夢泳病
・天界音楽 様の『今からファンアート』企画参加作品です。
「夏の夜の夢、金魚が泳ぐ」
作成:加純 様
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地元に帰ってきて、ふらふらと歩いてると、昔のことが頭に浮かんでは消えて、良くない。
思い出したいことも思い出したくもないことも一緒になって、海の底からわらわらと浮かぶ泡沫のように、昇り、揺れて、爆ぜて、消える。
年の瀬の真夜中、中学校のプールの水は奇妙な程に透明だけれど寒々しい。
21世紀も始まってからもう10年が過ぎて、私たちがこのプールで泳いでいた頃から随分時間が経ってしまった。
それなのに公共施設のセキュリティ意識は前の年号の時のままで、ちょっと柵を跨ぐだけでプールサイドにまで辿り着けてしまう。
冬のプールの水は冷たい。
プールサイドで腰かけて、水の中へと手を伸ばし、わかりきっていたことを確認する。
前にここで同じようにした時、水は冷たかったけれど、残暑のせいでまだ温さもあった。
9月の終わり、私はクラスメートの女の子と一緒で、彼女は水着を着て、水の中にいた。
私はプールサイドで、夏の制服を着たまま、そんな彼女を見ていた。
秋の始まりを思わせる夜の空気に冷える自分の体を温めようと、自分の腕を抱きながら。
ついさっき触れたばかりの水が手を介して腕について、温まるどころかより冷え込んでしまって、ちょっと震えていたかもしれない。
その子は泳ぐのがすごく上手な子だった。
普段はどちらかというと目立たないのに、水着を見て水の中に入ると、急に人目を引くようになる子だった。
それほど力のあるように見えない細い腕を水面から綺麗に伸ばして、優雅に水の中を進んでいく。
中学校指定の、誰が着ても様にならないような水着を身に着けた彼女の姿は、亜熱帯の海で踊るように泳ぐ色とりどりの魚みたいにきらきらとしていた。
その上、水の中の彼女は私が覚えている限りいつも、同じプールに入っている誰よりも泳ぎが早かった。
最初はその姿にあまり褒められない類の視線を送っていた男の子たちも、彼女が水から上がる頃には少し眩しいものを見るようにしながら、彼女への熱狂的な称賛を口にしたものだった。
その称賛は決して大袈裟なものではなく、彼女は本当の意味で、競泳界の世界的なスター候補だったのだ。
大会で優勝するのは当たり前で、14歳にも関わらず、大の大人が出せないような国内新記録を続けざまに出していたのだから、それも自然なことだった。
そのせいで、スポンサー企業がどうとか、そんな話をする大人が彼女の周りをうろうろしていた。
同級生の女の子たちは、体格のいい年上の男に囲まれている彼女を見かける度に、憧れ混じりの嫉妬を、条件反射的に口にした。
そこには大した悪意なんてなかったけれど、思春期の彼女はそれをどうしたらいいのかわからなかったらしい。
元々、目立たないおとなしい子だった彼女は、プールの外ではますます目立たないように振る舞うようになった。
私は、彼女と仲が良かったわけではなかったけれど、彼女のそんな様子の変化は何となく目で追っていた。
それは決して、自分が彼女と同じように特別だったからというわけではない、
今も昔も、私は彼女と比べ物にならないくらいに普通だ。
あえて言えば、なるべく目立たないように過ごそうとしているところがちょっと似ていたかもしれないが、その程度だ。
正直に言って、彼女と少し話してみたいと思っていた自分がいたことは認めるけれど、実際に話をする機会に恵まれるだなんて、思ってもみなかった、
夏休みの後、修学旅行のグループ分けをする時、彼女は休んでいた。
そのせいで、彼女はどのグループにも所属することができないまま、修学旅行の準備が進んでしまっていた。
グループ分けから10日くらいした後、どことなく日焼けした彼女が登校してきて、お昼の授業が始まる前に、学年主任の先生と、担任の先生と廊下の片隅で話していた。
確か、お昼の後の授業は移動教室がある科目か何かだったのだろう。
私は教科書を抱えてその前をたまたま通りかかっただけだったのだが、担任に呼び止められた。
その後の話がどんなものだったかよく覚えていないのだが、話が終わった時、彼女は私と一緒の班で、修学旅行の自由行動を過ごすことになっていた。
生徒に責任を押し付けてそそくさと逃げていく先生たちの背中を目で追いながら、彼女は私に言った。
「ごめんね、なんか。
もうグループ、決まっちゃってたのに。」
私はそれに何と答えたのか、全然思い出せない。
修学旅行の出発日はその5日後だったらしいが、その時の私はそれも思い出せなかったので、多分何かを思い出すというのが、私は元々苦手なのだろう。
5日間の間、彼女の修学旅行の参加を実現すべく先生方が慌ただしく準備をし、それに併せて彼女の取り巻きの大人たちがやはり慌ただしく学校を出入りした。
