第88話 守ってやるから
「大丈夫」
黒沼さんは笑って私の頬に触れた。
次から次へと溢れる涙が拭われて。代わりに、真っ赤な彼の血が私の頬を汚す。
「大丈夫。大丈夫だぞ……」
彼は何度も言った。
その言葉が大怪我を負った自分に向けられたものではなく、泣きじゃくる私に向けられた言葉だと気が付いていた。
大きく固い手の平が、私の髪をくしゃりと一度だけ撫でる。
あまりに優しいたった一瞬のその感触は、私の心臓に熱く焼き付いて、離れなかった。
「俺が君達を守ってやるから」
警察の一人として、大人として、私達の友人として、
彼はただ、優しい顔で笑うのだ。
「黒沼さん……」
ふら、とおぼつかない足取りで湊先輩が駆け寄ってきた。真っ白な顔をした彼は、黒沼さんに近付くにつれ、その表情を悲痛に歪めていく。
倒れる黒沼さんの体に触れた湊先輩の手の平が、べっとりと赤黒い血で染まる。広がっていく血だまりが、地に着いた彼と私の膝を濡らしていた。
市民達はそんな私達に何をするでもなく、無言で立ち尽くしていた。怒りの表情は消え、青ざめた恐怖の表情だけが広がっている。
まるで、今この瞬間に、はじめて自分達のしでかしたことに気が付いたみたいに。
「びょ、病院に行きましょう。大丈夫、助かりますから……頑張って……」
潤んだ目を細めて湊先輩が笑った。ぶるぶると震える手で必死に黒沼さんの手を握る先輩を、黒沼さんは黙って微笑みながら見つめているだけだった。
その言葉を聞きながら、湊先輩の様子を横で見ながら、私は膝を濡らしていく血だまりをぼんやりと見下ろした。
血だまりはゆっくりと広がっていく。熱い血潮は火傷しそうなほどに熱くて……けれど広がっていくその端から、氷のように冷たくなっていくのだ。
皆分かっている。立ち尽くす集団の向こうで、真っ青な顔を涙でぐちゃぐちゃにしている鷹さん達もきっと分かっている。
この出血量では間に合わない。
黒沼さんは、もう助からない。
「邪魔が入ったわね」
カツン、と硬質なヒールが鳴る。冷えた刃を当てられたような声に人々が振り返れば、酷く不愉快そうな顔をしたママがそこに立っていた。
氷のように鋭い眼差しは、けれど皆の視線を受けた瞬間、ふっととろけるように甘い微笑みに変わる。
パチンとママはステッキを振った。ピンク色の魔法の光がママの周囲を幻想的に舞う。
「まだ怪物は生きているわ。さあ、もう一度。武器を持って!」
私達の涙なんてママには関係ない。勢いを削がれた集団をもう一度奮い立たせようと、ママは大声で叫んだ。
ぐっと湊先輩が私の手を握った。私も無言で彼の手を握り返した。私と彼は黙って歯を食いしばって、黒沼さんの体から離れなかった。
ママの力強い鼓舞が響く。美しい魔法少女の、キラキラと弾む声が市民達に降り注ぐ。
だが、彼らは誰も動かなかった。
「…………何をしているの?」
ママがきょとんと目を丸くした。魔法のステッキをもう一度振り、同じ言葉を繰り返す。
「さあ、早く」
「…………」
「早く!」
「……む、無理だ」
ママの言葉に答えたのは真っ先に私を殺そうとしていたあの男だった。
地面に座り込んでいた男は、どこか呆けた目でママを見つめていた。
彼の顔は真っ白だった。乾燥した肌に怖気がこびりついている。さきほどまでの泡立つような怒りを一切なくした瞳を、彼はおどおどと左右に泳がせていた。
「俺達は怪物を殺したいだけだ。人を殺したいわけじゃない……」
「…………は?」
ピシ、と異音がした。ママの握るステッキにひびが入った音だった。
