国外追放された愛しのお嬢様が特大の爆弾をわたしに託したので、盛大に汚い花火をぶち上げてやろうと思います
一頭立ての小さな箱馬車、安物の服。付き従うのは御者台に座る男ひとりで、侍女のひとりもついては行かない。
「泣かないで、ちよ」
そんな不遇を押し付けられたと言うのに、お嬢様が気遣うのはご自身ではなく見送りに出たわたしで。
ああ、こんなにも素晴らしいお方の旅立ちだと言うのに、見送りがわたしひとりなんて。
悔しさにますます涙があふれてしまって、それを見たお嬢様がおろおろと手巾を取り出す。
「ああ、そんなに泣いては可愛いお顔が腫れてしまうでしょうに。なにが悲しいの?これからは拭ってあげられなくなるのだから、悲しいことはわたくしに預けてしまってちょうだいな」
「悲しくて泣いているのではありません。ちよは、ちよは悔しいのです」
使用人風情が袖を握ってすがっても、お嬢様は嫌な顔ひとつしない。
孤児院で虐められていたわたしを、引き取って救ってくれたのはお嬢様だった。クズと呼ばれていたわたしに、ちよと言う名前を与えてくれたのもお嬢様だった。
幼い頃に亡くなった妹の名から取ったのだと、使用人ながら妹のように可愛がって、礼儀作法も教養も、みんな教えてくれた。
だからわたしは一等使用人の資格を得られて、公爵家の正式な使用人になれたのだが、それがこんなところで仇となるなんて。
「ちよもお嬢様に、ついて行けたら良いのに」
御者台の男を恨めしく見てしまう。
わたしと同じく孤児院から貰われ、千代菊と言う名だったと言うお嬢様の妹君の名を分けられた子。きくはお嬢様の再三の勧めを固辞し続けたからずっと三等使用人で、お嬢様の私的な使用人のままだった。
「公爵家のものはなにひとつ持ち出すなとお達しなのだもの、許してちょうだい」
「その命が横暴です。お嬢様は、公爵家のご息女であらせられると言うのに」
「お家は無事で、わたくしの個人的な資産まで取り上げられなかっただけでも、感謝すべきことよ。お上の怒りを買ったのですから、わたくしは死罪で、お家取り潰しでもおかしくはなかったわ」
その、お上のお怒りが筋違いで、それが悔しいのだと、言ってもお嬢様は困った顔をするだけなのだろう。
「陛下からお口添え賜ったお陰で、五体満足で国を出られるの。ねぇ、ちよ、理由はどうあれ、わたくし、やっと橋を渡れるのよ。あなたを置いて行くことになるのは残念だけれど、ようやく夢が叶うの」
「今まで、何度お嬢様が頼んでも、叶えなかったくせに」
「そうね。こんなことにならなければ、きっとわたくしは一生、橋を渡ることは出来なかったわ。あなたを置いて夢を叶えるわたくしを、あなたは恨んで良いのよ」
この方は、どこまで、優しいのか。
「ちよは、お嬢様を恨んだり、致しません!」
「そうね。そうね。可愛いちよ。優しいちよ。それならばあなたに、ひとつお願いをしても良いかしら」
「お嬢様の願いならば、なんなりと」
頷いたわたしに、お嬢様は片手に納まるほどの、綺麗な石を取り出した。水晶玉のようにまん丸で、けれど、色はお嬢様の瞳のように鮮やかな紅の石。
ほんのりと暖かいそれは、触れていると心が晴れるような心地がする。
「これは……?」
「わたくしが幼少より肌身離さず持っていた守り石の、ひとつです。一度きりですが、割ればこの国をすっかり浄化出来るでしょう」
「!」
その力の強さから皇族を差し置いて斎王代として神宮の巫を任せられて来たお嬢様。そのせいで国外はおろか都外へ出ることすら許されず、この国と外つ国を繋ぐ唯一の架け橋を、渡ることの出来なかったお嬢様。
そのお嬢様の力を、浴び続けた石。
「こんなものが、あったなら」
あの、醜い女に踊らされる者どもの目を、今すぐにでも覚まさせることが出来るはず。
「だからあなたに託すのよ、ちよ」
お嬢様がそっと、白魚のような指でわたしの頬を拭う。
「わたくしは橋を渡ったら、そのまま旅を続けて遠くへ行くわ。追っ手の届かない、ずっとずっと遠くまで。伝があるの。ちよも覚えているでしょう?西域の神子姫さま。あの方に匿って頂くの」
「あの、お綺麗な方ですか?」
「そうよ。あの土地は神子姫さまのお陰で水には困らないけれど、浄化と実りがまだ足りないそうなの。だからわたくしを、歓迎して下さると言っているのよ。十二分に土地が潤ったら、一緒に世界を見て回りましょうと、神子姫さまは誘って下さったわ」
そんなこと、今までであれば許されなかっただろう。もし、今わたしがこの石を割ってもだ。
だが、今ならお嬢様は国外追放の身。
そのあいだに遥か西域まで落ち延びて、そこで国籍を得たならば。まして西域の現人神と名高い、神子姫様の庇護を得たならば。
たとえ祖国がどこであろうと、簡単には連れ戻せなくなるだろう。
なにせ始めにお嬢様を追放したのはお上で、お嬢様はそれに従って、生きるために仕方なく国外の数少ない知り合いを頼るのだ。
悪いのはお上。それをお嬢様が新たな居場所を築いてから、やっぱりなしなんて、周りの国々が許さないはずだ。
「陛下はわかっていて、わたくしを国外追放にとお口添え下さったのだと思うの。わたくしに少しの旅行許可ももぎ取れないことを、ずっと、ずっと謝って下さっていた方だから」