私は何となく楽しくなって、わくわくとか、うきうきとか、そういう擬音語で表現される感情で満たされながら修学旅行までの日を過ごした。
だから、当日になって、集合時刻に彼女が現れなかった時、すごく心配になったし、その後慌ただしそうにしだした先生から、突然彼女が来れなくなったと聞いて、とてもがっかりした気分になった。
同じグループの子たちから、そんなにが気落ちするほどのことかと指摘されるくらいに。
修学旅行は長崎で、私はグループのみんなと一緒に楽しく過ごしたはずだ。
でも、その実、旅行中のことはあんまりよく覚えていない。
こういうのは同じグループの子たちに失礼で、良くない。
でも覚えていないものは覚えていないのだ。
浦上大聖堂やグラバー邸の前で撮影したグループ写真の中に私の姿を見つけて、とても奇妙な気分になる。
グループの他の子たちと一緒になって屈託なくカメラに向かって微笑む14歳の中学生は、目立たないように気をつけていたかつての私自身であるはずなのに、他人のように見えて仕方がない。
長崎がどんなところだったか全く覚えていないのに、そこにいたことだけが記録に残っている。
それは私にそっくりの別人だったと言われた方が、納得できそうだった。
修学旅行の最後の日、バスに乗って地元に戻る道すがら、私は彼女の携帯電話にメッセージを送った。
彼女が突如来れなくなって残念だったこと、グループのみんなで写真を撮ったこと、ちょっとしたお土産を買ったので今度渡したいこと。
なるべく当たり障りのない、いかにもクラスメートが送りそうな内容を端的に書いて送ったら、予想していなかったことにすぐに返事が来た。
メッセージをもらえて嬉しいこと、修学旅行には本当に行きたかったこと、せっかくグループに入れてもらえたのに結局来れなくて迷惑をかけたこと。
どれも社交辞令のようなメッセージだったけれど、私は返事がもらえて嬉しかった。
それから地元に戻るまで、長いこと携帯電話を睨んで、彼女とやりとりをしていた。
そういうわけで、私の修学旅行の一番の思い出は、帰りのバスで彼女とメッセージのやりとりをしたことだったのだが、それは誰にも言っていないし、彼女にもそうだ。
修学旅行に行けなくて残念がっている人に言うことでもないと思ったので。
お土産を渡したいと言った私に、彼女は次いつ学校に行けるかわからないと答えた。
私はその返事を見てがっかりしたのだが、私の気落ちする姿を液晶画面越しに見ていたかのように、彼女は言葉を継いだ。
<変な話、今日の夜なら学校行けるかも。
あんまり長い時間は取れないけど。>
それを見た14歳の私は、数年ぶりに飼い主に会った小型犬のように嬉しそうな顔をしてたのかもしれない。
通路を挟んだ向かいの座席に座っていた男の子が、ぎょっとしてこちらを見ていたから。
でもそんなことはどうでもよかった。
私の頭の中は彼女と会えることで一杯になっていて、携帯電話を操る指を忙しなく動かすのすらもどかしかった。
地元に戻り、修学旅行の参加者はそれぞれに家に帰った。
私は同級生たちにさよならを言い、急いで家に戻って荷物を置くと、忘れ物をしたと言ってまた学校に戻った。
往復すると40分近くかかる道すがら、私は彼女に渡すお土産をずっと手の中に握っていた。
そのせいで学校に辿り着いた時、包装紙が私の汗でしっとり濡れてしまい、すごく恥ずかしかった。
9月の夜の風は涼し気だったけれど、急いで歩くと汗ばむくらいには暑かった。
彼女との待ち合わせ時間にはまだ間があったので、私は学校の近くにあった公民館に入り、空調の効いている図書館コーナーで時間を潰した。
長崎の旅行ガイドを見つけて、ほとんど覚えていない観光地の解説を眺めながら、彼女に旅行先のどこが良かったかと聞かれたらどうしようかと考えた。
そうしているうちに、しっとりと濡れてしまった包装紙が乾いたのは良かった。
汗まみれのお土産を彼女に渡したくなかった。
一度汗で濡れてしまっているので、実際のところ、乾いているからどうという問題ではなかったのだが。
19時30分を回ろうかという時間になると、公民館は閉館の準備を始めた。
彼女との待ち合わせ時間がちょうどそのくらいだったので、私は建物の外に出た。
空調の効いたところから出てきたので、9月の夜の空気がすごく生暖かく感じられた。
それなのに、どこかから吹いてくる風は妙に冷たくて、秋はもうすぐそこなのだと私に思わせた。
「あ、いた。」
学校の方角に見えていた人影が大きめの声でそう言うのが聞こえたかと思うと、彼女が小走りに私へ近づいてきた。
腰までのキュロットパンツから伸びている足が動くのに併せて、白いTシャツの上に羽織った水色のヨットパーカーが大きく揺れる。
「良かった、見つかった。」
私の傍まで来て彼女は立ち止まり、息を整えながら言った。
「携帯の電池が切れちゃったから、連絡できなくて。
会えなかったらどうしようかと思った。」
彼女の走る姿に見とれていた私は、彼女の言葉に上手く答えられなかった。
「あれ、大丈夫?
