第89話 これは俺の分
紫煙に揺れる黒髪を思い出す。
黒沼さんはいつも煙草を吸っていた。
青白い煙が彼の粉っぽい頬を撫でていく様は、何とも言えぬ官能があって。幾度か私は、煙草を吸う彼の横顔に見惚れたことがある。
私も吸ってみたいわ、なんて煙草をねだったことが一度だけあった。彼や千紗ちゃんや澤田さんが喫煙所でぷかぷか雲のような煙を泳がせているのが羨ましかったのだ。仲間に入れてほしかったのだ。
彼は笑った。そして、子供用の煙草を買ってくれた。煙が出ない、ココア味の、甘い煙草。
いつか君が大人になったら、俺の煙草を一本あげる。
黒沼さんはそう言って。ありすちゃんに悪いこと教えないでください、と湊先輩に怒られていた。煙をまとわせた彼の微笑みを、私は今でも覚えている。
煙草自体に興味があったわけじゃない。苦い煙の味は、大人になったところでちっとも好きになれそうにない。
それでもいつか彼の隣で、煙草を一本吸ってみることが、私の小さな夢だった。
本当に。小さな小さな願いだった。
ありすちゃん。
もう一度名前を呼んでほしかった。
もう一度笑った顔が見たかった。
全部、全部。もう叶わない。
頑張れ。魔法少女。
だけど彼は最後にそう言った。
彼の最後の願いを叶えたいから。ママを夢から覚ましたいから。
私は今、魔法少女に変身する。
「髫イ「陝カ蜻サシ驍オヲ驍オ迢暦――――ッ!」
私とママは空を飛んでいた。
頭上には星が輝く夜空があった。その下の、ビルとビルの隙間をママは飛んでいる。その細い足に、怪物姿の私は必死でしがみ付いているのだ。
強風がママのピンク髪をバチバチと激しく乱す。魔法少女の甘くフローラルな香りの中に、隠しきれない汗の臭いがまじっていた。
「離してよっ!」
鋭いヒールが何度も私の顔を踏みにじった。カッと目を見開いたママの顔から、ボタボタと汗が垂れて私の触手を濡らしていく。
余裕のない表情だ。それは彼女の肩にしがみ付いているチョコと、揃いの表情であった。
ママ達から最初の余裕はとうに失せていた。自分達の計画はもっとスムーズにいくと思い込んでいたのだろう。なんたって約四十年をかけた計画だ。それがまるで思ったようにいかないものだから、焦っているのだ。
また空に逃げて一度状況を立て直そうというのか。そうはいかない。ここでママを逃がすわけにはいかないのだ。
「繧ゅ≧縺ォ縺後&繝翫うッ」
片翼だけの翼に怪物という重りをぶらさげた飛行はあまりにも不安定だった。空高く飛び上がることは叶わず、ビルとビルの隙間をふらふら危なっかしく飛ぶことが精一杯のようである。
眼下には時々、避難している市民達の姿が見えた。彼らは怪物をぶら下げた魔法少女という異様な光景を見上げ、ぽかんと目を丸くしていた。
「ッ」
バチン! と脳味噌を引っ叩かれたような音が弾けた。
ママの翼が、ビル壁の広告看板にぶつかったのだ。
あっと思う間もなく、剥がれた真っ白な羽数枚と共に、バランスを崩したママが地面に落ちていく。私達はコンクリートに強かに全身を打ち付け、視界に火花を散らした。
そこは街中のおしゃれな通りだった。話題のカフェや雑貨屋が左右に立ち並ぶ、休日の学生に人気の通りである。
しかし西洋風のレンガ道は、私達が落下してきた衝撃でボロボロに崩れていた。
ゲホ、と黒い血を吐き出しながらよろよろと顔を上げる。
すると怪物の巨大な視界が、道路の反対側にいた、とある少女の視線とかち合った。
「ひ」
父親と母親と中学生くらいの少女の三人家族だ。
大荷物を抱えてこそこそ歩いていた彼らは、突然降ってきた怪物にぎゃあっと悲鳴をあげた。だが同時に近くで悶えている可憐な魔法少女ピンクに気が付き、縋るように駆け寄った。
「た、助けて!」
少女がわっとママに助けを求めた。ピンク色のふわふわした衣装を握りしめ、ピンク色にきらめく髪に大粒の涙を落とす。
「避難していた場所が怪物に壊されて……別の避難所に向かう所だったの。お願い、助けてっ」
「…………」
「このままじゃあたし達、あの怪物に殺されちゃう!」
少女の指がまっすぐ私を指した。心臓を突き飛ばすような拒絶感に、ぐっと顔をしかめる。
私は背中の触手を波打たせた。だがそれは少女に対してじゃない。少女が縋りついている、ママに対してだ。全身の痛みにびっしょりと汗をかいて俯いているその女。
駄目よ、離れて。その人は危険なの。あなたが殺されてしまうわ……。
「縺企。倥>縲√↓縺偵※縲ゆサ翫☆縺舌↓……」
「ひぃっ」
私が触手を伸ばそうとすれば、反対に少女は青ざめた顔で後ずさった。
言葉が通じぬ不自由さに私は思わず唸り声をあげる。その声すらぐちゃぐちゃと乱れたノイズのような音声で、私の体が今、人間のものではないことを改めて突きつけられたようだった。
駄目だ。この姿では私の声は届かない。
その人は危険なのだと伝えられない……!
