第87話 誤った矛先
「っ…………」
湊先輩の肩から一筋の血が伝う。
指先に触れたその血は燃えるように熱かった。
私は湊先輩の背中に抱き着き、玄関にへたり込んでいた。彼の胸に回した両手には、バクバクと激しい心音が伝わっていた。
「…………」
玄関の前には男が立っていた。
私達は茫然と座り込んだまま、見知らぬ男と、その手に握られたナイフを見上げていた。湊先輩の肩を掠めたその切っ先からは、薄く血がしたたっている。
あと一瞬でも湊先輩の背を掴むのが遅かったら。きっと、そのナイフは彼の頭に深々と突き刺さっていたことだろう。
「外に出るな!」
横から飛び込んできた湊先輩のお父さんが、男の手からナイフを毟り取った。
あっと男が声をあげる。けれど彼はすぐ血走った目をお父さんに向け、武器を取り返そうと、乱暴にその頬を殴った。
「父さ、」
思わず玄関から飛び出そうとした湊先輩は、一歩外に出た瞬間ビタリとその動きを止めた。
立ち尽くす彼の横から外が見える。その先の景色を見て、雫ちゃんが小さな悲鳴をあげた。
外には大勢の人がいた。
数人やそこらの話ではない。みちっと密集したたくさんの人々が、建物から出てきた私達に充血した視線を向けているのだ。
老人も若者も、誰もが真っ赤な顔をして息を荒くしている。皆の手には刃物が握られていた。ナイフに鎌にハサミに、家から持ち出してきたのだろう武器が切っ先をこちらに向けている。
私達が建物から出た途端、彼らは一斉に大声で喚き出した。咄嗟に千紗ちゃんが耳を塞ぐほどの声量だった。
何を言っているのかも分からないほどの騒音。
ただ分かるのは、何故だか彼らが酷い敵意を私達に向けているということだ。
外に残っていた大人達――澤田さんと黒沼さんと湊先輩のお父さんが、必死に彼らが建物に入らないよう食い止めていた。彼らの後ろでは晴ちゃんが青ざめた顔で立ちすくみ、彼女に危害が及ばぬよう祥子さんが険しい顔で集団を睨んでいた。
黎明の乙女の仲間か。そう思い振り返ってみるも、信者達もまた、外の集団にぱちくりと目を丸くしているばかりだ。
彼らは武器を手に集まった、ただの一般市民なのだ。
「その怪物を渡せよッ」
がなり立てる声にビクッと背中が跳ねた。
湊先輩のお父さんに取り押さえられたさっきの男が、ギラギラと血走った目で私を睨みつけていた。
「その女だろ。なあ、そいつが元凶だろ。この街がめちゃくちゃになったのは、全部その怪物が原因だろ」
「……あの子を渡して、どうするつもりなんだ」
「決まってんだろ。殺すんだよ!」
私は掠れた悲鳴を飲み込んだ。咄嗟に背中に隠した手を、隣の湊先輩が無言で握ってくれる。けれど、体の冷たい震えは止まらなかった。
男の言葉を筆頭に集団は声をあげる。これ以上街をめちゃくちゃにさせるものか、好きにさせてたまるか……。鋭利な怒声がザクザクと私の胸を刺していく。
彼らのうち幾人かの手には携帯が握られていた。そこに写っている写真は街で暴れている怪物の写真だった。流れている動画は人を踏みつぶす怪物の映像だった。
楽土町を『怪物』がめちゃくちゃにしている。おぞましい姿のバケモノ達を、彼らは恨んでいる。
焼け焦げるような怒りの矛先は、もっとも最初に生まれた怪物へと向けられる。
それだけの話だった。
「お前らにこいつが殺せるのかよ」
千紗ちゃんが身を乗り出して言った。市民達への牽制と私の励ましをかねた半笑いの声だ。だが内心は彼女も緊張しているのだろう。その声は固く張りつめていた。
この街で怪物を憎んでいない市民などほとんどいない。それでも彼らは怪物に立ち向かおうとはしなかった。当然、敵いっこないからだ。未知の怪物にただの人間が勝てるわけがない。怪物退治はあくまで警察や自衛隊に任せるべき領域で、怪物を前にした大半の一般市民は、これまでずっと怪物から逃げていた。
