ボールの隅にピンポン玉くらいの新聞紙で包まれたものがあることに気づいた。

何これ?

記憶を張り巡らすが思い出せない。

新聞紙でくるまれたそれを取り出し、何重にもなった新聞紙をめくっていく。

中には小さな「石」が出てきた。

思い出した。

ここに入れていたんだ。


確か僕がもうすぐ幼稚園を卒業するという時期だったと思う。

その当時の他の記憶は全くないが、このことだけははっきりと覚えている。

僕の住んでいた家は京都の京北という京都市といっても市内からは車で一時間程かかる田んぼや畑に囲まれた田舎町である。

家は木造でかなり年季の入ったものだったが、広さだけは自慢できるものだった。

僕たち家族が住んでいる家と祖父の家は庭を挟んで2軒並んでいた。

祖母は僕が生まれる前に他界しており、病気がちな祖父に食事を届けるのが僕の役目だった。


「おじいちゃん、ばんごはんもってきたよ!」


いつも鍵のかかっていない木製の玄関の引き戸を開けて大きな声で呼びかけた。

祖父は玄関から入ってすぐの庭が見える部屋で、敷きっぱなしの布団で横になっている。

僕はお盆をひっくり返さないように、30センチ程ある玄関の土間を慎重に上がり、祖父の部屋へ向かう。


「きょうのごはんはなんでしょう」


僕はゆっくり歩きながらにこやかに声をかけた。


「なんやろな」


祖父のか細い声が返ってきた。

幼な心ながら、祖父の声で体調の良し悪しが分かるような気がした。


「きょうは、おじいちゃんのすきなおでん!」


祖父は2回ほど咳をして、


「それはたのしみやな」


かすれた声で返してくれた。

普段祖父は僕が持ってきたお盆を枕元において、布団に座り食べる。

僕は祖父が体を起こし、食べ始めるのを確認してから家に戻るのがルーチンだった。

祖父はゆっくりと体を起こし、布団の上に胡坐をかいた。

僕が帰ろうとすると、今まで聞いたことのないすごくしっかりした声で


「隆久ちょっと座りなさい」


僕はいつもと様子が違うことにとまどったが言われたようにお盆を少しずらし横に座った。

「悪いが、床の間にある金庫をあけて中にあるものを持ってきてくれへんか」

僕は言われた通り鍵のかかっていない金庫を開けた。



金庫の中は空っぽだったが、手を伸ばすと奥の方から新聞紙に包まれたものがあり、僕はそれを取り出した。


「おじいちゃん、これ?」


「そう、それや」


おじいちゃんはそう言いまた二回咳をした。

僕はそれをおじいちゃんに渡すと、ゆっくりと新聞紙をめくっていった。

中から出てきた小さな石を僕とおじいちゃんの間に置いた。


「隆久、今から大事な話をするけど、このことは誰にも言ったらあかんで。約束できるか?」


僕は少し間をおいて答えた。


「わかった、誰にも言わへん」


「隆久はいい子やから約束してくれる思ったで」


おじいちゃんはそう言うとしわくちゃな手で僕の頭を撫でてくれた。

そしてゆっくりと話し始めた。


「いいか、よう聞いてや。この石は不思議な力を持った石なんや。この石を身に着けて言った嘘が本当になるんや。ただし1回だけや」


僕はその時、どんな顔をして聞いていたのだろうか。


「そやけどな、その嘘というのは本当の気持ちと反対の嘘でないとあかんのやで。そうでないとその嘘は本当にならへん。おじいちゃんはこの石を使うことがなかったからこれを隆久に渡しておく。将来よく考えて使うんやで」


そう言っておじいちゃんはまた新聞紙にその石を時間をかけて包みなおした。

僕に手渡す時にこう付け加えた。


「それからもう一つ大切なことや。得るものと失うものがなければその嘘は本当にならないからな」


(えるものとうしなうもの)