少女は一層切羽詰まった顔でママを揺さぶった。彼女の涙がぽろぽろとママの頬を濡らしていく。
痛みに揺れていたママの瞳がだんだんと焦点を合わせていった。ドロリと濃いピンク色の眼差しが、自身の耳元で大声を上げ続ける少女へと向けられる。
「お父さんとお母さんを守って。あたし達を助けて!」
「…………う」
「お願い。助けてよ! ねえ、ヒーロー……」
「……うる、っさ、い!」
ママの怒鳴り声が空気を引き裂いた。ひ、と少女が息を呑む。
犬歯を剥き出しにしてママは少女を怒鳴り飛ばした。そして硬直する彼女の胸倉を掴むと、呆気に取られている私達を見もせずに、その体を持ち上げた。
ママの汗だくの顔は、怒りで真っ赤に茹で上がっていた。
「これ以上、誰も私の邪魔をするな!」
少女の体が空を飛んだ。
ママが思いきり彼女を放り投げたのだと、一拍遅れて気が付いた。
「あ」
少女の両親が目を丸くした。ぽかんと開いていたその口が、悲鳴の形に変わっていく。
高く放り投げられた少女はキョトンとした顔のまま、地面に頭から落ちていく。
それは人間一人が死ぬには十分すぎるほどの高さだった。
「縺セ縺」」
足の筋肉が膨らむ。
全身の触手がぶわりと沸き上がる。
ドォッと周囲を瓦礫が舞い上がって、私は自分が駆け出していることに、そこで初めて気が付いた。
少女の体を受け止めようとめいっぱいに触手を伸ばす。だが私と彼女の距離はあまりにも離れていた。間に合わないという事実だけが一足先に頭を駆け巡って、私は絶望に目を見開く。
少女のきょとんとした目がまっすぐこちらを見つめていた。
その瞳は、自分を放り投げた魔法少女と、悲鳴をあげる両親と、必死に触手を伸ばす私を映し出して。
そして、
「たす、け」
少女の手が、怪物である私に伸ばされた。
そのときだった。
「うおおぉッ!」
雄叫びと共に一人の男が飛び込んできた。
転がるように地面に滑り込んだ男。その膨らんだ腹に、少女の頭がめりこんだ。
「きゃっ」
「ぐぅ!」
ぼよんと跳ねた少女はそのまま地面を転げ、建物に激突して止まる。痛みに悲鳴をあげる彼女は、だが、生きていた。
人間クッションの役割を果たした男はじたじたと苦悶に顔を歪めながらも、ゼエゼエ苦しそうに笑っていた。
「まにあった。ま、まにあった」
彼はよろめきながら立ち上がる。少女を背に庇い、汗だくの顔を袖で拭ってから、かっこつけるようにキリリと表情を引き締めた。
彼の首から下げたカメラが揺れている。
写真部の部長らしい、いいカメラだった。
「助太刀に来たぞ、魔法少女くん!」
部長の勇ましい声に私はハッと息を呑んだ。ドクドクと分厚い心臓が脈を打ち、熱い血潮を体中に駆け巡らせる。
魔法少女くん。
その言葉と共に行きつけられた部長の指先は。ママではなく、私に向けられていた。
「次から、次へと……!」
ママが唾を飛ばしてステッキを握りしめた。キラキラと光る先端の宝石が、ぶわりとピンク色の光を膨らませる。
「!」
私は触手を伸ばして部長の体を突き飛ばした。直後、伸ばした触手がピンクの閃光に焼かれてジュウッと消滅する。おわああお、とコロコロ転がっていった部長はそのまま道端の溝にすっぽりとはまっていた。
ママはもう一度ステッキを振り上げる。だがそれを予想していた私は一足先に動き、閃光が撃とうとしていた一家の壁になる。
ジュッと肩の肉が魔法の光に抉られた。黒い血をボタボタと垂らしながら私は振り返り、茫然とこちらを見上げる一家に声を飛ばした。
「縺ォ縺偵※!」
「あっ……」
逃げてという言葉は彼らには通じない。
だが彼らはビクリと肩を震わせ、戸惑いを浮かべながらも慌ててこの場から走りだした。
父親に背負われた少女だけは、最後まで丸い瞳で私を見つめていた。
「…………」