この国の天皇は現人神とされているが、今実権を握るのはお上、幕府だ。
天皇陛下は希望を述べることこそ出来るが、それを通すも通さないもお上の判断次第。
だから陛下が如何に口添えしても、お嬢様は都の城郭すら越えられなかった。
死罪にと声高に叫ばれていたお嬢様の処遇を、長年斎王代を務め上げた者を死罪にしては神罰が下る、ろくに外を出歩いたこともない娘など、国を出ればのたれ死ぬしかないのだから、国外追放にすれば良いと言って、変えさせたのは陛下だ。
どんなに実権を失くそうと、現人神は現人神。神罰が下ると言われれば、みな竦み上がって死罪にと言う声はたち消えた。
同様に、今まで神宮に真摯に仕えて来た家だと、公爵家の取り潰しを止めたのも陛下だ。
思えば陛下は語学が達者だと理由を付けて、なにかと国賓との会合へお嬢様を召し上げていた。それもまた、せめて外つ国との関わりを持てるようにと言う、陛下の心遣いだったのだろう。
「お嬢様から見て、神子姫様は信頼に足る方ですか?」
「ええ。明確な根拠を言えなくて申し訳ないけれど、わかるの。あの方はわたくしの味方よ」
「わかりました」
西域の神子姫様と、お嬢様が会ったのは、あの方がこの国に滞在された数日間だけ。
けれどその短い期間で打ち解けたおふたりは、離れて後も陛下を経由して手紙のやり取りを続けていた。
陛下から手紙を受け取ったときの、お嬢様の嬉しそうな顔をよく覚えている。
だから。
「お嬢様が西域まで逃げ延びたら、陛下にお手紙を下さいませ。それを待って、ちよはこの石を割りましょう」
「ありがとう、ちよ」
でも。
「ですから、ちよが役目を果たして、すべて見届け終えた、その暁には」
石を持つ手を胸に抱えて、握り締める。
「ちよもこの国を出て、お嬢様を追っても良いですか?」
お嬢様は目を見開いて、わたしの頬を手で覆った。
「西域は遠いわ、ちよ。あなたは一等使用人。このまま行けば、特等使用人にだってなれるでしょう。この国にいれば、なに不自由なく暮らせるのよ」
その通りだ。お嬢様が、そうなるように育ててくれたから。
「それでも、ちよは、お嬢様のおそばにいたいのですっ!!」
ぼろぼろと泣きながら訴えれば、お嬢様は困ったように笑って、そっと抱き締めてくれた。
「わかったわ」
その言葉に安堵して、また涙がこぼれ落ちた。
「わたくしだけお願いを聞いて貰うのは、不公平だものね。あなたが安全に旅出来るように、陛下にお願いするわ」
「ありがとう、ございます……っ!」
わたしのぐちゃぐちゃな顔を、お嬢様が笑って手巾で拭ってくれる。
「待っているから、必ずまた、元気な顔を見せてちょうだいね」
「はい!」
馬車に乗り込むお嬢様を手伝って、御者台のきくへと目を向ける。
「お嬢様をお願いしますね、きく」
「言われなくても」
愛想のない返事だが、きくがどれだけお嬢様を思い、その実力を鍛えているかを知っているので不満はない。
「お達者で」
片手に石を握り締め、わたしは見えなくなるまで、馬車に手を振り続けた。
ё ё ё ё ё ё
お嬢様の期待に応えようと、程なくしてわたしは特等使用人の資格を取った。皇族に仕えることすら許される、最上級の使用人資格。
孤児院出のわたしが得られるなかでは、頂点の資格だろう。
それからすぐに、天皇陛下の側仕えにとのお声が掛かる。
皇族の側仕えの輩出は、元の主家にとっても名誉なこと。それだけ質の高いものを雇い育てていると言うことだからだ。
快く送り出されて、わたしは陛下の側仕えになる。
「ちづは無事、旅を続けているらしい」
陛下は優しく微笑んで、わたしにこっそり教えてくれた。
「西域は遠い。たどり着くまでまだしばらく掛かるだろう。だが、もう少しで、しえの用意した護衛と合流出来るはずだ。そうすれば、ずっと安全で快適な旅になるからね」
「しえ……神子姫様ですか?」
「ああ。しえなら必ず、ちづを守ってくれるよ。本当は、私が守ってあげられれば良かったのだけれど」
今上陛下はまだ若い。お嬢様のいつつ歳上で、幼い頃はお嬢様を妃にと言う声もあったそうだ。お嬢様が斎王代になったことで、なくなった話らしいけれど。
今は別の方を中宮に迎えている陛下だけれど、本当はお嬢様と添い遂げたかったのかもしれない。
この方はお嬢様に何度も謝っていたけれど、国に、身分に囚われているのは、この方とて同じなのだ。
それでもお嬢様の幸せを願い、送り出してくれた陛下の、なんとお優しいことだろうか。
そしてこんなにもお優しい陛下を、そしてお嬢様を、蔑ろにする者どもの、なんと愚かで浅ましいことか。
「主上は十二分に、千鶴様を守って下さいました。あなた様のお言葉がなければ、千鶴様は橋をひと目見ることすら出来ずに処刑されていたでしょう。千鶴様と神子姫様を出会わせて、交流を続けさせて下さったのも主上です」
「あれは失敗だったかもしれないと、思っていたけれど」
陛下は苦笑して、わたしの頭をなでた。
「しえがあんなに、ちづを気に入るとは思っていなかった。結果としてちづを救う手立てになったけれど、どうしても悔しく思ってしまうな」