もしかして、疲れてる?
違う日の方が良かった?」
ぼーっとしていた私を気遣ってくれる彼女に問題ないことを伝え、私は間が持たないので早速手に持っていた包装紙を渡した。
彼女は突然渡されたそれを見て、微笑んで、中を見ていいかと私に聞いた。
私が頷くと、楽しみで仕方がないという風情で彼女は包装紙を破った。
「これ、風鈴?」
手の中にある藍色の小さなガラス細工を見ながら彼女は言った。
海月がぼんやりと光る深海にも、星が散りばめられた宇宙にも見える藍色。
その彩りが広がる中で、無数の赤い金魚がゆらゆらと漂っている。
「もう夏も終わっちゃうけど、よかったら残暑が続く間だけでも使って。」
私は、彼女が気に入らなかったらどうしようかと不安に思いながらも、一所懸命にさりげない風を装って、そう言った。
少ないお小遣いの中で買えるガラス細工を探した結果、ようやく見つけた風鈴だったから、気に入ってほしかったけれど、押し付けがましいと思われたくなかった。
「へえー、綺麗だね。
水の中に浮かべたらもっと綺麗じゃないかな。
風鈴の使い方とは違っちゃうけど、夏が終わっても見ていたいって思うし。」
「そう?
風鈴だから、暑い時だけでもいいんじゃない?」
「いやー、でも、せっかくもらったんだしさ。
水の中に浮かべて、年中見ていたいよ。
実際、水に浮かんでるところ見たら、絶対そう思うよ。
何なら、これからちょっと浮かべてみる?」
彼女がどういう意図でそれを言っているのかわからず混乱する私を引きずるようにして、彼女は学校のプールへと向かった。
一段低くなっている柵を跨いで越えると、プールサイドにたどり着く。
彼女はおもむろに、恥ずかしげもなく服を脱ぎ出したので、思わずを目を逸らした。
「何、目逸らしてるのさ?
下、ちゃんと水着着てるよ。」
彼女は私をからかうように言う。
普段、教室では目立たないように振る舞っている彼女が口にするとは思えないくらいに、楽し気に言葉が響く。
「寒くない?」
私は自分の体を抱くように腕を回しながら彼女に聞く。
「寒いよ?
でも、プールに入ると温かいって。」
そう言う彼女の後ろでは、遠く街頭が白く夜を照らしている。
そのせいで私には彼女の表情がよく見えなかったけれど、きっとその時の彼女は笑っていたんだと思う。
「私さ、どうも、もうすぐ転校しそうなんだ。」
「え?」
「いや、なんか、連盟の人がさ。
普通の学校に通ってる場合じゃないって。」
「レンメーって?」
「えーと、何ていうか。
国の水泳関係団体?
そこになんか偉い人がいてさ。
その人がそう言うんだ。」
「偉い人が転校しろって言うの?」
「うん、そう。
なんか私も正直よくわかんないんだけどね。
だから、どうせ転校するなら修学旅行も行かなくていいかなって思ったんだ。
特に仲のいい友達もいなければ、居心地も段々悪くなってきてたしね。
なんか、身勝手でごめん。
せっかくグループに入れてくれたのに。」
「いや、それはいいんだけど。」
いや、それはいいんだけど、転校は良くない。
やっと仲良くなれそうなのに。
私はそう思っていたけれど、それを口にする勇気がなかった。
「私さ、泳ぐことしかできないんだ。
誰かと上手くやっていくこととかできないの。
夢中で泳ぐことしかできない病気なんだよ、きっと。
寝てる時すら泳いでるような気がするんだもん。」
「何それ。
夢遊病?