魔法のステッキがぼうぼうとピンク色に光っている。
だがママは体中を汗みずくに濡らし、肩で息をしてぼうっと私を睨みつけているだけだった。
白とピンク色だった可憐なドレスは土埃で黄色く汚れ、裾が擦り切れている。
「花子ちゃん!」
チョコがそんなママに叱咤を飛ばした。
ママは歯を食いしばり、地面を蹴り飛ばして片翼を広げる。ぶわっと舞い上がった風が私の触手をゆらゆらと揺らした。
当然私はまた駆け出して、ママの足にしがみ付く。何度逃げようとしたって何度でも追いかけるつもりだった。
華奢なヒールに触手を絡みつかせながら、幼い頃、ママを追いかけて足に抱き着いて笑っていた記憶をふと思い出す。
ありすったら、とふくふく笑っていたあのときのママの笑顔はどこにも見えず。
視界いっぱいに見えるのは、心からの嫌悪感を剥き出しにした、冷たい視線だった。
「貸してっ」
チョコがパッとママの手からステッキを取り上げた。ピンク色の毛をぼうぼうと逆立てた彼はそのままステッキを私に向け、魔法の光線を放とうとする。
だがそのとき。今度は、別の人影が横から飛び込んできた。
「おらあっ!」
「ギャ」
彼は隣の建物の二階から飛んできた。
握りしめた拳がまっすぐにチョコを張り飛ばす。軽いぬいぐるみの体はあっという間にへこみ、あらぬ方向に向けられたステッキから飛んだ魔法の光は、空へと消えた。
「ありすちゃん!」
彼はパンツ一枚だった。何故か、脱いだパジャマを両手に振り回していた。
私はパッと目を見開いて。高らかに笑いながらママの背中に飛び降りる、涼先輩の名前を呼んだ。
「繝倥Φ繧ソ繧、!」
突如現れた変態にママの反応は遅れた。ぽかんと呆気に取られるその顔へ、涼先輩はパジャマをガバリと勢いよくかぶせる。
「もがっ」
視界を奪われたママの飛行は一気に不安定になった。
まっすぐ飛べるはずもなく、大きくバランスを崩したママは、そのまま近くのビルにバンッとぶつかった。薄氷のようにバリバリと割れるガラスごと、私達はビルの中へと転がり込んだ。
雑居ビルの四階だった。ちょうどどこかの店舗が入っていたようで、私達が激突した棚からバラバラ商品が落ちてくる。魔法少女のイラストが描かれた靴やぬいぐるみが降ってきたのを見て、私はハッと顔を上げた。
そこは児童向けのおもちゃ屋だった。フロアいっぱいに広がる店内に、赤ちゃんのおむつやらベビーカーやら、戦隊ヒーローの剣やベルトやらが、ずらりと並んでいる。
ピカピカと天井にぶら下がるライトが揺れていた。閉店作業中に逃げ出したのか警備でもしていたのか、フロアは眩い光に煌々と照らされている。床に散らばったおもちゃ達が、照明を浴びて輝いていた。
「…………ッ」
魔法少女のグッズが散らばっている。
魔法のステッキや、変身用のドレスを見下ろし、私は巨大な目をぐっと細めた。
どうしてだか、胸の奥が熱くなってたまらなかったのだ。
子供向けのおもちゃ屋さんは私にとっての楽園だった。
魔法少女を夢見た頃から……街中のおもちゃ屋さんに飛び込んで、魔法少女のおもちゃを見るのが大好きだった。ピンク色のステッキを手に取って、ピンクの衣装を鏡で合わせてみて、そうしてうっとりと空想に浸るのがたまらなく幸せだった。
大人の女性がブランドのヒールにとろける眼差しを向けるように。私も魔法少女のおもちゃを見ては甘い幸福な夢にひたっていた。
それは私だけじゃない。
隣にはいつもママがいて。私達は二人でうっとりと魔法少女の夢に浸っていた。
魔法少女のおもちゃを、ママと一緒に笑って見ていたのだ……。
「ゲホ」
咳き込むママがゆらりと立ち上がった。
顔にかかっていたパジャマを引き裂き、背後に放り投げる。前に踏み出したヒールが、落ちていた魔法少女のコンパクトをバキリと砕いた。
「蜈郁シゥ!」