だが今はどうだ。これほど多くの市民達が武器を手に、『直接怪物を殺そうとしてきた』のは初めてじゃないだろうか。
「……俺達じゃあ怪物に勝てっこないって分かってるよ」
男が言った。
地面に押し付けられた顔をぶるぶると震わせて、泣きだしそうに潤んだ瞳でまっすぐこちらを見つめていた。
「変身されたら俺達なんてあっさり殺されるんだ。大勢でかかっても無駄だろ。そんなこと分かってる」
「だったら……」
「でも!」
男は怒鳴った。潤んでいた目からほろりと一粒の涙がこぼれて、彼の頬を流れた。
彼の胸に燃える感情はあふれて、次から次へと涙になって、ボロボロと真っ赤な頬を流れていった。
「もう隠れて怯えているだけは嫌なんだよ!」
涙に濡れた声が空気を打つ。彼の激情を込めた叫びに、私はハッと息を呑んだ。
「俺達は勇気を出さなきゃいけないんだ!」
「勇気、って」
男の声を皮切りに市民達がわっと声をあげた。ぶるぶると震える手に刃物を握って、銀色の刃のキラキラとしたきらめきを、涙に濡れた頬に反射させている。
「私達も勇気を出さなくちゃ」
「逃げるのはもう終わりなんだよ」
「自分達の街は、自分達で守るんだ!」
市民達の間で急速に膨れ上がる『勇気』。
敵いっこないと絶望していた怪物に立ち向かう『勇気』。
人々の感情を動かしたのは、一体なんだろう。
それは、
「だって、頑張ってるじゃないか」
それは、
「だって、あんなに小さな体で、怪物を倒そうとしているじゃないか」
それは。
「――あの魔法少女は。たった一人で、俺達のために戦ってくれているじゃないか!」
魔法少女だ。
彼らの勇気を奮い起こしたのは。たった一人で怪物を倒そうと飛び回る、ピンク色の魔法少女だ。
それに気が付いた瞬間。私は自分の頭から、ザーッと血の気が引く音を聞いた。
街中で暴れているたくさんの怪物達。そこに現れたただ一人のヒーロー。
彼女の戦いは絶望の底にいた人々に希望を与えた。その姿は人々の感情を動かした。
俺だって戦いたい。愛しているこの街を、大切な人達を、私だって守りたい。
勝てっこなくても。負けると分かっていても。それでもあの子のように怪物に立ち向かいたい。
僕達だって『ヒーロー』になりたい。
…………だって彼らは、魔法少女ピンクの正体をなにも知らない。
「…………」
集団の熱はどんどん膨らんでいく。異様な興奮だった。彼らの頭の中ではきっと今、自分達は悪に立ち向かうヒーローに見えているに違いない。間違ってはいないのだ。ただできれば、その対象となる怪物は、私達以外であってほしかった。
集団を無視して先を行くことはできそうになかった。もしもそんなことをしようとすれば、あっというまに銀色の刃の雨が私達に降り注ぐだろう。
どうにかしなきゃ。どうにか……。ドクドクと鳴る心臓を押さえながら必死に考えを巡らせる。多量の汗を額に滲ませた私を見ていた湊先輩が、ぐっと肩を強張らせ、集団に何かを言おうと口を開いた。
「――ええ、その通り!」
そのときだ。
突然吹いた風が湊先輩の黒髪をなびかせた。彼は強風に目をつむり、そして、鼻をスンと鳴らして怪訝な顔をする。
風に乗って、どこからともなく甘い香りがした。
「あ」
私は一つ声を上げた。
視界で認識するよりも先に、この香りの持ち主が誰かを悟ったのだ。
彼女は上空から降ってきた。
「っ」
ふわっと風が舞う。豊かなピンク色の髪の毛が膨らんで、その背に広がっていた羽がゆるりと閉じる。
所々銃弾の穴が開いているせいか白い羽がほろほろと散って……皮肉にも、それは天使が降りてきたかのように、神秘的な光景だった。
バニラと薔薇がとろけるような、甘い匂いは彼女からしていた。
泣きたくなるほど、心地よくて懐かしい匂いだと思ってしまった。