「立場の近いご友人が出来て、千鶴様は大変お喜びでした」
わたしの答えに、なぜか陛下はおかしそうに笑っていた。
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陛下はとてもお優しくて、そんな方に仕える方々だからか、陛下の側仕えの方々も驚くほど優しかった。お嬢様のいない公爵家よりも、ずっと働きやすい。
ほかの場所ではどこにいても聞こえて来る、お嬢様への中傷も、ここでは少しも聞こえない。
「これでも皇だからね」
なぜこのお方に実権がなく、あんな愚かな者どもが幅を利かせているのかと不思議に思う。
ただ、陛下がお嬢様を庇うせいで、陛下まで悪く言われているのは心苦しかった。
陛下はお嬢様に誑かされたのだなどと、根も葉もない噂さえ流れている。
そのせいかは定かではないが、陛下は中宮ともほかの妃とも疎遠で、未だにお子のひとりもいらっしゃらない。
「逃げたいとは、思いませんか?」
お嬢様の約束があるわたしとは違い、このお方にはなんの支えもない。
どうして真っ直ぐに、立ち続けていられるのだろう。
「私はこの国の皇だからね」
優しいお方はどこまでも優しい顔で微笑む。
「私が逃げ出してしまっては、無辜の民が苦しむことになってしまう。民の生活を守るためならば、私ひとりの苦しみなど、軽いものだよ」
「でも……」
「ちよは、ちづに似て優しいね」
陛下がわたしをなでる手は、お嬢様の手のように優しい。
お子のいらっしゃらない陛下は、わたしを実の子のように可愛がっているのだと、古参の側仕えは言っていた。
畏れ多いことだし、父と子ほどには、歳は離れていないけれど。
「そうだね。もしも国が私を要らないと言って、新しい皇が立ったならば、私の役目もなくなる。そうしたら、国を捨てて逃げ出してしまおうか」
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それから十数ヵ月ののち、待ちに待った報せが届く。
お嬢様が、西域に着いたと言う報せだ。
お嬢様が旅立ってから、実に二年が経っていた。
そんなに西域は遠いのかと驚くわたしに、陛下は陸路で向かったからだと教えてくれた。
西域までは飛び地のように大きな島や大陸があって、陸路で向かう場合にはそれぞれを渡るための橋を経由しなければならない為、遠回りになるそうだ。すべてや一部を船で行けば、もっと短い期間で着くらしい。
「では、なぜ千鶴様は陸路で?」
個人的な資産しか持ち出せなかったとは言え、斎王代を務めた謝礼金はかなりの額だ。衣装や祭具に使ったり、家に納めたりしていたとしても、旅費に困ることはないはず。
「ちづは特別だから、海を船で渡るとさらわれてしまいかねないんだ。ちよは海路で行くと良い。危険もあるが、早く着くからね」
十分な路銀も護衛も用意しようと言う陛下を、置いて行くのに躊躇ってしまう。
陛下の周りは、すぐ近くは前のまま穏やかだが、その外縁がどうにもキナ臭い。
石を割れば、そのキナ臭さも浄化されるのだろうけれど。
そうしたらこのひとは、ひとりぼっち、国と言う牢獄に囚われたままになってしまう。
「……あの、」
実のところ、わたしは、二年前お嬢様にあんな無礼をした挙げ句、繰り返し暴言を吐き続けたこの国の愚かな者どもを、芥子粒ほどだって許してはいない。
たとえどんな理由があろうとも、お嬢様への仕打ちはチャラにならない。わたしは獲物を横取りされた羆のように執念深いのだ。
陛下は無辜の民と言ったが、この国の民の多くは会ったこともないお嬢様を貶したことをわたしは知っている。陛下のことを貶していることも。そんな国に、このお優しいお方は勿体ない。
「もう少ししたら、陛下は退位を迫られます、よね?」
陛下にはまだお子がいらっしゃらない。お子を宿した妃もいない。お渡りがないのだ。お子が出来ようはずもない。
だが、将軍家と縁続きの娘を母に持つ、陛下の腹違いの弟君は、将軍家の娘との間にお子を授かっている。
次代を授かると言う重要な役目を全う出来ない陛下より、弟君の方が天皇に相応しいなどと、烏滸がましいことを宣う声は、わたしの耳にも届いていた。
あの、醜い女の夫を天皇に、子を皇太子にと、言っているのだ。
愚かしいことと思うが、陛下の弟君が皇の、すなわち神の血をひいていることに違いはない。代わりたいと言うなら代わらせてやれば良いと思う。そうすれば、陛下は皇の座から解放されるのだ。
畏れ多いと思いながらも、そっと陛下の手を取る。
「天皇なんて、やめて、ちよと一緒に、逃げません、か?」
二年前。わたしはお嬢様を救えなかった。
お嬢様を救ったのは陛下と、きくと、神子姫様だった。
その、代わりに救うわけではないが。
お嬢様を救ってくれたお方だから、苦しい場所に放置はしたくなかった。
それにこのお方を奪うことは、きっとなによりこの国の、愚かな者どもへの復讐になる。
道があって、手段があるのだから。
陛下が渡してくれた、お嬢様からの手紙を握り締める。
誰かに盗み見られたときの対策か、手紙は西域の文字で書かれていた。