「えあっ」
悪寒がして、私は咄嗟に涼先輩を抱えて走り出した。
直後、ママが放った魔法の光が、私達の倒れていた地面をジュワッと抉る。
「わ!」
ママは乱暴に魔法を飛ばした。棚が壊れ、天井に穴が開き、バラバラとおもちゃが雨のように降り注ぐ。
私は涼先輩を抱えたまま走り続けた。いくつもある棚がママの攻撃を受け止めてくれる。明るい店内にぴかぴか目を光らせて、私は触手を伸ばし、飛び跳ね、ママの攻撃を避け続けた。
「だ、大丈夫かねっ! 助太刀、しようじゃあ、ないか!」
「邪魔」
「うわーっ」
汗だくで階段を上って追いかけてきたらしい部長は、ママが投げたおもちゃの剣にぶつかってころころと転がって行ってしまった。
ママの意識が一瞬部長に向けられる。攻撃をするならば、いまだ。私は商品棚に飛び乗ると、そのままママめがけて飛び降りようと足に力を込めた。
バツンと電気が消えたのはその瞬間だ。
「?」
フロアの電気が一瞬にして消えた。
レジに置かれていたパソコンの電源も、非常口の誘導灯も、エレベーターの表示ライトさえも。建物中の明かりが全てが消えていることに気が付いた。
なんだね、と部長が上擦った声をあげる。涼先輩が周囲を確認しようとして、棚に足をぶつけてスッ転んだ音がする。
「怪物だって視界を塞がれちゃあ、どうしようもないよね」
チョコの声が聞こえた。
暗闇の中からかぽんと浮かびあがるその声には、ふつふつとした怒りが込められていた。チョコが電気を消したのだと理解した。さきほど、涼先輩がやったように。
「攻撃できるものならするといいよ! お友達に当たっても、構わなければね!」
「…………」
物音に反応して攻撃しても、それは涼先輩と部長かもしれない。視界に頼りきっていた私達が、視界を完全に奪われればもうどうしようもない。
だがそれは、完全な暗闇での話だ。
迷いなく降りぬいた私の触手が、ママの背中を痛烈に打った。
「うぎっ!?」
「えっ」
困惑と痛みをかき混ぜた悲鳴が上がる。あっけなく倒れるママの姿に、チョコがぽかんとした声をあげた。
「隕九∴縺ヲ繧九o縺」」
「ギャアッ!」
もう一度放った触手でママの体が床を転がった。呻き声をあげたママはすぐにハッと立ち上がり、私の三撃目を紙一重で避けた。
何故場所が分かるのか。迷いなく攻撃ができるのか。理解が追い付いてないママは、狼狽えながら叫ぶ。
「ど……どうして!」
「馬鹿がよ」
吐き捨てるような男の声に、ママがバッと振り返る。
拳を握りしめた涼先輩が、拳を構えてそこに立っていた。
「魔法少女のくせに、知らねえのか?」
涼先輩の拳がママの手からステッキを弾き飛ばした。魔法のステッキはガラガラと床を滑り、暗闇の中へと消えていく。
涼先輩の手がママの背中に伸びた。ママは慌ててその手を振り払おうとして……パチリと丸くした目で自分の背中を見た。
「あ」
背中に生えた大きな翼。真っ白な羽の中に、さっき彼女が投げ捨てた、パジャマの切れ端が引っかかっている。
それはぼんやりと淡く光っていた。
暗闇の中。魔法少女のイラストが、そこに浮かびあがっているのだ。
その淡い光が。ママの居場所を私達に告げていた。
「光るパジャマを買ってもらったことがないのかよっ!?」
「――――ッ!」
ぶわ、とママの全身から汗が噴き出したのが、見えずとも分かった。
よろめくママの真正面にパンツ一枚の涼先輩が対峙する。
馬鹿みたいな格好で。けれどその背中に大きな怒りを背負って。涼先輩は、固く拳を握りしめる。
「……国光を殺しやがって」
涼先輩の声が一度だけ震えた。
ドンッと強く床を踏みしめて。彼は声を張り上げる。
「これは、まず、俺の分!」
「おゴッ」
涼先輩の拳がママの腹にめり込んだ。
「次も、俺の分!」
「きゅ」