意味はわからなかったがそのフレーズだけは耳から離れなかった。

おじいちゃんの病気が悪くなり、亡くなったのはそれから一月後だった。


あの時の「石」だ。

あの日僕はその新聞紙で包まれたそれをポケットに押し込み、家に帰り誰にも気づかれないように自分の机にそっとしまった。

当時おじいちゃんが言っていることを信じていたわけではないが、その雰囲気から何か特別な大切なものであることだけは感じていた。


嘘からでた真か、

とつぶやいて、少し違うなと自分の言葉を笑った。



恋人の樹里がアパートにやってきたのは翌日の早朝だった。

スマホの着信音で目が覚めた。

どうやら昨日はそのまま寝てしまったらしく体のあちこちが痛い。


「おはよう。今着いたけど部屋どこ?」


僕は今起きたことを悟られないように口調を整え

「おはよう。。4階の401号室」と伝えた。


「完全に寝起きやん。じゃあ部屋行くね」


いつもながら彼女を胡麻化すのは至難の業だ。

階段を駆け上がってきたのか、息を切らしながら樹里は勢いよく扉を開け飛び込んできた。


「これはいい運動になるな、毎日」


少し色落ちしたスリムなブルージーンズに真っ白なアノラックパーカー。

高価なものは身に着けないが、いつもセンスがいいなと思うのはスタイルがいいのも手伝っているのかもしれない。


「中も広いしいい部屋やん」


半分お愛想と思ったけど、気分は悪くない。


部屋に上がり込み、まだ寝ぼけている僕をよそに部屋の中を探索し始めた。

ダイニングキッチンと別に6畳の部屋が2部屋あることに驚いていた。

このアパートを選んだ一番の理由がそれだ。

一通り見終わると


「どうせ今起きたとこやろ。まずは朝ごはん作るわ。台所借りるね」


僕が返事をする前に、手に持っていた買い物袋から食材を取り出し鍋やフライパンを探し始めた。


「悪いな、いつも」

「なによ今更。どうせ昨日もろくに食べてへんのやろ。ちょっと時間かかるからシャワーでも浴びたら」


樹里にそう言われて昨日の昼からも食べていないことに気づくと、急に強烈な空腹に襲われた。


樹里とは付き合って8年になる。大学2年生の時、僕の一目ぼれだった。

同じクラスのヒデが同郷である樹里と三人で食事をしようと誘ってくれたのがきっかけだった。お互い28歳となるとそろそろ結婚の二文字が頭をよぎるが、なかなか踏み切れないでいる。お互い一人暮らしということもあり、この部屋で同棲からはじめてもいいかなとこっそり頭の中では考えている。


この部屋での初めての入浴を終わり、バスタオルで頭を拭きながら出てくると、まだ荷をほどいていなかった小さな折り畳み式テーブルの上に、出来立ての湯気を立てた料理が、空腹を刺激するには十分すぎるほどのいい香りを放ち並んでいた。


「お、うまそう」


僕はそういいながら卵焼きをひとつ手でつかみ口にほり込んだ。


「こら、お行儀わるいよ、ちゃんと座ってからね」


樹里は両手に持った味噌汁を運びながら口を尖らせた。

はじめは樹里の容姿に惹かれたのが、今では樹里のこんな家庭的なとこや、内面にどんどん惹かれていったことは自分でもよくわかっている。


「いただきます!」


卵焼きに、具がたくさんの味噌汁、焼き鮭、ほうれん草のおしたしと炊き立てのごはん。

僕はうまい、うまいと3膳のごはんと味噌汁を2杯平らげた。

これが毎日食べられたどんなに幸せだろうと心底思った。

樹里はあまり外食を好まない。

何かの記念日でもどちらかの家で樹里の手料理で祝うことが多い。

にぎやかな所が苦手というのもあるが、お互い一人暮らしなので家庭的な雰囲気を味わいたいというのが理由らしい。

はちきれそうなお腹をさすりながら、そろそろどこかのタイミングでプロポーズしないといけないな、洗い物をしている樹里の後姿を見つめながらそう思った。



引越しから2か月、コートが必要な季節に変わった頃、ようやく自分の棲家として落ち着きはじめた。部屋に樹里の荷物が徐々に増えていくのも嬉しかった。

しかし私生活とは反対に仕事は上手くいっていない。


営業成績は上がらず、ありえないミスも度々起こし、上司に怒鳴りつけらえる事も少なくない。そんなジレンマを感じながら、僕はいつからか毎日「あれ」をポケットに忍ばせるようになった。どこかのタイミングで一発逆転を狙ってやる。