遠く西域の文字など、読み書き出来る者はほとんどいない。けれどわたしはお嬢様に習って知っている。そして、目の前にいる陛下も。
陛下は十の頃に三年ほど遊学をしており、その際に西域を訪れている。遊学の傍ら神子姫様と親しくなって、だから神子姫様は遥か遠いこの国に来たのだ。
「西域は常夏の気候で、今は砂漠も多いけれど、千鶴様が着いてから、緑が増え始めたそうです。色とりどりの草花や鳥が綺麗で、これからもっと、豊かになると。陛下が訪れたときより、ずっと。だから、一緒に、見に行きませんか?」
国の外に出たいと願うお嬢様に、陛下はよく遊学した思い出を話してくれた。旅を語る陛下の瞳が、旅を希うお嬢様の瞳と同じ願望を滲ませていたことを、横にいたわたしは見て知っていた。
このお方だって本当は、国を出たいのだ。
お上は天皇が国を空けることを、絶対に許しはしないけれど。
「これ以上私の側にいれば、あなたが危険な目に遭うかもしれないよ、ちよ」
「ちよは、怒っているのです、ずっと」
手紙を懐にしまい、両手で陛下の手を握る。
「ずっとずっと、怒っているのです。ただ、逃げるだけでは、足りません」
「ちよ……?」
「お優しいお嬢様を貶めたこと。お優しい主上を苦しめること。ちよから、お嬢様を奪ったこと。ちよは、怒っているのです。ですから、主上、万仁、様」
お嬢様にすがったときと違い、涙はこぼれない。拭ってくれるお嬢様が、いないから。
この国は、わたしからお嬢様を奪い、今また、陛下を、この優しいお方を、奪おうとしているのだ。
「ちよに、奪われては、貰えませんか?」
「えっ、いや、それは」
戸惑った様子の陛下の後ろから、ふふっと笑う声が聞こえる。
「そんな可愛らしい子から求婚されて、無下にしては男が廃りますよ」
古参の側仕えだ。
「ちょっと、やえさん、」
「ち、ちよは子供じゃありません!じゃない、ひぇっ、あの、求婚なんて、そんなつもりじゃ。西域には、お嬢様も、いますから」
ぴゃっと手を離してしどろもどろになるわたしを、寄って来た古参の側仕えがなでてくれる。
ここの方々はよくわたしをなでるけれど、もしかして子供扱いされているのだろうか。
わたしはもう十八で、来年には西域へ旅立ったときのお嬢様の歳に追い付くのに。
「でも、私は」
「良いじゃないですか」
二年前より皺の随分増えた古参の側仕えが、優しく目を細めて言う。彼女は公家の出で、陛下の乳母でもある方だ。
「先の陛下が崩御なされてから、十二年。お父君の在位期間を超えました。お役目は果たされたと思いますよ」
「やえさん……」
「ちよさんがこんなに頑張って伝えてくれたのですから、陛下も素直にご自身の気持ちをお答え遊ばせ」
さあ、と側仕えに促されて、陛下はためらいがちに口を開いた。
ё ё ё ё ё ё
ほどなくして、陛下は玉座を追われた。
退位などと生易しいものではない、ほとんど簒奪に近い手段で。
離宮に移され、幽閉された陛下。側仕えはみな離され、もとの地位に見合わぬ役職に配置換えされた。
愚かな。なんと、愚かな。
覚悟を決めたわたしを後押ししたのは、散り散りにされた陛下の、否、万仁様の側仕えの方々だった。
ほかの多くの側仕えたちと違い、孤児院出のわたしは、卑しい成り上がりがとより低い地位に落とされた。
その、わたしを、みな持てる伝すべてで万仁様の許へと導いてくれる。
思えば側仕えで共にあった一年余り、万仁様はもちろん、同僚たちもみな誰ひとり、わたしを孤児だからと蔑むことはなかった。
「こんなことをすれば、あなたが、」
「わたくしの子は七つの頃に、流行り病で死んでしまったの」
宮中では許しなき者は持てぬはずの刀をわたしに差し出しながら、古参の側仕えが言う。
「今となってはあの方が、わたくしの唯一の子。あの子まで、みすみす死なせるなど、許せるものですか。けれどこの老体では、あの子を救えもしない。だからあなたたちに託すのです。ちよさん、どうかあの子に、自由を」
二年間、肌身離さず持っていた石を握り締め、頷いた。
手を伸ばして、刀を受け取る。
「お嬢様との約束があるのでこの身に代えてもとは言いません。ですが、あなたと過ごした時に誓って、わたしの最善を」
「ありがとう。頼みましたよ」
「さあ、行きますよ、ちよさん」
「我ら、特等使用人を侮ったこと、後悔させましょう」
直接的な助力を申し出てくれた四人と共に、離宮へと忍び込む。
彼らは下級貴族や地方豪族の子。わたしほどではないが地位を落とされ、蔑まれた。家に絶縁を申し出て、国を棄てる覚悟の上で来ている。
監視の兵は数多くいたが、難なく目的のお方の許へとたどり着いた。
木格子の座敷牢。窓は塞がれ、外の光は入らない。
これではまるで、罪人のようではないか。
「主上っ」
辛うじて枷ははめられていない。が、ろくな世話もされなかったのだろう。身なりは薄汚れ、数日振りに見た顔はずいぶんとやつれて見えた。
「お迎えが遅れて申し訳ありません」
「ちよ。みなも、よく無事で。無茶をさせてすまない」
このお方は、こんなときまで我が身ではなく下の者を心配するのか。
「主上、ちよ、謝罪はあとです。早く」
「主上、こちらに着替えを。脱いだ服を貰えますか」