続けざまの二発目がママの顎をスパンと撃ち抜く。ママの顔が跳ね上がり、ふわりとドレスがよろめいた。
涼先輩の目は燃えていた。押さえ続けていた熱い感情がドウドウと彼の心臓を燃やしているようだった。
亡き親友の姿を、彼はその背に背負っているのかもしれなかった。
「そして最後は――」
歯を食いしばって。足で地面を踏みしめて。
全身に熱い思いを滾らせて。
全力を込めた涼先輩の拳が、目を見開くママの顔面へとめり込んだ。
「――――俺の分だぁッ!」
「ギャッ……!」
湊と俺の分も入れろよ、と。国光先輩が言っているような気がした。
真っ赤な鼻血の軌跡を描いてママが仰向けに倒れる。人間の力は弱いといっても、全力の男の拳は、ママの顔面に僅かなダメージを与えてくれたようだった。
「…………!」
ママは鼻に触れ、どろりと手の平を汚す血に悲鳴をあげた。
真っ青な顔が一転。膨らんだ怒りで、真っ赤に染まる。
「ま、魔法少女の顔を。私の顔を……。あなた……」
ママの血走った目が涼先輩を睨む。
彼があっと声をあげる間もなく、ママは彼を突き飛ばして、近くの床に落ちていたステッキを拾い上げた。
「死ね!」
もはや魔法の呪文もなにもない。純粋な悪意の言葉と共にママはステッキを振り下ろす。
先端から出る閃光を予感した涼先輩が、悲鳴をあげてその場に尻餅をついた。
しかし、ステッキからは何も飛ばなかった。
「は?」
ママがもう一度ステッキを振っても同じだった。
魔法の光はたった一粒さえも零れない。
「そ、そりゃあ、何も出やしないさ」
答えたのは部長だった。床に転がっていた彼はゼエゼエと息を荒げながら、ママの握るステッキを指差して笑う。
「よくご覧。君が持っている、そのステッキを」
ママはもう一度自身のステッキを見下ろした。訝しげだったその瞳が、みるみるうちに凍り付いていく。
よく似ている。だが、違う。
改めて見れば、細部に付いている宝石やステッキ本体の形状は、ママの使っていたステッキと違うものだった。
ママが握っていたのは、床に転がっていたおもちゃだった。
「それは君のステッキではない」
部長はニヤリと笑った。服の下からズルリと取り出した汗まみれのステッキを、見せびらかすように掲げる。
暗闇でも、それがママのステッキであることはハッキリと分かった。
涼先輩が戦う中。電気が消えた暗い空間を走り回って、彼は咄嗟にすり替えたのだ。本物と偽物のステッキを。
「部長!」
「うん?」
突然涼先輩が吠えた。部長はパチンと目を瞬かせ、声につられたように振り向いた。
むっちりしたその首を、更にむっちりと太い指が締め上げる。
「ガッ!」
部長の足がぶらんと宙に浮いた。部長は驚愕に目を丸くして、自身の目の前に立つふくよかなおじさんの姿を見つめていた。
人間に変身したチョコが部長の首を強く絞めているのである。ぬらぬらと額の脂が光っていた。生臭い息を荒く吐き出しながら、チョコは地を這うような低い声で唸っていた。
「ぼく達の邪魔を、しないでくれるかな」
ぶふぅ、と濃厚な溜息を吐き出して、チョコはその顔をしわくちゃに歪める。
「こんなに上手くいかなかったことなんて初めてだ。こんなクソゲー、初めてだよ」
「……。…………!」
「ぼくがどれだけ花子ちゃんのサポートをしてやったと思ってるんだい!」
部長の足がジタバタとチョコを蹴る。だが部長よりも更に豊満な体つきのチョコは、ビクともしなかった。
脂ぎった肌の中。濃密な怒りが、つぶらな瞳の中で煮えたぎっていた。
「ぼくは彼女の母親の監禁を手伝ってやったんだぜ。不自然さでバレないよう、村人の記憶から花子ちゃんの存在も消してやった。街から人を誘拐して変身薬の実験体にもした。宗教団体の経営を手伝って、街に薬物をこっそり広めてあげたじゃないか。楽土町は笑顔が多い街だなんて言われるようになったのは、ぼくのおかげでもあるんだ……」