僕には「あれ」がある。

仕事で自暴自棄になりそうな心を支えてくれるには十分な効果があった。


年末が近づき京都でその年初めて雪が舞った日のことだった。

営業車の中で携帯が鳴った。ディスプレイには登録されていない、電話番号が表示されている。誰だろうと思いながら僕は急いで車を道路脇に停車させ、ラジオのボリュームを下げ通話ボタンを押した。


「もしもし、(隆久さん)、の携帯でよろしかったでしょうか」


「はい、そうですが」


聞き覚えのない女性の声。


「こちらは京都市立病院です」


嫌な予感がした。

女性は続けて話し始めた。


「実は数時間前、若い女性がトラックに巻き込まれこちらの病院に緊急搬送されてきました」


僕は生唾をゴクリと飲み込んだ。


「所持品の中にあった携帯が幸いロックかかっておらず、発信履歴に(隆久君)が頻繁にあったので、親しい方という判断で取り急ぎご連絡を差し上げた次第です」


携帯を持つ手が小刻みに震える。


「で、樹里の容態はどうなんですか!」


僕は問い詰めるように大きな声で女性に言った。


「かなりの事故だったようで、今緊急手術をしていますが、意識はない状態です」


言葉が出なかった。


「そんな、、どうして樹里が、、」


「落ち着いてください。病院に来ていただくことは可能ですか?」



会いたい、会いたい、早く樹里に会いたい。

その一心で車のアクセルを踏み続けた。

病院に着き、聞いていた病棟にあるナースセンターに駆け込んだ。

どういうご関係ですか、と尋ねられ迷わず夫ですと答えた。

何度も会社から着信があるが僕は無視を続けた。


「まだ手術は終わっていませんので、待合室で待機してもらえますか」


樹里と年齢が同じくらいの背の高い看護師がそう言い、待合室に案内してくれた。

待合室へ向かう間、その看護師は僕に何か話かけようとしたが、僕の表情を見て唇を結んだ。


「きっと時間がかかると思います。他にご家族おられたら連絡をしてあげてください」


それだけ告げると深く頭を下げ看護師は部屋を出ていった。

ご家族と言われても僕は樹里の実家の連絡先は知らない。

8年も付き合っていたのにそんなことも知らない自分を蔑んだ。

僕は樹里のことなんでも分かっているようで、本当は何もわかってないんじゃないかという思いが沸々と湧いてきて涙が出そうになった。

頭はひどく混乱していたが、とにかくご両親に伝えなければいけない。


ヒデだ、同郷の彼なら実家への連絡手段があるかもしれない、そう思い僕はヒデに電話をかけた。


ヒデは今、東京で働いていた。

僕に、落ち着け、落ち着けと何度も言いながら、連絡は俺が何とかするからお前は樹里の傍にいてやってくれと鼻をすすりながらそう言った。

岡山でも市内から離れた町なので、病院に着くにはまだまだ時間がかかるだろう。

俺もすぐにそっちに行くから樹里を頼む、と言い電話を切った。



かなりの時間僕は机と椅子しかない無機質な待合室で祈り続けた。

その間も、勤会社からしつこく電話があったがどうでもよかった。

ふいにドアが軽くノックされ、ドクターと看護師が静かにドアを開いた。

二人は失礼しますと声をかけ僕の前に腰掛けた。


「手術を担当した森田と申します。経過についてお知らせに参りました」


心臓の鼓動が恐ろしく早くなる。


