第二章 雇い主
ドレイクは重厚な鉄の扉をくぐった。
デス・スターでしかお目にかかれないような無機質な扉だ。ドレイクの接近を感知して、音もなくひとりでに開いた。この扉を見ると、いつもゴミ捨て場を思い出すから不思議だ。
「お呼びですか」
吸いなおしのタバコをくわえながら、ドレイクは藪から棒に挨拶した。
「やめろドレイク、ここは禁煙だ」
ドレイクはすぐにタバコを隠し、スキットルに持ち替えた。
この声はウラオー博士ではない。雇い主だ。たとえ耳元で段ボールを引き裂くような音で喋られようとも、機嫌を損ねるわけにはいかない。
「ヤニがダメなら酒か、忌々しい」
雇い主はイライラしたように机を殴りつけた。
その左手は、黒いレザーグローブに包まれている。
「どちらも人生を楽しむためのスパイスです。私にとっては」
「どちらも毒だ。誰にとっても」
雇い主はグローブをはめていない右手で、顔の古傷をかいた。
どうやら、機嫌は損ねたらしい。
ドレイクは気にせずスキットルを傾けた。そのまま部屋の中をぐるりと見渡した。
ここはウラオー博士の執務室だ。研究室と違い、個人的な、こぢんまりとした空間だ。
とはいえ、中央に、パソコンやら計器やら、ドレイクにはわからない機材を所狭しと乗せられた机がある。先ほど雇い主が殴りつけたのはこの机だ。試験官が二本倒れ、中の液体が机の端からポタポタと落ちている。どう控えめに見積もっても、なにか生き物の血だろうと思われた。
ウラオー博士は、あぁいた。地震に怯える小猫のように、隅っこの方で縮こまっている。ちょうど、執務スペースと休憩スペースの区切りの位置だ。アコーディオンカーテンをぎゅっと握りしめている。気持ちはまぁ、わかる。
我らが雇い主は存分に恐ろしい見た目をしている。
短い白髪をブロックの形に整え、同じく白いもみあげが、これまた白い顎髭と繋がっている。肌の色も死人のように真っ白だから、照明の具合によっては髪との境目がよくわからない。
タカのように鋭い目は、左の方が完全に白濁している。かと思えば、右の方が怪しげな光を灯していて消えない。深く、多く刻まれたシワの中に、一つだけ、ひどく大きなものが左頬に走っている。歴戦の猛者であるドレイクには、それが自然にできたシワでないことがわかる。
この風貌で、年がら年中オオカミの毛皮のようなコートに身を包み、襟元を黒いマフラーで埋めているのだから、余計に恐ろしい。今、暖房がきちんと効ているこの部屋の中にあっても、コートの前をぴっちりと隙間なく閉めている。
対するウラオー博士は、良くも悪くも科学者丸出しの男だ。
よれよれの白衣の、その胸ポケットに、何本もペンをぶっさしていて汚い。インクが染みだしてヘドロみたいな色になっている。左胸につけている名札が薬剤でふやけていて汚い。申請して、新しいのをもらおうという考えに至らないのか。剃る気のない口髭や、頭頂部だけ禿げ上がった頭も汚い。何日も風呂に入っていないのが丸わかりだ。肌の色が日本人とは思えないくらいくすんでいて汚い。何日も風呂に――二度は言うまい。雇い主と隣り合わせになれば、オセロの駒くらい白黒はっきりするだろう。大きな鉤鼻も、だるだるにたるんで常に眠たそうな二重まぶたも、腫れ上がったたらこ唇も汚い。よくこんな男からホタルのような美少女が生まれてきたもんだと、ドレイクはいつも感心する。
「博士、どうも」
「あう、あぅあぅ……」
ウラオー博士は呪文を唱えた。
「博士もいかがですか?一口。気分が楽になりますよ」
ドレイクはスキットルを傾けてみせたが、博士は右手の指を四本まとめて食べながら、ぶつくさつぶやくだけだった。
ドレイクだから聞き取れたが、
「いや、私はけっこう――」
と言った後に、宇宙の成り立ちについてアップテンポに語っていたような気がする。彼の後ろに銀河が見えた。ドレイクは博士を二度見した。
性格も、言いたいことをズバリ言ってのけるホタルとは正反対だ。あの肝っ玉少女は、自分が正しいと思えば、兵士たちから恐れられているドレイクにすら、臆せず歯向かってくると言うのに。
たしか、ホタルの母親は大変に美人だったと聞いたことがある。あとものすごい高飛車だったとか。そして、ホタルが生まれてすぐに蒸発したとも。
大方、高給取りだったウラオー博士の財産が目的だったのだろう。よくある話だ。現に今、ホタルは父親に預けられたまま、母親に会えないでいる。