……私が大好きな母親の匂いだ。
「マ…………」
魔法少女ピンク。
全身をピンクと白色で満たしたあどけない顔の少女は、突然私達の前に現れた。群衆から少し離れた場所に。私の目と鼻の先に。
目の前にいる彼女に、何故か私は反応することができなかった。私だけじゃない。すぐ横にいる湊先輩達も、黎明の乙女達も、群衆も……皆が呆けた顔で魔法少女を見つめていた。
「皆が愛するこの街から、気味の悪い怪物を追い払いましょう!」
『魔法少女』の声でママは言った。とろけるような光を振りまいて、アイドルのように群衆に微笑んでいる。すぐ近くにいる娘のことなど一目も見ずに。
彼女はくるくると踊るように笑う。華奢な肩の上で、チョコもニコニコと楽しそうに笑っていた。彼もまた、私のことは一目も見ていなかった。
「怪物はやっつけなくちゃ」
ココ、とヒールが地面を打つ。動きを止めたママはそこでようやく私を見た。市民達に背を向けた魔法少女の表情が、私達にだけ晒される。
「…………ねぇ、そうでしょう? 縺ゅj縺」
ぞわっと全身に鳥肌が立った。
なぜならその瞬間のママの顔は。到底魔法少女とは思えぬほどに、■■■な笑顔だったからだ。
「ゴガウ!」
ドン、と後ろから爆発音に似た足音が聞こえた。次の瞬間玄関の扉を吹き飛ばし、半分怪物化した千紗ちゃんが魔法少女に飛びかかる。
彼女の鼻から下は獣の形に変わっていた。ガパリと大きく開いた口から、唾液に濡れた鋭い牙が光る。
高速で飛び出した千紗ちゃんの牙が、魔法少女の柔い喉に触れる、その寸前。
ママの喉が破けるより、放たれた魔法が千紗ちゃんの脇腹を撃つ方が早かった。
「ギッ」
ママは千紗ちゃんが攻撃してくることを分かっていたようだった。腰から抜かれたステッキの放つ、ロマンチックなピンク色のきらめきが、生々しい血肉を飛ばす。
バランスを崩した千紗ちゃんはそのまま地面に倒れ込んだ。ママは自然な動きで彼女を避けるふりをしつつ、千紗ちゃんの脇腹をヒールで踏みにじる。千紗ちゃんはカッと目を見開き、苦悶の声をあげた。
「やめて!」
千紗ちゃんを追うように飛び出した雫ちゃんがママに近付く。その腕が青く輝いたかと思うと、人間の手の形から、青黒いタコの触手に変わる。
雫ちゃんはそのままママの頬をぶとうとした。空を切って向かっていくその触手を、ママはあっけなく手で掴み、そのまま握り潰す。
血にぬれたママの手が雫ちゃんの髪を掴む。あっと声をあげた彼女の体を、そのまま全力で地面に叩きつけた。
「…………」
地面に倒れて呻く二人を、私は茫然と見つめていた。
千紗ちゃんと雫ちゃんは弱くない。半分だけとはいえ怪物に変身していた彼女達の力もスピードも、相当のものだったはずだ。
それなのに。こんなにも、あっけなく。
じっとりとした重圧が心臓を押し潰す。はくはくと浅い呼吸を繰り返しながら、私は真っ白になった顔でママを見つめた。
「感動したわ!」
突然ママが叫んだ。強張っていた体をギチッと揺らし、私は思わず掠れた悲鳴をあげる。
ママは、うっとりととろけた微笑みを市民達へ向けていた。
「あなた達は弱くない。勝てっこないなんて言わないで。一人一人が力を合わせれば、きっと怪物だってやっつけられる」
「…………」
「この街を壊す怪物をあなた達が倒すのよ。あなた達、自身の手で!」
「…………ぅ」
じわ、と目に涙が滲んだ。食いしばった唇から薄く血の味がした。
白々しい発言がどうしても許せなかったのだ。
ママは怪物を『倒す』と言う。『殺す』とは言わない。意味は同じであるはずなのに、市民達が少しでも罪悪感を覚えないように、わざと使い分けているのだ。
ママを見つめる市民達の目にはキラキラと光が灯っていた。彼女の演説に感動しているのだ。鼓舞を受けた市民達は熱い涙を浮かべ、力強く武器を握りしめる。