「結論から申し上げます。患者さんは非常に危険な状態です。」


ある程度のことは予測していたが、目の前でドクターに言われたショックは想像以上に大きかった。看護師の哀れむような眼が僕の不安をさらに煽った。


「できる限りの手は尽くしましたがしばらくは予断を許さない状態です。一命を取り留めたとしても意識が戻る保証はありません」


「どういう意味ですか?」


僕は手のひらに爪の跡がつくほど握りこぶしに力を入れ聞いた。


「いわゆる植物状態になる可能性があるということです。あくまで仮の話ですが」


そう言うとドクター森田は、視線を僕の目から何もない机に移した。


「お気持ち的に大丈夫であれば、今患者さんにお会いされますか?」


看護師の言葉に僕は「はい、会わせてください」と即答した。

集中室へ向かう途中、何人かの看護師とすれ違ったが、お気の毒にとの声が聞こえてくるようだった。


「出られたらまたナースセンターにお声をかけてください」


深々と頭を下げ看護師は踵を返した。



僕は静かに集中室の扉を開けた。

そこには、たくさんのチューブで繋がれた痛々しい姿で樹里がベッドに横たわっていた。


「樹里‥」


僕は膝から崩れ落ちそうになるのを何とか持ちこたえ、絞り出すように彼女の名前を呼んだ。もちろんなんの反応もない。

聞こえるのは繋がれた先にある機械の冷たい音だけである。

ゆっくりと彼女に近づき、震える手で頬を撫で、手を握った。握りしめた。


「樹里‥」


今度は少しはっきりとした口調で声をかけた。

僕はベッドの横にあった丸い椅子に腰かけ、樹里の手をもう一度握りしめた。

本当に悲しいときは涙も出ないって誰かが言っていたことを思い出した。

どれだけの時間そうしていたかわからない。

長い時間なのか、短い時間なのか。異次元を彷徨っている感覚。

僕は視線を窓の外にやった。昼に降り始めた雪は勢いを増し、少しづつ積もってきているようだ。


そしてそっと上着のポケットに手を入れた。

「あれ」は確かに入っている。


知らせを聞いたときからとっくに覚悟は決めていた。


大きく何度も何度も深呼吸をして気持ちを落ちたかせた。

そしてあのフレーズを思い受かべた。


(えるものとうしなうもの‥)


今こそ使うべき時だと。

両手で樹里の手を握りしめながらゆっくり彼女に語りかける。


「樹里、よく聞いてくれ。」


握っている手がひどく汗ばんでいる。

もう一度大きく深呼吸をした。


「こんな時に言うのは何だけど」


僕は切り出した。これに賭けるしかない。


「僕は・・樹里が嫌いになったんだ‥本当に大嫌いなんだ‥いつも束縛されてもううんざりしていたんだ‥ごはんも全然美味しくないし‥それから‥気の利かないところも全部、全部‥だから、だから、意識が戻ったら、金輪際僕に関わらないでほしい。もう…僕と別れてください‥」


僕は声を絞り出すようにそう言った。そしてもう一度樹里の手を強く握りしめた。

樹里のおでこに僕の大粒の涙が零れ落ちた。

一瞬、樹里の瞼が動いた気がしたが、あふれる涙でそれ以上確認することはできなかった。


(おじいちゃん、これでいいよね。

全部本当の気持ちと反対のことを言ったよ、だからあれは起こるよね。

樹里は助かるよね。

また元気になるよね。

おじいちゃん、お願い、樹里を助けて、お願い、お願い、、)