ひとりが担いでいた荷物を降ろす。中から取り出したのは万仁様と同じ背格好の死体だ。目鼻立ちもよく似ている。
「これは、」
「数日前に病で死んだ者です。彼を替え玉に。主上は賊に斬り殺されたことに致します」
事実、賊を入れていますからと、元側仕えは笑う。
「誰も殺してはおりません。が、この離宮にいた者は全員気絶させ縛り上げて、庭に山積みにしてあります。あとは我々が逃げ出し、火を放つだけです」
「さ、主上、お早く。気付かれて軍が動き出せば面倒です」
驚いている万仁様を、半ば追い剥ぎの勢いで着替えさせ、わたしの手を握らせる元側仕えたち。
「わたしたちは後始末をしてから追いますから、ちよと主上は先に」
「露払いは私が」
「後ろは僕が守りましょう。さ、行きますよ」
てきぱきと指示を与えられ、あれよと言う間に離宮を抜け出す。
一年以上、いろいろ教わっても来たはずだけれど、追い付ける気がしない。
それでも、彼らが万仁様の手を託したのは、わたしにだ。
夕闇に紛れて都を抜け、閉門ギリギリに城郭をくぐり抜ける。振り向けば、離宮の辺りから煙が上がっていた。
待っていた馬車に押し込められて、都を離れる。
「残ったおふたりは、」
「別の者が逃がす手はずです。私たちは、一刻も早く国外へ」
救い様のない愚か者の考えることは予測が出来ませんからと、元側仕えは顔をしかめた。
「手荒な真似をして申し訳ありません、主上。罰はあとで、如何様にも」
「私はもう、皇ではないよ」
手首をさすって、万仁様は首を振った。座敷牢から抜け出す間際、万仁様はそこにはめられていた腕輪を外し、残った元側仕えに託していた。
それが皇族の証の腕輪であることを、知らぬ者はここにはいない。
「良かったのですか」
「ちよが私を、迎えに来てくれたから」
「主じょ、」
す、と指先で、万仁様がわたしの言葉を止める。
「主上ではもうないよ。万仁と言う名前も、目立ちそうだね。そうだな、八千代とでも名乗ろうか。やえさんとちよに、分けて貰って」
「八千代、様?」
「うん」
頷いて、万仁様、否、八千代様は笑う。それは、まるで重荷が下りたような、初めて見る、あどけない笑顔だった。
ё ё ё ё ё ё
急ぎ走るわたしたちの馬車を追い抜いて、上皇崩御の報は国中を駆け抜けた。
どう、情報を歪めたのか、上皇万仁陛下は乱心し、自ら離宮に火を放って自害したと報じられているらしい。
邪魔物が排除出来たと、新天皇とその回りは、有頂天のようだ。
国民たちも気狂いの上皇がいなくなったと、口々に喜んでいる。
聞こえ来る、八千代様の耳を塞ぎたくなるような戯言たち。
きっとお嬢様の旅路も、国を出るまではこんな雑音に満ちていたのだろう。
けれど元側仕えたちは、さすがの特等使用人振りだった。
「この情報が広まると、早晩橋の封鎖が行われかねませんね」
「ええ。隣国の上層部は、甘くありませんから」
冷静に話し合い、先を急ぐと告げた。今までは夜は休んでいたが、馬を変えつつ夜通し走るそうだ。明日には国境に架かる橋を越えると伝えられた。
八千代様の手を取って、微笑む。
「ちよは国の外に出るの、初めてです」
「そうだったね」
「お嬢様はお手紙で、初めて食べる美味しい食べ物がたくさんあったと。美味しいもの、実は少し楽しみです」
そんなことをしている場合ではないと、怒るものはいなかった。
「急ぎの旅だが、食事は必要だからね。美味しいものを、たくさん食べよう」
「案内は任せて下さい。さすがに西域近くまでは詳しくありませんが、その手前まででしたら詳しいですよ。ちよさんは、甘めの味付けが好きでしたね」
「果物やお菓子も、国では食べられないものがたくさんありますよ。移動のお供に買いましょうね」
「ありがとうございます」
微笑むわたしの頬を、八千代様は優しくなでた。
「ちよの笑顔は癒されるね。得難い宝だ」
今まで現人神として、個人の望みを圧し込めて生きて来た八千代様。やっと自由を得るこれからを、心安く、楽しく過ごして欲しい。
わたしの笑顔が癒しになると言うなら、いくらでも差し出そう。
それが、我が子や妹を愛でるような気持ちであっても構わない。
この方はもう、十二分にひとに尽くし、ほんの一年と少しで、あふれるほどの優しさをわたしに与えてくれたのだから。
「ちよが宝なんて、お嬢様や八千代様の方がずっと、得難き宝ですよ。でも、こんな笑顔で良いなら、好きなだけ」
「ああ」
目を細めた八千代様の目が優しくて、なんだか泣きたくなってしまった。
ё ё ё ё ё ё
「ちよさん」
国境間際、元側仕えのひとりがわたしを呼ぶ。
「はい」
「それ、ですが」
わたしの握り締めた石を指差して言う。
「国境で割ったとして、国中に効果が出るのですか?」
「それは」
お嬢様はおそらく、都で割ることを想定していた。それを、八千代様を逃がすために、ここまで割らずに持って来てしまった。
この石の浄化が、どれほどのものなのか、わたしにはわからない。
「実は、こんなものがありまして」
どこか茶目っ気をにじませて、元側仕えの男性はわたしに筒を見せた。
「これは?」
「花火の筒です」
「はなび」
どうして突然、花火?