部長の体から力が抜けていく。最後まで必死にステッキを抱えていた部長も、とうとう耐え切れずにステッキを落とした。だがチョコはそれでもブツブツ独り言を吐きながら、部長の首を絞め続ける。
「やめろ!」
涼先輩がチョコに飛びかかった。チョコはちらりと視線を揺らしてから部長の体を離す。しかし代わりとばかりに、今度は涼先輩の首を締め上げた。
「ギッ」
ビクン、と彼の体が大きく跳ねた。
とんでもない力で喉を押し潰された涼先輩の顔は真っ赤に膨らみ、その目が一瞬で白くなる。
「君は花子ちゃんを三発殴った」
「…………っ」
「じゃあぼくも、三発だ」
ザッと私の顔から血の気が引いた。チョコの、ボコボコと血管を浮き上がらせた分厚い拳を見て、悲鳴をあげる。
宇宙人のチョコが本気で人を殴ればどうなるか知っている。星尾村の地下室で、チョコに殴られて死んだ、おばあちゃんの末路を知っている。
チョコの拳が、涼先輩の頭部を破壊する三秒前。
チーン、と呑気な音がエレベーターから聞こえてきた。
「ん?」
パチッと音がして天井が明るくなった。
私達は思わず動きを止めて、煌々と明るく光る照明を見上げる。
眩い明かりに目がくらんだ。電気が戻っている。チョコはまだ、何もしていないのに。
ぽかんとする私達の前で、ゆっくりと開いていくエレベーター。
その隙間から弾丸のごとく飛んできた杖の先端が、チョコの鼻先に突き刺さった。
「ぴゃ」
チョコの肩が驚愕に跳ねる。思わず離した手から涼先輩が滑り落ち、ゲエゲエと喉を押さえて苦しそうな深呼吸を繰り返していた。
チョコは無言で杖を抜く。数センチ抉れた鼻先から流れた血が、真っ白な顔の脂肪の上を落ちていく。彼の小さな目は不快感をエレベーターに向けていた。その先にいる人物が誰なのか、理解したように。
カツン、という音が鳴る。
エレベーターから彼は滑るように姿を現した。ふわっと涼やかな風が吹いて、尖っていた空気が穏やかに凪いでいくような、そんな心地がした。
ロマンスグレーの髪を指で撫でつけて。エレベーターから降りてきたマスターは、硬質な微笑をチョコに向けている。
「やあ、繝斐Φ繧ッ縺ョ縺ャ縺?$繧九∩。息災かな」
「魑・縺ョ縺ャ縺?$繧九∩……」
宇宙人同士が対立する。
チョコが第一の宇宙人であるとしたら、マスターは第二の宇宙人。
彼は、チョコに唯一対抗できる存在であった。
「なんだい。まさか君もぼくの邪魔をしに来たっていうのか?」
チョコは大仰に肩を竦めた。涼し気に微笑むマスターを睨み、なんだよっと声を荒げて地団駄を踏む。
「なんだよ。なんなんだよっ。いつも裏方のくせしてさ。今更、余計なことしようってのかよ……」
チョコは歯茎を剥き出しにして、血走った目でマスターを睨む。対するマスターはチョコの怒りなどどこ吹く風と言わんばかりの態度で、静かにそこに立つばかりだった。
同じ宇宙人であっても二人の体格はあまりにも違っていた。横に分厚いチョコに比べ、縦にひょろりと長いマスターは、簡単に小突いただけで骨が折れてしまいそうに見えた。
対人間であればマスターは強い。だが宇宙人であっては、勝てるのだろうか……。
「チョコ。チョコッ! 早くそんな奴やっつけちゃって。早くっ」
ママが真っ赤な声で怒鳴った。マスターがそれにふっと息を零し、「素敵な応援だ」と本心なのか皮肉なのか分からない言葉を吐き出した。
その瞬間。チョコが雄叫びをあげてマスターに飛びかかった。
「#$%&’(’&%$#”#$%&’(!」
獣のような咆哮だった。
興奮に口端から涎を撒き散らし。その太い腕を振るって、マスターの顔を真正面に捉える。
マスターは、チョコの拳を避けなかった。
