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30話 対岸


 -あの音は、確か……


 類香は和乃に通話を切られてしまったスマートフォンを握りしめたまま、無我夢中で駆けた。確かにあの景色を知っている。前に楓花に見せてもらった涼佳の動画を思い返す。

 あの汽笛の音と、商業施設のきらめき。あの時流れていたのと同じ音楽だった。類香はその場所に望みをかけた。きっと和乃はそこにいる。


 類香は息を切らしながらスマートフォンを見つめる。すると、ある連絡先が目に入った。

 一瞬だけ思考を止め、ふいにその番号に手を伸ばした。


 -お願いお願いお願いお願い出て……!


 呼び出しの音がいつもよりも長く聞こえる。体感としてはもう十分以上は待ったように思えた。


『どうした?』

「夏哉!」


 類香は聞こえてきた声に縋るようにして叫んだ。


『瀬名、おいおいどうした?』


 夏哉は類香の大きな声に驚いたのか、電話の向こうで少しだけ笑っているようだ。


「今、なにしてる?」

『今? 予備校の途中だけど……』

「……そっか。いや、ごめん、忙しいなら」

『瀬名?』


 類香の震えたような声と荒い息遣いに、夏哉の声の調子が変わった。


『なんかあったのか?』


 その言葉に、類香は瞳が揺れる。本当は不安でたまらなかったのだ。類香は走り続けたまま、滲み出た涙を拭いた。


「和乃が……!」

『日比がどうした?』

「このままじゃ和乃が遠くに行っちゃうの!」

『……瀬名?』


 類香は点滅している信号を無理やり駆け抜ける。車のエンジン音が迫るように全身に響く。


「お願い夏哉! 助けて……!」

『……分かった。予備校どころじゃなさそうだな』


 類香は夏哉に行き先を告げた。ちょうど夏哉の予備校はその近くにあるようだ。彼の声でどうにか自我を保つ。類香はもう息ができなくなるほど夢中で走った。行き交う人々の顔など見ている余裕もなかった。


 -お願い和乃! 間に合って……!


 類香は顔を真っ赤にして街を駆け抜けた。




 明かりの灯したビルがたくさん見える。

 真っ暗な闇の中で、煌びやかな建物から嘘みたいな明るい音楽が聞こえてくる。

 それをすべて背にしてただ前に進んで歩く。


 夜を迎えた世界で、静かに水面が揺れているのが見える。真っ黒なのに、透明な波が見え隠れするのは何故だろう。そう。きっとその不思議を知りたいだけ。

 和乃は一歩足を踏み出した。その先にもう地面はない。和乃の足が冷たい川の中に吸い込まれていく。まるで海のよう。少し船を進めれば、海にだって出られる。だけどここは川なのだ。

 同じ水面なのに、大違い。

 和乃はぼんやりとした瞳で微かに微笑んだ。


 -私たち人間みたいだね


 そのまま和乃は前に進んだ。両足は水の中だ。もう下半身は水に浸かっている。冷たくてたまらないのに、足は止まらなかった。これが望んでいた感覚なのだ。

 対岸には煙突が見える。ところどころに白い電気が付いていて、その景色はとても近代的に見えた。

 やっとさよならできる。ずっとずっと待っていた。あの対岸に向かうまでに、望みは叶うだろうか。


 和乃の息が過呼吸のように荒くなった。

 肩まで水につかった身体は、洋服が水を吸って錘のようになっていく。もう足はつかなくなる。ようやく終われる。ようやくだ。


 和乃は口の真下まで水が来ているのに気づいた。少し波打てば、水が口に入ってくる。思わず咳込んでしまった。その反応が惨めだった。まだ生きようとするの?


 足がつかなくなると、身体が川に浮こうとする。しかし洋服が重くてそうはいかない。和乃は、反射的にじたばたと暴れた。呼ばれているのに、どうして抵抗するの?


 視界の向こうでは変わらず真っ暗な世界に人工的な電気が浮かび上がっている。なんて面白みのない世界なのだろう。とても冷徹に見下ろしてくる。

 和乃の息が更に荒くなってきた。ハァハァと、必死で息をしようとする。


 -どうして……?


 和乃はバタバタと暴れた。洋服が絡まって、もう思うようには動けない。手を上にあげて、水面を大きく叩く。大きな水しぶきが辺りで騒音を立てていた。


 -怖い……苦しい……! 苦しい! 苦しい……! 苦しいよ……!


 大きく息を吸おうとするたびに水を呑みこんで、それが体内を埋め尽くそうとしている。和乃の目から涙が流れていた。もう終わりにしたい。もう終わりにするんだ。

 和乃はそれでも暴れる身体を抑えられなかった。暴れるたびに溺れていく。必死で水面に顔を出した。しかし、もう息苦しくて何も考えられなかった。


 さようなら。この世界にお別れできる。こんなに苦しいけど。それでいい。これでいい。

 和乃の身体はそのまま沈もうとしている。街が暗闇に溶けていくのが見える。


 終わりにできるよ、よかったね。


 誰かの声が頭の中で響いた。



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