それとも、夢泳病?」
「ムエービョーって、初めて聞いたよ。
難しい言葉知ってるねえ。」
「今でっち上げただけ。
そんな言葉ないと思う。」
「そっかー。
でも、なんかしっくりくるよ。
夢泳病。
ま、それはともかくさ。
ほら、見ててよ。」
彼女は、今の話がなんでもなかったかのように話題を変えて、手を私の方に伸ばした。
藍色の風鈴を載せた手のひらを頭の高さに掲げたまま、バレエダンサーがするように、小さく軽く地面を蹴った。
すると、プールサイドの向こう、水の中に彼女が沈むと静かに水飛沫が立った。
一瞬、風鈴の音が聞こえたような気がしたけれど、すぐに聞こえなくなった。
彼女が沈んだ傍から細い腕が伸びてきたかと思うと、水面から少しだけ2本の指が顔を出す。
その指につままれた糸に引かれて、藍色の風鈴が水の中を泳ぐ。
水面すれすれのところを掠めるようにして揺れる様子は、赤い金魚と戯れる鯨を思わせた。
「どう?
綺麗でしょ?」
風鈴にたっぷりと水面を泳がせた後、彼女は水から顔を上げた。
「プールの中から見るともっと綺麗だよ。
こっちに来ない?」
「冗談。
私、水着着て来てないよ。」
「裸になっちゃえば?
誰も見てないし。」
「それ、ただの事案でしょ。」
「間違いないな。」
彼女は楽しそうに笑って、風鈴に結わえられた糸を口にくわえて背泳ぎをする。
いちいちフォームが綺麗で、私はついつい見とれてしまう。
一緒に泳げたらいいなと思ったけれど、彼女の横に並ぶのは気恥ずかしい気もした。
「ねえ。
今度会った時、泳ぎ、教えてよ。
水着持ってくるから。」
「いいよ。
水着なしでも教えるよ。」
「それは嫌。
水着着てた方が、水の抵抗がなくて楽に泳げるでしょ。」
「そうだね、それはそうかも。」
その後、私達は、プールサイドでそのままくだらない話をし続けた。
私は何気ない風を装って、彼女が次いつ地元に戻ってくるのか聞いたら、彼女はオリンピックでメダルを取ったら、ルーツを辿る系のテレビ番組の企画で戻ってこれるんじゃないかと嘯いた。
こんなに仲良くなれるんだったら、もっと早くに話しかけるんだったと私は後悔した。
日付が変わる頃に、眠いけれども話足りない気分で家に帰ったら、私の帰りが遅くて心配で錯乱状態だった母親に怒鳴られて、さらに後悔した。
彼女は、それから一度も登校してくることなく、東京の方の、私立の中高一貫校に転校していってしまった。
私は昔通っていたスイミングスクールに入りなおして、高校を卒業するまで通った。
彼女のように早く優雅に泳げるようにはならなかったけれど、バタフライまでできるようになった。
今はもう、週末に気晴らしがてら泳ぐことしかしないけれど、それでもいつか彼女に泳ぎを教えてもらう日を心待ちにしている。
彼女との連絡は、それからしばらくは続いていたけれど、やがて途切れがちになり、いつしかふっつりと途絶えた。
その後、何かの拍子に彼女の噂を聞くということもないまま、随分になる。
オリンピック関連の報道で彼女らしき名前を見た覚えもなかったので、怪我か何かで競技を引退せざるをえなかったのかもしれない。
今、彼女は何をしているんだろうかと思うけれど、もう連絡のとりようがない。
年末の深夜、あまりにやることがなくて夜の住宅街を歩きまわって時間を潰している私が、どうにか元気でやっていることを伝える方法もない。
何年も前、このプールサイドで一緒にいた時、彼女と会って話すのがあれっきりになるなんて夢にも思わなかった。
もしそれが最後になるとわかっていたら、もっと身勝手に生きていいのだと伝えてあげたかった。
年がら年中、夢中で泳ぎ続けていなくても、私はあなたと一緒にいたいと思っている、と。
できることなら、今この瞬間に、プールの敷地の柵を乗り越えてきてくれたらいいのだが、映画でも漫画でもない現実ではそんなことは起こらない。
さっきから、柵の向こうで私の方に手を振っている人影は彼女によく似ているような気がするけれど、それは私の希望的観測が生み出した、年末特有の気の迷いか幻だろう。
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