「天皇即位式典用に用意されていたものを、拝借して来ました」
いちばん大きいものですよと、いと爽やかに言う。
「え、と?」
「国境から、花火玉に貼り付けて飛ばしませんか?景気良く」
僕、花火師の資格を昔持っていたので。
言った彼は、くるりと八千代様を振り向く。
「高ーく打ち上げて、暴風で吹き飛ばせば、それなりに飛距離を稼げますよね」
「まあ、それくらいなら出来るね」
「それなら思いっきり、汚い花火を打ち上げましょう!」
ぐ、と拳を握って言った彼を見て改めて、八千代様の件が腹に据えかねていたのはわたしだけではなかったのだと思い知った。
ё ё ё ё ё ё
そしてついにたどり着いた国境。橋を渡る手続きから抜け出す元側仕えの男性に、ついて行く。
危ないと言われたけれど、これはわたしがお嬢様から託されたお願い。誰かに預けたりせず、わたし自身がまっとうしなければ気が済まない。
彼は人気のない開けた場所にやって来ると、筒を地面に固定した。
「本当は花火筒で打ち上げても、3町くらいしか上がらないんです。風で飛ばしてもそこまで流されないし、距離を稼ぐ前に花火玉が破裂してしまう」
わたしの目の前で、巨大な花火玉に石を貼り付けながら言う。
「でも、今日はすめらみことが味方なので」
これで良いですか?と差し出された花火玉に、しっかりと石が固定されているのを確認して頷く。
「神風が我らの企みを後押しして下さいます。ちゃんと、ちよさんの願い通りに破裂しますよ」
花火筒に花火玉を入れ込み、点火する。
ヒューっと笛を鳴らしながら、花火玉は飛び上がった。高く高く。どこまでも。
そして風に運ばれて、都の方へと飛んで行く。
「さ、ちよさん、破裂する前に橋を渡りますよ」
元側仕えの男性は、わたしの手を取り駆け出した。
追い付いた馬車は、ちょうど手続きを終えたところで。
わたしたちが乗り込めば、すぐさま走り出す。
その間も、ヒューっと笛の音は聞こえ続けていた。
なにごとかと止まる馬車の間を縫って、わたしたちの馬車は進む。
八千代様とふたり、離れて行く祖国を見る。
花火玉はもうどこにあるのか見えなくて。けれどなぜか、笛の音だけ耳に届いていた。
「都はあちらだよ」
そう、八千代様が指差したそのとき。
その、指差した空の高いところで、芥子粒のように火花が散った。
花火は綺麗なものだけれど、その芥子粒はひどく汚く見えた。
遅れて、ド、と言う破裂音。
それから。
「お嬢様」
芥子粒とは比べ物にならない、大きな紅の光の花が広がって、広がって、国を覆う。
「なんて、きれい」
光は馬車近くまで届いて、思わず手を伸ばしたわたしを、八千代様がそっと支える。
伸ばした手が触れる前に、光はきらきらと散って。
けれど指先に、温かいものが。懐かしい、大好きな、お嬢様の気配が、感じられた。
ああ、わたしは、お嬢様の願いを、叶えられたのか。
すべての光が消えるのと、馬車が橋を渡りきるのが、ほぼ同時だった。
ё ё ё ё ё ё
国境を越えても、安心とは行かない。
いつ、八千代様が存命と知られ、国から追っ手がかかるとも知れないのだ。
手配されていた船で、お嬢様のいる西域まで、海路をひた進む。
それでも八千代様は、補給のために立ち寄る港町を、わたしと観光して下さって。
「ちよさんは、八千代様と一緒にめいっぱい楽しむのがお仕事ですよ」
同行する元側仕えのひとりは、そんな風にわたしと八千代様を送り出す。
「さあ、案内は任せて下さいね」
もうひとりは、笑って案内してくれて。
そうして観光を楽しんで戻ると、残っていたひとりが補給もなにもすっかり終えているのだ。
「八千代様、ちよさん、楽しかったですか?」
「ええ、とても」
「楽しかったです」
「それは良かった。では、行きましょうか」
同じ特等使用人のはずなのに、やっぱり追い付ける気がしない。
「ちよは」
「ちよさんには」
わたしも役に立ちたいと思うのに、残っていた彼は笑って首を振る。
「誰にも代われない仕事をして貰っていますからね。いちばんの働きですよ」
「そんなこと」
「ありますよ。ねぇ?」
案内してくれた彼女は、大きく頷く。
「ちよさんが笑っている姿を見る八千代様の、幸せそうなこと。あの顔は、ちよさんだからさせられる顔ですよ。ありがとうございます」
八千代様の周りは、いつでもわたしに優しい。まるで、八千代様の優しさが、伝染したかのように。
旅のあいだ、優しさに触れるたび、八千代様を、この、やさしいひとを、なんとしても幸せにしなくてはと思う。
そのためにも、西域へ。安全な場所、八千代様の愛するお嬢様の、いる場所へ。
ё ё ё ё ё ё
海路を急いだからだろうか。
わたしたちの旅路はお嬢様の旅よりずっと短い時間で終わった。
たどり着いた西域は、極彩色の世界で、その色鮮やかな世界は、八千代様すら驚かせた。
「私が来たときはもっと、緑の乏しい土地だった。一年と少しでこれか。やっぱりすごいね、ちづは」
しみじみと、八千代様が呟く。
さくりと、土を踏む音が耳に届いた。
じわ、と下瞼が熱くなる。
振り向いて、それがやっとだった。
「ぉじょ、っま」
足が震えて歩けない。喉が詰まって喋れない。だと言うのに、涙ばかりが先走って溢れ出す。
せめてもと、伸ばした震える両手が、そっと温かい手に包まれる。
「あらあら、またそんなに泣いて。相変わらず泣き虫ね、ちよは」
ずっと、ずうっと、聞きたかった声。