ぞっとするほど温度をなくしたママの表情に男が息を呑んだ。ハッとしたママは慌てて表情を取り繕おうとするも、引きつった微笑みは、どうにも怒りを殺しきれていない。
白く美しい肌に、隠しきれない怒りの血管が浮かんでいた。ぴくぴくと痙攣している指先は荒れ狂う怒りの表現なのか。魔法のスカートの下に伸びる細長い足はガクガクと嫌な貧乏ゆすりをして、カカンッと地面をヒールで叩いていた。
ママは怒っていた。
自分の思い通りに動かない集団に対する怒りが、その華奢な体の内で茹っているのだった。
だが。ママ以上に憤っている人間は、他にもいた。
「同じじゃないか!」
湊先輩が真っ赤な声を荒げた。
びくりと怯えた集団を充血した目で睨みつけ、熱く震える言葉を、その胸から吐き出す。
「あなた達がしようとしていたことだって、変わらないじゃないか。ありすちゃんを殺すのだって、黒沼さんを殺すのだって、同じじゃないか」
「ち、違う……。だって。か、怪物じゃないか。そいつは……」
「人間だ!」
湊先輩が私の手を強く握る。ぽたっと落ちてきた一滴の雫に、私はハッとして顔をあげる。
彼の真っ赤な目から涙が流れていた。わななく唇で何度も涙を飲み込んで、湊先輩はぐちゃぐちゃに濡れた声で叫ぶ。
「ありすちゃんは怪物である前に、人間だ。あなた達と同じ、人間なんだよ!」
指先が触れた手首からか、ドクドクと脈打つ鼓動が聞こえている。私のものか湊先輩のものかは分からなかった。繋いだ手は温かい。湊先輩の手は勿論、私の手も。
ふ、と掠れた吐息が零れた。震える唇の上を、幾筋もの涙が流れていった。
私の心臓は脈打っている。私の手は温かい。私の涙は、私の心は……。
怪物に変身できるけれど、皆とほんの少し違うところもあるけれど。だけど、私だって湊先輩や皆と変わらない。
私は怪物。
だけど、皆と同じ、人間なのだ。
「何してるのよ……。怪物の味方をする奴も、この街の敵でしょうっ?」
ママが鋭く声を放つ。ビリビリと空気を震わせる、威圧感のある声だった。だがその言葉尻は情けなく震えていた。
魔法少女の白い肌に汗が滲んでいる。自信に満ち溢れていたその瞳が揺らぎ、強く握りしめたスカートの裾にしわが寄っていた。彼女の肩に乗るチョコが、はじめて不安そうな顔でママを見上げた。
集団は動かない。ただ動揺して魔法少女と私を交互に見つめている。
「あの少年も、あの男もっ。怪物の味方をする奴は全員倒しなさいよ!」
焦燥にかられたママの声が鋭く空気を打った。ピシャリと鞭のように放たれた怒声に、人々の何人かがビクリと肩を揺らして武器を握る。
一つ、二つ。刃物の切っ先がまた私達に向けられていく。さきほどのような彼らの意志ではない。魔法少女の殺意に突き動かされた切っ先が、震えながらこちらを向く。
だが、私と湊先輩の背後から一つ伸びた腕が、彼らに銃口を向けた。
「は、」
振り返った私と湊先輩は目を大きく見開いた。
黒沼さんが。倒れ伏す彼が、震える腕で銃を持ち上げていた。
弾丸が込められた銃口を、市民達に向けていた。
集団がざわめいた。向けられた銃口に彼らは悲鳴をあげて後ずさる。その中にいるママだけが、ほらねっ? と水を得た魚のように声を弾ませた。
「あいつはあなた達を殺そうとしている。怪物の味方をする奴なんて、やっぱりまともじゃないのよ!」
「違うよ」
穏やかな声が聞こえた。ママの言葉を否定したのは、当の黒沼さんだった。
ひゅう、と掠れた空気の音に私は無言で目を見開く。黒沼さんの喉から鳴る音だと分かったのだ。混じって聞こえるのはごぽりという赤い水音と、薄い呼吸。
「黒沼さっ……」