「縺セ縺吶◆繝シ!」
バンッと弾けた衝撃音に、私は悲鳴をあげ、ママは喜びの声をあげた。
チョコの拳はまっすぐマスターの顔面に叩きこまれた。その凄まじい音はまるでトラックの衝撃音のようで、とにかく、そんな力を真正面に受けたマスターが無事であるはずがなかった。
マスターの黒いマスクからおびただしい血が流れ落ちて。ボタボタと垂れたそれは、床に小さな水たまりを作った。
悲鳴をあげてしまうほどの出血は。だが、チョコの拳から流れているものだった。
「ふ」
マスターは笑っていた。チョコは青ざめて、血だらけになっている己の拳を見つめていた。
チョコの拳はマスターの口元に受け止められていた。
黒いマスクの下に隠されたマスターの口元が。ぞろりと奇妙に蠢いて、チョコの拳に牙を立てているのだった。
「は、離せ……」
「若い頃より、随分と衰えたものだな……。不摂生が原因だ。明日から塩分と糖分を控え、適度な運動を行ったほうがいい」
「離せよ!」
「ああ、いいとも」
マスターは微笑んでチョコの手をマスク越しに噛んだ。
ぶしゅっと血が噴き出して。チョコの指が数本えぐれて落っこちた。
「ギャアァッ」
チョコは絶叫して、真っ青になった唇を震わせながら後ろに倒れこもうとした。
だがマスターの長い足がチョコの顎を引っかける。彼はそのまま器用に足を使って、チョコの体を近くの商品棚に押し付けた。ドンッと棚が揺れ、商品がバラバラと落っこちる。
「『三発までならオッケー』だったかね」
「…………へ?」
「しかし老体には堪える。一発分にまとめてあげよう」
「へ、……え? …………!」
それはさっきチョコが言っていた言葉だった。
これから何をされるのか察したチョコの顔が、凄まじい恐怖に歪む。
「、まっ」
「歯を食いしばれ」
ズドンと重いその音は、離れている私達にもクッキリと聞こえるほどだった。
チョコの体が吹っ飛んだ。商品棚をいくつも倒しながら転がった彼は、茫然と立ち尽くすママの足にぶつかって、ようやく動きを止めた。
「えオッ」
「ひっ」
ドボッとチョコの口から虹色の吐瀉物が撒き散らされた。それはママの衣装をびしゃびしゃとカラフルに濡らした。
「ゲエェーッ」
チョコの体はしょわしょわと小さく萎んでいき、ぬいぐるみ姿に戻ったチョコは虹色の水たまりの中にぽちゃんと体を横たえて失神した。
虹色のゲロまみれに染まった衣装を茫然と見下ろしていたママは、けれどカツンと固い杖の音にハッと正気を取り戻す。ママはマスターが自分達の方へと向かっていることに気が付くと。真っ赤な顔のままチョコをわしづかみ、割れた窓から飛び出した。
「繝九ぎ繧オ繝翫う!」
「逃がすかよ!」
逃がさない、という言葉が二つ重なった。ほぼ同時に窓から飛び降りた私と涼先輩は、飛び上がろうとしていたママの体にまたしがみ付いた。
びゅうっと吹く風が私達の汗を冷やしていった。見上げる夜空はいつの間にか、ほんのりと薄い青色に変わっていた。夜明けが近付いているようだった。
二つ分の邪魔な重しを抱えながら、それでもママは必死に空を目指して手を伸ばす。
その頭上から。もちもちとした体をめいっぱいに広げて、部長が窓から降ってきた。
「行かせぬ!」
「あっ」
部長のもっちりと豊満な体は、ママに対するトドメとなった。
片翼が悲鳴をあげ、三人分の重しに耐え切れなかったママは、ずるずると地面に沈んでいく。
「ああああっ!」
ママの拳は空を切る。必死に伸ばした手は何も掴むことができないまま、地面に向かって落ちていく。
ママは一度悲鳴のような声をあげて。それから悔しそうに歯を食いしばって。諦めたように息を吸って。
次の瞬間、チョコが持っていたゲロまみれのステッキを奪い取り、ぐるりと顔を回して私達を見下ろした。
「蜊ア縺ェ縺!」