優しく頬に触れる手巾に、ますます涙が止まらなくなる。
「おじょ、さま、あい、たかっ、っ」
手を引かれ、恋しかった、大好きな気配に包まれる。
「わたくしも会いたかったわ。ちよ、頑張ってくれてありがとう」
震える手で、ちからいっぱい、大好きなひとにしがみ付く。
「うぅー」
もはや言葉も出ず、唸るわたしの背を、お嬢様が優しくなでた。
「……ちよが泣くのを、初めて見た」
背後から投げられた声に、背をなでる手が止まる。
「そうなの?わたくしが、泣かないでと言ったからかしら。わたくしが拭ってあげられるまで、我慢してくれたのね」
我慢させてしまった、ではなく、我慢してくれたと、そう言ってくれるひとだから、わたしはお嬢様が大好きなのだ。
「チィ」
聞き慣れない、低く穏やかな声が、不意に掛かる。
「その子が、話していた子?」
「シエル。そうよ、わたくしの大事な子よ」
「そう。挨拶をしたいけれど、今は無理かしら」
少しかすれたような、けれど、優しく響くとても耳に心地好い声だった。
男声だと思うけれど、きくではない。いったい、誰の声だろうか。
「しえ、久しいね」
「久し振り、元気そうで良かった、カズ、いや、名は変えたのだったかしら」
「ああ、今は八千代と名乗っている」
八千代様の声に、おや、と思う。八千代様が、しえ、と呼ぶその方は、西域の神子姫様だったはず。お嬢様と同じくらい美しい、天女のような、女性。
つい涙も止まり、顔を上げたわたしに、お嬢様が神子姫さまよと示したのは。
「男、性?」
天女のように美しく繊細な顔立ちの、けれど八千代様よりずっと長身の、どう見ても男性だった。
「え、神子、姫、様?えぇ?」
頭を疑問符でいっぱいにするわたしを、優しくなでてお嬢様が言う。
「わたくしも驚いたわ。だって再会して初めて、シエルが男性だと教えられましたもの」
「ええっ?や、八千代様は、ご存知だったのですか?」
「ごめんね」
謝罪を口にすると言うことは、知っていたのだろう。
「だから本当は、ちづを行かせて良いものか迷ったのだけれど、でも、ちづをいちばん守ってくれるのは、しえだから仕方なく」
「今さら後悔しても返さないよ。チィはワタクシと添い遂げるの」
自然な動きでお嬢様の肩を抱いた神子姫様が、そう言ってお嬢様の頭に頭を寄せる。
お嬢様がそれを拒む様子はなくて。
「驚かせてごめんなさい。許してちょうだいね、ちよ。神子姫さまが本当は男性であることは、民には秘密なの。だから、ちよにも伝えられなくて」
「お嬢、様は、神子姫様の、ことが?」
「愛していると、言っていただいたの」
答えるお嬢様は、見たことのない表情をしていた。
とても愛らしく、見ているとどきどきしてしまう表情。
「大切に、宝物にしていただいたの」
お嬢様は、お優しい方だ。
とびきりの想いを差し出されて、恩もあって。その捧げられた気持ちを、無下に出来る方ではない。
まして女性と誤解していたとは言え、もともと神子姫様を好ましく、慕わしく思っていたのだから。
でも。
でも。
「それでは、八千代様は」
八千代様の想いは、どうなるのか。
自分のもとを離れても、無事でいてくれるならと送り出し、幸せを祈っていた、八千代様の心は。
「ちづ」
そんなわたしの言葉を遮るように、八千代様がお嬢様を呼ばう。
「お願いを聞いて」
「わたくしに聞けることかしら」
「ちづにしか頼めないことだよ」
視線の先で八千代様は、穏やかな目をしていた。思わずお嬢様の腕を抜け、八千代様へと一歩、歩み寄る。
「なあに?」
「もし、ちよが頷いてくれたなら」
「ちよ?」「わたし?」
疑問の声はお嬢様と揃った。
「そう。ちよが頷いてくれたなら。ちづの大事な家族、ちよを、私の家族に下さい」
瞬間、世界から音が消えた。
音の無い世界で、呆然と、こちらへ歩み寄る八千代様を見つめる。
わたしの許へ歩み寄った八千代様が跪いて、そ、とわたしの右手を取る。
「退位を迫られたとき、このまま死んでも構わないと思って、でも、あなたの顔が浮かんだ。あなたと旅を、してみたかったと。でも、無理だろうと思っていたのに、あなたは私の手を取りに来てくれた。あなたとの旅路は楽しく、世界が百倍にも素晴らしく見えた」
「そん、な、こと」
「あなたは私が、ちづの恩人だからと助けてくれただけかもしれない。けれど私にとってはあなたはもう、自分の命よりも掛け替えの無いもの。あなたがいない人生など、考えられない。どうか私と、生きてくれませんか、ちよ」
わたしの手を包む八千代様の大きな手。その上に、お嬢様の美しい手が重なる。
「わたくしは、まだ是と言っておりません」
き、と一瞥、八千代様を睨んだあとで、お嬢様は瞳を和ませてわたしを見る。
「素直な気持ちを言って良いのよ、ちよ。わたくしはあなたがどんな道を選んでも、それを支えるわ」
「お嬢様」
「わたくしの愛しい、可愛いちよ。あなたの望むままに、選んで良いの」
「ありがとうございます」
寄り添ってくれるお嬢様の温もりを感じながら、跪いた八千代様を見下ろす。
いつも通りの優しげな、けれど、いつもと異なりどこか緊張のにじむ表情。
いつも国を、民を、思い、自分は少しもかえりみない方。自分の望みは二よりも三よりもずっとあとで、ひとに尽くすばかりのひと。
そんな方が、やっと欲しいと手を伸ばすのが、わたしだなんて、畏れ多いことだ。
けれど。
「ちよの、いちばんは、お嬢さまです」
待って、待って、待ち続けて、やっとまた会えた、大切なひと。わたしの、生きる理由。