思わず私は振り向いた。だって背後から感じる死の気配は、あまりに濃厚だったから。今にも黒沼さんがぱたりと倒れて死んでしまうのではないかと思って、怖くて怖くて、たまらなかったから。
けれど。
「違う」
彼は生きていた。力強く、鋭い眼光を光らせて、ギラギラと獲物を捕らえた獣のような獰猛な顔でママを見て笑っていた。
死を目前にした男とは思えぬ力強い声は、皆の中によく通った。
「俺が狙うのは、お前だけだ」
「え?」
黒沼さんが引き金を引いた。
銃弾が飛んだ。瞬きよりも一瞬のスピードに、誰も反応などできない。
一発の銃弾がまっすぐ人々の中に突っ込んでいく。だがそれは、誰にも当たらなかった。曲げられた肘の間を、頬の横を、服のひらめきの間を飛んで、飛んで、どこにも当たらず飛んでいく。
たった一発の弾はそのまま集団の中を突き抜けた。
そして、彼らの一歩後ろに立っていた魔法少女の額に吸い込まれていく。
「あ」
弾丸が魔法少女の額を撃つ。
ガクンッと仰け反った魔法少女の額から、少量の血が弾け飛んだ。
「――――ッ!」
ママの肩から落っこちたチョコが、ぎゃぴっと悲鳴をあげてぼてぼて地面を転がった。ママは茫然と額に手を当て、血に染まった手の平に足を震わせた。
魔法少女の体は頑丈だから、銃弾は通らない。致命傷にはなりえない。
黒沼さんはそんなこととっくに分かっている。
彼の目的は、きっとそれではなかった。
「……あ、あ。ああ。ああ!」
ママが吠える。怒りにみちみちと震えた顔が真っ赤に染まっている。
自身の血で濡らしたピンク色の爪で黒沼さんを指し、ママは喉から血走った声をほとばしらせた。
「あいつをやっつけて。あいつを、あの男を!」
「…………」
「早くしなさい! 殺すのよ! 今すぐ、あの男を殺しなさい!」
「…………、う」
「何してるの!? 殺せって言ってるじゃないの! ほら! 早く……」
ママの血走った命令に集団は動き始めた。だがその動きを見て、ママの声から力が抜けていく。
彼らはゆっくりと、ママから後ずさっていたのだ。
皆の表情は硬く張りつめていた。一様に広がる青ざめた顔が、ママを見つめている。
それは到底、魔法少女に勇気づけられた人の顔ではなかった。
「な、なによ……」
おどおどとママは狼狽えた。皆の反応が予想外だったのだろう。怖気づくだけならまだしも、自分から離れていこうとするなど、考えてもいなかったはずだ。
ママの脳裏には、無条件に祝福される魔法少女の姿が浮かんでいたに違いない。可愛らしい衣装の魔法少女は誰からも愛されるはずだった。彼女の言うことに、人々は手放しで喜んで従うはずだった。
ママの考えていることはよく分かる。
私達が毎日一緒に見ていた魔法少女のアニメは、全部そんなストーリーだったから……。
「聖母様」
パッとママが顔を上げた。新たに聞こえた第三者の声に、救いの光を見出したように瞳を輝かせて振り返る。
それは建物の中からずっと一部始終を眺めていた信者達だった。黎明の乙女の本拠点。そこからぞろぞろと、外にいる市民達と同じほどたくさんの人々が現れる。
自身の確実な味方の姿に、ママの顔がほっとあからさまなほど明るくなった。
「あ……ああ、あなた達。この姿でも私だって分かるのね……。見ていたのでしょう? お願い、どうかこの怪物を殺すのを手伝って」
「聖母様」
「そこの男達も全員殺すのよ。あなた達なら簡単でしょう? まさか罪悪感なんて感じないわよね。ほら、早く……」
「私達を騙していたのは本当ですか?」
「っ、え」
ひくっとママの笑顔が強張った。伸ばしかけていたママの手が空中で止まる。誰も、その手を掴もうとする信者はいなかった。