さて、そのホタルだが、薄暗い施設の中を、忍者のように抜き足差し足進んでいた。
床も壁もむき出しの鉄板だったから、足音を立てないように細心の注意を払う必要があった。今はローファーのつま先をバレリーナのようにたて、ミジンコほどの歩幅で歩いている。
こんな歩き方を強いられているのは、廊下の壁面に、英語で〝立入禁止〟と書かれた張り紙がしてあるからだ。百メートルおきに一枚貼ってある。
大佐が(大佐がやったのかどうかは議論の余地が残るとして)森林火災を消火した後、その背中が施設の中へと消えるやいなや、ピストルを鳴らされた小学生のように駆け出したのだ。
ちなみに、三歩進んだところで踏みとどまり、大佐が姿を消した扉と、ベンチの上のバスケットをそれぞれ二度見し、トイレを我慢する時より激しく体をゆすり、結局、バスケットの中から筆箱とスケッチブックを救い出した。
彼らだけは放っておけなかったのだ。今は右の脇に挟んで持ち歩いている。
大佐はどんどん奥の方へ歩いて行き、そのうち、ひとりでに開く鉄の扉をくぐった。
慌てて走ったが、残念無念。鉄の扉は、ゴマに念じなければ開かない洞窟のように固く閉ざされてしまった。
ホタルは仕方なく――お行儀が悪いのは分かっていたが――膝立ちになって、扉に耳を押し当てた。
〔忌々しい。酔っぱらってるだけだろう〕
〔一理ありますね。それで?被検体が暴れたとお聞きしましたが〕
大佐の声だ。誰かと喋っている。
〔いや、その問題は解決した〕
大佐の相手は、ザラザラとしたいやな声をしている。扉の向こうからでもわかる。ビンにつめたハエのように、胸の奥をしっちゃかめっちゃかにかき回す声色だ。
〔はい……とてもすぴーでぃに――〕
次に聞こえてきたのは、男にしてはいやに甲高い声だ。
それが自分の父親のものだと、ホタルはすぐに気付いた。
その、父親の声が言った。
〔――骨を砕く装置を――〕
ホタルはびっくりして、跳ね返ったテニスボールのように扉から離れた。
「より強い制裁を与えることで、彼女は大人しくなった。これでしばらく、脱走しようなどという気は起こさないはずだ」
博士が何かを言いかけていたが、雇い主が遮った。
何をしでかしたのか、知らない方が幸せだとドレイクは判断した。
「それは――あぁー、よかった。脱走がない。みんなハッピー」
「問題はそこではない」
雇い主は体を前後にゆすりながら言った。痛むのだろう、膝をさすっている。
「幻獣だ」
またその話題か。
ドレイクは辟易していた。が、しかし、雇い主の鷹のような目がこちらに向けられる。酒はひとまずお預けだ。
「ドレイク、貴様はここに幻獣がいると言った。だから我々はここに来たんだ!どうだ?姿を現すのは地球上にいる生き物ばかりだ。新種の雑草一つ見つからん!」
「以前申し上げた通りです。あの扉の向こうにしか、彼らは棲んでいない」
「開錠を急がせろ」
「守り人が固く閉ざしています」
「処刑の数を増やせ、脅しをかけるんだ」
「森の中に逃げ込んだ連中が」
「探せぇ!」
雇い主はとうとう吠えた。
「探せばいいだろう!貴様には!そのための部隊を与えてある!」
ウラオー博士は往年のハリウッドヒロインのような悲鳴を上げ、奥に引っ込んでしまった。
ドレイクはすました顔で両手を上げ、降参の意を示した。
「目下、全力を挙げて捜索中です。ですが、隊を分散させると襲われます。あえて殺されない。どうも、踊らされている気が」
「ならばダインスレイヴの開発を急ぐことだ。ウラオー博士、私の気はそう長くない」
怒りの矛先がウラオー博士に向いた。目を突いて串刺しにしてしまうのでは、と思うほどの剣幕で、雇い主は博士を指さした。
博士は宇宙に逃げ場を求めた。
ドレイクはここぞとばかりにアルコールを補充した。
「私が提示した期間はあと二週間だ。しかし、それは開錠までの時間ではない」
「半年後には、世にも珍しい幻獣たちのサーカスが!」
ドレイクは口元を拭いながら相槌を打った。
「その通り、アメリカでだ。こんな汚い、猿どもの棲みかではなく!いいか、友好、非友好は問わない。扉を開け」
雇い主は当てつけのように杖で床を叩きながら、自動ドアをくぐって出て行った。
「ひゃっ!ごめんなさい!」
ホタルは慌てて道を開けた。
鋼鉄の扉が突然開き、杖をついた老人が飛び出してきたのだ。