「誰よりも、なによりも、自分よりも、お嬢さまが大切です。離れたく、ありません。お嬢さまが、許して下さる限り、ずっと、おそばに」
それがわたしの望み。そのために、ここまで来た。
でも、
「そんな、ちよでも」
八千代様を愛しいと、幸せにしたいと、思ったのも、確かなのだ。
だから。
「八千代様、あなたを、いちばんには出来ないちよでも、あなたは許して下さいますか」
どちらも欲しいなんてわがままが許されるなら、わたしはこの手を取りたい。
手を包む、八千代様の手が、力を増す。
「どんなあなたでも、笑顔を見せてくれるなら、それで良い。私はあなたの、笑顔が好きだから」
「わかりました」
とても、とても畏れ多いことだけれど。
それで、八千代様が幸せになると言うならば。
「ちよと一緒に生きましょう。八千代様」
手を引かれ、立ち上がった八千代様の大きな身体に抱き締められた。頭をなでられることは多かったけれど、抱き締められるのは初めてだったなと思いながら、その背に手を伸ばす。
触れ合った身体はお嬢さまのように柔らかくはなく、けれどとても、温かくて優しかった。
ё ё ё ё ё ё
それからしばらくは西域の神子姫様の宮で過ごした。日に日に豊かになって行く土地を見るのは楽しく、旅せずとも目まぐるしく変わる景色に目を奪われてばかりだった。
お嬢様は、国にいた頃とは雲泥の差に大事に扱われていて。でも、わたしときくを、変わらずそばに置いてくれて。
お嬢様、きく、八千代様、それから神子姫様。大切なもの全部そろった生活は、とても幸せだった。
それが、代償の上に成り立つものだとしても。
ё ё ё ё ё ё
「おちびさん、おいで」
神子姫様は、わたしをおちびさんと呼ぶ。はじめは否定していたけれど、お嬢さまが小さくて可愛い子だと語って聞かせていたのが原因だと聞いて、否定しなくなった。
「はい、なんでしょう」
「倒幕が成ったよ」
「とうばく……?」
神子姫様は手元の書簡を眺めて、嗤っていた。ぞくりと臓腑が冷えるような、恐ろしい笑みだった。
「キミの故郷の話。将軍が討たれ、今上帝も捕らえられたと」
「将軍が?どうして」
「おちびさんの手柄ね」
神子姫様が手を伸ばし、わたしの頭をなでた。
「おちびさんがチィの力を打ち上げて、それでみな、我に返ったの。でも、チィもヤチももういない。国は荒れ、生活は苦しくなる。そうなれば、どうなるかしら?辛く苦しいとき、ヒトはどうする?」
辛く苦しいとき、でも、それがどうしようもないとき。
「誰かを、恨みます」
「正解」
ご機嫌に笑っているはずの神子姫様なのに、どうしてか底冷えする恐怖を覚える。
「誰かに責任を取らせたい。自分が悪いと、思いたくない。さて、では、悪いのは誰かしら?」
「あの、女」
「そうね。世界を騙したあの女。それから、チィを追い出した幕府。それと?」
「八千代様を、追い落とした、今上」
「ご明察。諸悪の根元で怒りが収まれば良かったけれど、そうはならなかった。国を傾けた幕府も今上帝も要らないと、民は判断した」
良かったけれどなんて、思ってもいないだろうに、神子姫様は言った。
「きっと煽動したね、ヤチの側近だったものが」
一年間、共に働いた方々の顔が浮かぶ。
ああ。
「これから、国は、どうなると思いますか?」
「さて、まともな為政者が立てば、栄えはしないにしろ存続するのではないかしら。良い斎王が、見付かると良いね?」
「まともな為政者も良い斎王も、いなければ?」
神子姫様が嗤う。愉しそうに。
「荒れるよ、とても。不毛の土地になるかもしれない。たくさんの民が、苦しんで死ぬことになるね」
そんなことを、この方は、お嬢様でも八千代様でもなく、この、わたしに言うのだ。
ああ。ああ!
なんて頼もしい方。
「そうですか」
答えたわたしもきっと、神子姫様に負けないくらい、恐ろしい笑みを浮かべているだろう。お嬢様や八千代様には、とても見せられない。
「ところでね、おちびさん」
「なんでしょう、神子姫様」
くしゃりと握り潰した書簡を篝火にくべて、神子姫様が別の書簡の束を手にする。
「大義名分が出来たから、そろそろチィとヤチの願いを叶えようと思うの」
「大義名分、ですか?どのような?」
「巡礼だよ」
パラリと遊戯の札のように書簡の束を広げて、こんなに嘆願があると神子姫様は語った。
「この土地の栄えが伝わったのでしょうね。痩せた土地、乾いた土地に困るものから、来て欲しいとたくさん書簡が来る。ワタクシと、チィを求めてね」
ふふ、と、今度は柔らかく幸せそうに、神子姫様が微笑む。
「みんなチィを歓迎して、チィを大切にしてくれるよ。旅するたびに、チィの名声が上がり、みんなにチィが愛されるようになる。ねぇ、幸せね、おちびさん」
「はい」
頷きを返せば、神子姫様はそれにと突然、笑顔の温度を下げる。
「見せ付けられるよ。愚かにも捨てたものが、どれほどの宝だったのか」
ああほんとうに、この方は頼もしい。
わたしと同じように怒り、そして、少しも、許していないのだ。
この方が味方であるならば、必ず、お嬢様も八千代様も幸せになれるだろう。
わたしは満面の笑みで、神子姫様に答えた。
「まずはどこに行きましょうか。お嬢様に、相談しましょう」
お嬢様に託された爆弾は、この手を離れても。
何度だって、いくらでも、報復の花火は打ち上げてやるのだ。
拙いお話をお読み頂きありがとうございました