信者達の表情は真っ黒に染まっていた。ようやくそのことに気が付いたママの顔が、みるみるうちに青ざめる。
失望だ。
彼らの真っ黒な顔に浮かんでいたのは、神様と慕った女に対する失望だった。
「聖母様」
ドン、とママの体が揺れた。何が起こったのか一瞬私達にも分からなかった。
だが数秒の後。みるみるうちにママの呆けていた顔が苦悶に歪んでいく。
「ギャアアッ!」
ママの背中から血が噴き出した。絶叫して崩れ落ちるママの頭上に、真っ赤に濡れた羽がぶちぶちと音を立てて撒き散らされる。
ママの背後に人が立っていることに気が付いた。
その人が包丁でママの片翼を切り裂いたのだと気が付いた。
「お慕いしておりました。聖母様」
それは千紗ちゃんのお母さんだった。
誰よりも聖母様を慕っていた彼女は今。ゾッとするほど温度の抜け落ちた顔をして、ママの翼に包丁を突き立てていたのだ。
「あなたのことを心より愛しておりました」
「ひゅ…………」
「それなのに、どうして」
「ひ……ひ……」
ママはガクガクと震えながら振り返る。残ったもう片方の翼もしわくちゃに縮めて、震える眼差しで千紗ちゃんのお母さんを見上げる。
無残に乱れたピンク色の髪がママの顔半分を覆い隠す。隙間から覗く瞳が大きく見開かれている。
まるで幽霊を見たかのようだった。実際、そうなのかもしれない。
ママは千紗ちゃんのお母さんを地獄に捨ててきたのだから。
聖母様の生まれ育った星尾村の日本家屋。
暗く湿ったあの地下室。
土壁や糞尿をすすって生き長らえていた自分の母親への、新たな餌として置いてきたのだから。
「どうして私をあんな地獄に置いていったのですか」
じっとりと湿った殺意がママを追い詰めていた。
井戸の底より暗く冷たい目で見下ろされたママは、魔法のステッキを振り回すこともできず、脂汗にまみれて千紗ちゃんのお母さんを見上げていた。
あの地獄を体験した彼女が生きていると思っていなかったのか。あるいは助け出されたところで精神が狂ってもう駄目になっているだろうと思い込んでいたのか。少なくとも、自分に歯向かってくることはないと思っていたのだろう。
地下室に置いてきた女。彼女が牙を剥く姿に、ママは掠れた悲鳴を飲み込んで、呟いた。
「…………おかあ、さ」
見開かれたその瞳に映っていたのは、きっと千紗ちゃんのお母さんではない。
糞尿にまみれ、垢で肌を真っ黒にして笑う、地下室に置いてきた母親の姿だったのだろう。
ママの片翼がもがれた。
絶叫がとどろく。飛び散る鮮血に顔を真っ赤に汚しながら、千紗ちゃんのお母さんは半泣きで笑っていた。
「この、神様気取りの、キチガイ女が」
ママは他人をあなどっている。
人々が無条件に自分を慕うと思い込みすぎている。
狂信者だからって最後まで聖母様を慕うとは限らない。自分が作った宗教は最後まで崩れないと信じ切っている。
確かに宗教は強い。強いからこそ、その分脆い。
信仰は一度崩れれば恐ろしい憎悪に変わると、ママは知らなかったのだ。
「――――ッ、あ゛あああ!」
ママの口から、ぐらぐらと煮立った怒りの絶叫がほとばしる。
直後、ママの体から二つの攻撃が放たれた。
ぶわりと背中に残っていたもう片方の翼が膨らむ。ピンと立った羽の一つ一つが鋭く尖り、獰猛な速度で、千紗ちゃんのお母さんの心臓を狙って振り落とされた。
同時に、右手に握られていた魔法のステッキが眩しく光り出す。ピンク色の光線が膨らみ、魂をも焼き落とすほどの熱量が、周囲の人々に向けて放たれた。