僕は天を仰ぎ嗚咽し続けた。


雪は本降りに変わり、外は白銀の世界に変わっていた。




あの日から四カ月。

僕は樹里がその後どうなったのか知らない。

関係していた人間からの連絡も音沙汰なしだった。

もうこの世界では僕と樹里の関係はなかったことになっているのかもしれない。

ならば樹里は助かっているはず、という考えが頭の中で堂々巡りをしていた。


実は仕事も失った。


規律を非常に大切にする会社において、あの時、僕が一切会社からの連絡を無視し続けてことが決定打になった。

上司から、すまんが辞表を出してくれと言われ、僕は目の前で辞表を書き荷物をまとめて会社を去った。後悔はしていない。

今は適当な時間に起床し、スマホの求人サイトを眺めぼんやり過ごす日々だ。

今日も日曜日だというのに何の予定もない。


少しずつ寒さも和らぎ、外では鳥の声が聞こえてくるようになった。

鳥のさえずりを聞きながらぼんやりしていると、鳥の鳴き声に相槌を打つようにゆっくりゆっくり階段を上ってくる音が聞こえた。


誰かさんの駆け上がってくる音とは正反対やな、と彼女の事を思い出し、少し泣きそうになりながら笑った。

不思議なことにその足音は僕の部屋の前で止まった。

コンコンとノックの音。


「はい」


僕は飛び起き、玄関の扉を少し開け、足音の主を確認し卒倒した。



そこに立っていたのはまぎれもなく彼女だった。


「もう全然きてくれへんけん、来たわ」


言葉が出てない。

足元から頭まで何度も見直した。


「幽霊ちゃうよ」


「え、なんで、もう大丈夫なん?でもなんで?え」


樹里は混乱している僕を見てにっこり笑った。


「まだ足痛いけん入っていい?」


僕はごめん、ごめんと言いながら樹里の腕をとり部屋に招き入れた。


「ところで、なんで岡山弁なん?」


「あ、お母さんがずっといてくれたから、なんか戻ったみたい」


不可解な現象が起こってないと分かり少し安心した。


「私2か月間、生死をさまよっていたけど、奇跡的に回復したんよ。先生も驚いてはった」


京都弁に戻り、あの時の樹里だと思った瞬間、僕は樹里を抱きしめていた。

そして僕は樹里に抱きついたまま子供のように大声で泣きじゃくった。

その間、樹里は僕の頭をずっと撫で続けてくれた。

ひとしきり泣いた後、樹里がタイミングを見計らって口を開いた。


「実は私、もう捨てられたと思ったんよ。でもどうしても確かめたくて今日は覚悟して来たの」


確かにあの時、僕は樹里に別れを告げた、それ以外に樹里を助ける方法を知らなかったから。


「ごめん、本当はずっとずっと会いたかった。でも何があったかは今は話せないんだ。いつか話せる時が来たら必ず話すから」


「じゃあ捨てられた訳じゃないよね?」


僕はまた声を出すと泣きそうになるので、大きく何度も何度も頷いた。

今度は樹里が僕に抱きつき、声をあげて泣いた。


(得るものと失うもの)


頭にこびり付いていたこのフレーズ。

僕は、樹里の命を得て、二人の関係を失うことを選んだ。

しかしどちらも失っていないではないか。

まさかこれから起きるのか。

そう思うと強烈な不安が押し寄せてきた。


「どうしたん、急に暗い顔して」


「いや、なんでもない。あまりにも幸せすぎてちょっと怖くなったかな」


「なんよそれ、そうそう、そう言えば病院の看護師さんから聞いたよ。事故にあった日、受付に飛び込んできて、夫です!て言ったらしいね、あとで聞いて大笑いしたわ」


僕は思わず膝を叩いた、それだ!


確かにあの時、ポケットには「あれ」は入っていた。

そうだ、その嘘が先だった。

そしてその延長線にある、会社からの連絡を意図的に遮断した結果仕事を失った。


(得るものと失うもの)


辻褄が合うような気がした。


合ってほしかった。


しかしよくよく考えると、どうしても合点がいかない点がある。


夫ですと言った嘘は、本当の気持ちと反対の嘘にあたるのか。


今の現実は「あれ」の力のおかげなのだろうか。それとも自然の流れなのか。

もしかるすと、おじいちゃんは僕に自信を持たすために嘘をつき「あれ」を渡したのだろうか。いくら考えても答えは見つからない。


でももういい。


目の前に樹里がいてくれるのは紛れもない事実なのだから。


僕にはもう迷いはない。


「なあ樹里、今度一緒に行ってほしいとこがあるんやけど」


僕は、背筋を伸ばし、はっきりとした口調でそう言った。


「どこいくん?」


「俺の実家とおじいちゃんの墓参り」


樹里は少し驚いた表情を見せた後、涙を浮かべ、はい、と小さく頷いた。


鳥のさえずりは一段と大きくなり、二人の未来を祝福してくれているかのようだった。


  


―完―



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