私は咄嗟に触手を伸ばして、涼先輩と部長の体を抱きしめる。
魔法のステッキが振られて。ピンク色の光が私の体を焼いたのはその直後だった。
ドゴン、と。凄まじい衝撃と共に私達は地面に落下した。
瓦礫が盛大に吹き飛んでいく。もうもうと上がる土煙の中、私はぐったりと巨大な体を地面に横たえ、浅い呼吸を繰り返していた。
「……あ、……ありす、ちゃん?」
「ありすくん……? ありすくん。しっかりしろ!」
青い顔をした二人が私を覗き込んでいた。「だいじょうぶ……」となんとか声を震わせて、私は自分の変身が解けかけていることに気が付いた。
全身が燃えるように熱かった。激しい痛みに筋肉と骨が悲鳴をあげている。
今にも気を失ってしまいそうな痛みを、私は歯を食いしばって堪えていた。
ここで気絶をするわけにはいかない。私が倒れたら、涼先輩と部長を守れる人間がいなくなってしまう。
「……うふ。うふうふ」
煙に掠れた笑い声が響く。瓦礫の中。魔法少女ピンクはボロボロの姿で立っていた。
額からは血が流れている。髪の毛はもうめちゃくちゃに乱れて、愛らしかったピンクの衣装もゲロと血ですっかり汚れている。
汚れきった魔法少女の姿に、ママは怒りを浮かべていた。
凄まじい力で握られ続けヒビが走っているステッキは、ボウボウと目を焼くほど強烈な光を輝かせている。
私はよろめきながら涼先輩と部長の前に立った。だがまだ体中が痛くて、上手く変身ができない……。
「ママの言うことを聞きなさいよ」
ふわりとママは微笑んだ。心臓がゾッとするほど優しい声で、ママは私に血まみれの笑顔を見せる。
「私はあなたのママなのよ? 我儘ばかり言わないで、親の言うことを聞いてちょうだいよ」
「…………」
「さあ、ありす。ママに殺されてちょうだい」
「…………っ」
「あなたが生まれた意味はそれだけなんだから……」
違う、と反論しようとした。だが出てくるのは血が滲む咳ばかりだった。
顔中を汗でぐしゃぐしゃにしながら私はママをまっすぐに見つめる。
バチバチと音がするほど光るステッキが、私達に向かって振り上げられる様を、まっすぐに見つめる。
「ちゃんと皆の敵になってよ。この、かいぶ」
つ、と言い切る前に。横から猛スピードで突っ込んできた車がママを跳ね飛ばした。
ママの体がごしゃりと地面に叩きつけられる。ママはそのままゴロゴロと地面を転がって、目を丸くした私達の前で電柱に激突して呻いていた。
『……皆様の清き一票が、楽土町の未来を大きく変えるのです! ありがとうございます。ありがとうございます……。カシロカツトシを、どうぞよろしくお願いします!』
人を跳ねたのは選挙カーだった。
陽気な音声をピカピカと光らせた白い車には、祥子さんパパの笑顔の写真が貼られている。ママを跳ねたときについた血がその写真に赤く飛び散って、サイコパスの笑顔にしか見えなくなっていたけれど。
呆気に取られる私達の前で、運転席から誰かが降りてくる。ニコニコ爽やかな笑顔で降りてきた彼は、ママを見つけると、「わあ大変だ」と驚いたように言って車にもたれかかって胸ポケットから取り出した煙草を咥えてしっかり一本吸ってからようやくママに駆け寄った。
「大丈夫ですかぁ」
彼は呻くママの傍に近付くと「安否確認」と言って懐から取り出した銃を一発撃った。パンッと肩にめり込んだ弾丸に、ママが苦悶の悲鳴をあげる。
血走った目でママは彼を睨み上げた。彼はそんなママの殺意に微笑み、汗ばんだ額に張り付くピンク色の前髪を、銃口で優しく払ってあげていた。
その銃には見覚えがあった。
黒沼さんの持っていた銃だった。
「そろそろ物語も終わりの時間だぜ。偽物ちゃん」
彼は爽やかに笑って言った。
夜明けが近付く空の下。澤田さんの髪が、冷たい風になびいていた。