翼の攻撃と、魔法の攻撃。ママはきっとその攻撃で全てをなかったことにする気だった。教会で初めて変身したときのように、都合が悪いことを全て、魔法で焼き尽くすつもりだったのだ。
だが二つの攻撃は、千紗ちゃんのお母さんにも、人々にも当たらなかった。
「…………は」
分厚く漂っていた土煙が晴れたとき。全身を汗でびっしょりと濡らし、荒い呼吸をしていたママが見たのは、
「ギャウ。ゴゴウ」
「キューッ。ウゥゥ……」
二体の怪物が人々の前に立っている姿だった。
分厚い獣毛を逆立て、牙を剥き出しにして唸る魔法少女イエローが、千紗ちゃんのお母さんを足元に隠すように立っていた。羽に貫かれた胴体からはボタボタと血が流れているが、彼女はまっすぐに目をぎらつかせてママを睨みつけていた。
ゼリーみたいな体を揺らしてゴポゴポと触手を泡立てる魔法少女ブルーが、人々を背に庇うように立っていた。魔法の光を浴びた半身はドロドロに焼け溶けてしまっていたが、青黒い泡がたって、鋭くママを睨む眼球が復活していく。
二体の怪物が、魔法少女の攻撃から人々を守っていた。
「は……地金が出たなぁ、魔法少女……」
とろけるように甘い声で黒沼さんが言った。だらだらと腕を伝って流れる彼の血が、握られた銃口から地面に垂れていく。
ママは黒沼さんを見つめた。疲労で真っ白になった顔は汗ばみ、乱れたピンク色の髪が張り付いていた。
「何が言いたい……」
「『見た目じゃない。大事なのは、行動だ』だったか……」
「だから、何を……」
「……今のお前の行動は、『魔法少女』らしいか?」
パチ、とママが目を丸くした。その表情があどけない少女のように幼くなる。きょとんと呆けたような顔で、ママはゆっくり周囲に目を向けた。
この場にいる全員がママを見つめていた。
彼女を尊敬の眼差しで見つめている人は一人もいなかった。
ママが自分達を殺そうとした瞬間を、怪物が自分達を守ってくれた瞬間を、彼らは自身の目で見つめていたのだから。
魔法少女に向けられていたのは。圧倒的な、恐怖と憎悪の視線だけだった。
「あっ」
ママが小さな声をあげた。
ずっとその顔に浮かんでいた余裕の表情が、ぼろりと音を立てて剥がれ出す。
「……逃げるんだ、花子ちゃん」
「…………」
「逃げるんだよ!」
チョコが唾を飛ばして怒鳴った。苛立ちに満ちたその声は、可愛いマスコットキャラクターがあげるような声では決してなかった。
ママが片翼を大きく広げる。辛うじて残った翼一枚で、彼女はよろよろと不格好に、空へ飛びあがろうとした。
「逃げても、どうしようもないんだぜ……」
びしゃり、と重たいものが血に落ちる音がした。
振り返った私と湊先輩は、真っ白な顔で血だまりに倒れる黒沼さんの姿に息を呑む。
黒沼さん、と湊先輩が彼の肩を揺する。だが彼は薄い呼吸をするばかりでぐったりと目を閉じていた。先輩の声に反応もしてくれない。
あの出血量でここまで耐えていたことのほうが奇跡だったのだ。
「嫌だ……お、起きてくださいよ。黒沼さん……」
「…………」
「ねえ、起きてくれよっ!」
限界だったのだ。湊先輩は顔をぐしゃりと歪め、黒沼さんの肩に額を埋めた。嫌だ、嫌だ、と湿った声で繰り返される彼の泣き声に、私も耐え切れず涙を流す。
冷たくなっていく彼の体に縋りつければ、むせかえる血の臭いに混じって、彼がいつも吸っている煙草の香りがした。
……彼と出会ったばかりの頃。
そう、そうだ。私達だって最初、彼のことをずっと悪い人なのだと誤解していた。
見た目が怖いから。胡散臭いから。だからきっと私達を捕えようとする悪者なのだと、皆で怯えて逃げていた。
ごめんね黒沼さん。
そんなことなかったのに。