脇に挟んでいた筆箱とスケッチブックが、バタバタと落ちた。
幸いにも、老人は杖に全体重を預けることで事なきを得た。杖を握る左手にだけなぜか、黒いレザーグローブをしていた。
「ウラオー博士の娘さんだね」
老人はごろごろと喉奥を鳴らしながらしゃべった。喉か肺か、どちらかが悪そうだ。
「は、はい……」
ホタルは恥ずかしくなって、スカートを何度もなでつけた。老人が、値踏みするようにジロジロと見てきたからだ。
老人は登山者かと見間違うほどに厚着をしていたが、それはとても身なりのいいものであった。だから偉い人なのだとホタルは思った。
「夏休みで、父が無理や……連れてきてくれて……」
合点がいったとばかりに老人は頷いた。険しいながらにも温和な表情だった。
「あぁ、施設見学はどうだね、楽しいかね」
「はい……えっと、その、とてもよくしていただいて……」
「ドレイクから聞いている。よく施設を抜け出して、ここいらの植生を調べているようだね」
老人は右手で顔をかきながら言った。その視線は、床に置き去りにされた写生セットに注がれていた。
「えっと……すみません。日本だと、あまりよく見ないものが多くて」
胃の裏側をなでられたようにヒヤリとした。すぐにスケッチブックと巻筆箱を回収した。
大佐がいつもお茶らけているせいで忘れてしまっていたが、ここはれっきとした軍事施設だ。軍では、規律を守れない者は銃殺刑だときいたことがある。
「そうか。私は植物には明るくないのだが……どうかね?この辺りは、やはり中国のものが多いのかね?」
「あっ、いえ、そんなことはありません。たしかに、洞窟をくぐるまではそうですけど、この辺りに生えてるものは、なんというか、そう、古今東西、色んな種類の植物が自生してます。例えば、デザートサンフラワーは、アメリカ西部原産で、福建省には本来自生してないはずなんです。でもここではなんの問題もなく生きている……それだけじゃないんです。日本のサクラとか、南アフリカのプロテアもある……同じ場所で群生しているなんて信じられません。まるで誰かが、一年中花が咲くように植えたみたいに――」
人間という生き物は、自分の好きなものについてなら無限に時を重ねられる生物だ。
同級生諸子よりは礼儀正しいと自負していたホタルであっても、そのあふれ出る愛を止めることができなかった。
老人の白濁した目が、廊下の先へ注がれているのを見て、これが社交辞令なのだと気付いた。
「――すみません」
ホタルはうつむいて、小さい声でつぶやいた。
「好奇心旺盛なのはいいことだ。だが、立ち入り禁止のエリアに入ってはいけない。兵士たちには、見覚えのないものは撃てと命じているからね」
老人は持っていた杖で、廊下の壁をコンコン、と叩いた。
怒るわけでも、いら立つわけでもなく、事務的だった。淡々としていた。それが逆に、決して破ってはならない掟なのだとホタルに印象付けた。
彼の言うことは〝絶対〟なのだと。
「はい、すみません……」
ホタルはおずおずと腰をかがめ、来た道を戻った。
「いい夏休みになることを祈っているよ」
振り返ると、老人が両手で杖を握りしめ、笑っていた。しかし、白濁した目に生気はなく、グローブをしていない右手には、血管が浮き出るほど力がこもっていた。
底知れぬ執念のようなものを感じた。怨念にも近い何かが。
にじみ出る狂気が、老人と周囲の情景とを、決して混ざることのない絵の具のように隔てていた。
『私がその力を引き継ごう!君を!殺して!』
「っう――」
強烈な目まいがして、ホタルはその場でよろめいた。まるで、こめかみに釘を打ち込まれたような衝撃だった。
廊下の壁に手をついて、激しく息をついた。
老人の方を振り返ると、眉間にしわを寄せ、訝しむような視線でこちらを見ていた。
ホタルは怖くなって、足早にその場を去った。
廊下を曲がったところで、全力で走った。
たしかに見えたのだ。
真っ白な光が瞬いた後、霧が晴れるように、映画のワンシーンを思い描くように、頭の中に情景が流れた。
老人が、巨大な銃器のようなものを抱え、血まみれになった人を撃つのが。
撃たれた人は、壁に上半身を預け、倒れていた。動けないでいた。
右肘が反対方向に曲がっていた。
虫の息だった。
その人は、ホタルのよく知る人物だった。
燃えるような、赤髪の少女――