あなたは本当は。どこまでも、私達の味方だったのにね。
「悲しんでいる場合か?」
声が上から降ってきた。
その人は私達の首根っこを掴み、乱暴に黒沼さんの体から引き剥がす。私達と交代するように黒沼さんの傍にしゃがみ、靴底を冷たい血で濡らす。
重たい溜息を吐いた澤田さんは、じっと無言で黒沼さんの顔を見下ろしていた。
「黒沼」
平坦に名を呼んで、澤田さんはそっと彼に手を伸ばす。
「……お前だけ格好つけやがって」
ふっと微笑んだ彼は、黒沼さんの体に触れることなく、血だまりに落ちていた銃を拾い上げた。
振り向きざまに引き金が引かれ、銃口から飛び出した弾丸が、空へ飛び立とうとしていたママの脇腹を掠めた。
あっ、とママが悲鳴をあげる。傷はない。だが突然飛んできた銃弾にママはバランスを崩し、がくんとその高度を下げる。
「逃げてもどうしようもねえよ!」
澤田さんが吠えた。
まるで黒沼さんの言葉を受け継ぐように、彼は獰猛に笑って言った。
「いくら聖母を名乗っても本性は誤魔化せない! 見た目の皮なんてすぐに剥がれて、最後に残るのはそいつの中身だけだ。どこまで逃げても、新しい信者を獲得しようとしても、この子達はどこまでもお前を追いかける!」
どす黒い獰猛な声に誰かが悲鳴をあげた。
ビリビリと空気を震わせるほど威圧感のある澤田さんの声が、まっすぐママへと突き刺さる。
ママは澤田さんを睨みつけていた。だがそんなものは虚勢だった。爆発するような澤田さんの大声にママが怯えているのだろうことは、小刻みに震えている体を見ればよく分かった。
「お前の栄光ももう終わりだ」
「な、なん……」
「お前をその絶頂から引きずり下ろす」
「…………」
「本物の魔法少女がな」
バチンッと澤田さんが私の背中を叩いた。
一瞬息が止まりそうになる。涙が出そうになるのをぐっと堪えて、私は燃えるような背中の痛みに背筋を伸ばした。
ジン、と痺れる熱が走る。だけどそれは彼なりの応援だった。そのことが、私にはよく理解できていた。
「行け、魔法少女!」
魔法少女の鼓舞よりも、澤田さんの応援の方がずっと乱暴で獰猛だった。
だけど彼の言葉の方がずっと私にやる気を与えてくれた。
そんな。
そんな力強い澤田さんの手の横に。
そっと、弱々しい手の平が触れた。
「…………頑張れ」
は、と私は息を吸った。
次に吐き出した息は、情けないくらいに震えていた。
細長く冷たい指。弱々しいその感触が、私の背中をジンと痺れさせる。
それは黒沼さんのものだった。
震える私の背中を。黒沼さんの応援が、押してくれた。
「頑張れ。魔法少女」
私は駆け出した。
地面を蹴って。まっすぐに前を見て。歯を食いしばったまま走った。また高く飛んで逃げようとするママめがけて、全力で。
黒沼。
背後から聞こえていた声が騒がしくなっていく。湊先輩が必死に彼の名前を呼ぶ声が聞こえて、鷹さんの嗚咽が聞こえて……。何度も必死に呼ばれる黒沼さんの名前に、見開いた私の目からボロボロと涙があふれた。
だけど、私は振り返らない。
たった一度も黒沼さんを見ることはない。
ただ、目の前の魔法少女を捕えることで必死だった。
彼は私に「頑張れ」と、言ってくれたから。
「ありすぅ!」
近付いてくる私にママがステッキを振り上げた。ひびだらけになったステッキの先端から、力強い魔法の光が放たれる。
けれどその寸前、私は地面を抉るように蹴って飛び上がっていた。足元を焦がす魔法を一切気にせずに、宙へ浮かぶ魔法少女へ手を伸ばす。
私は叫んだ。
「変身」
袖から伸びた黒い触手が、ママの足を掴んだ。