……何度も同じことの繰り返しだ。
皆、理由もなく魔法少女を肯定する。意味もなく怪物を否定する。
私は楽土町を守りたいだけなのに。
街を壊そうとしているのは、ママの方なのに。
「いいかげんに、してよっ!」
怒りを抑えきれなかった。私は血管の浮いた拳を握りしめ、ママに殴りかかろうとした。
けれどママは簡単に私の手首を掴む。あっと思う間もなく、ピンク色の爪が鋭く手首に食い込んだ。
「っ!」
「あら、嫌だ。反抗期?」
ママがそっと私の耳元に唇を寄せてささやく。震える私の手首から細い血がしみだすのを見た湊先輩が、血相を変えてママに掴みかかろうとした。
だが、そんな彼の手を払ったのは、ママの肩に乗っていたチョコだ。
「やめなよ湊くん」
「チョコ……!」
「邪魔をしてあげるな。二人は親子の会話をしているんだぜ」
湊先輩は顔を真っ赤にしてチョコを睨む。チョコは構わず、ふわふわと楽しそうに笑っていた。それは明らかな牽制だった。彼がもう一歩魔法少女に近付こうとすれば、ママの魔法が彼の心臓を貫くことだろう。
私は赤く潤んだ目でママを睨んだ。ママはそんな娘の反応に、ただくすくすと笑うばかりだった。
「怪物が何を言ったって無駄よ。あなた達の声は、誰にも届かないの」
怖いくらいに優しい声だった。
まるで子供を諭す親のような顔をして、ママは私の頬を撫でる。
「結局人は見た目に騙される」
「ち、違う」
「醜い怪物が声をあげたって、意味なんてない」
「違う!」
「怪物は魔法少女には勝てない」
「ちが、っ。……あ」
ピンと張った紐が私の喉を圧迫した。ママが、私の首に下がっていたカメラのストラップを引っ張ったのだ。
そのまま私の体は勢いよく放り投げられた。
「あ」
魔法少女に変身したママの力は強く、私の体はあっさりと遠くへ放り投げられた。
地面に強かに体を打ち付ける。激しい痛みを食いしばって飛び起きた私は、周囲に広がるたくさんの足にハッと顔を上げた。
倒れる私を大勢の市民達が見下ろしていた。
私は集団の中に放り投げられたのかと、そのときに気が付いた。
「さあ皆、勇気を出して」
人ごみの向こうからママの声が聞こえた。唖然としていた人々が、その言葉に動き出す。
彼らの目は血走っていた。彼らの涙に濡れたたくさんの刃物が、切っ先を私に向ける。
「やっつけましょう。この街に平和を取り戻しましょう。ほら、ほら!」
ありすちゃん。
千紗ちゃんと雫ちゃんの切羽詰まった悲鳴が聞こえた。湊先輩が人を掻き分けてこっちに向かってくる様が一瞬だけ見えた。
だけど……ああ、ごめんね。刃物が降り注ぐのが先だと、私には分かってしまうのよ。
髪を掴まれて、腕を拘束されて。それでも私は目をつぶらず、私を殺そうとする人々の泣き顔だけを見上げていた。
湊先輩達が叫ぶ私の名を掻き消すほどの怒号。
その声の中でも、ママの楽しそうな声だけはクッキリと耳に届く。
「怪物を倒すのよ!」
……結局ママは最後まで、私を怪物と呼んだ。
そして、刃物の雨が降ってくる。
「…………」
痛みはなかった。何も感じなかった。刃物が肉に突き刺さる音がしたはずだけれども、遠くなっていた私の耳には、何の音も聞こえなかった。
ただ大量の血が降ってきて、私の体を濡らしていくのだ。
「…………は」
刃物を握る集団は茫然とこちらを見下ろしていた。その顔は次第に青ざめ、一人、また一人と、血まみれの刃物を落としながら後ずさる。
「あ、……な、なんで」
濃厚な鉄の臭いが鼻を突いた。衣服はぐっしょりと血に濡れて重くなっていく。次から次へと溢れる血が、私の周囲に水たまりを作っていく。
なんで、ともう一度言った。それからもう一度、悲鳴に似た叫び声をあげた。
「なんで!」
私は震える指先を伸ばす。
私に覆いかぶさるその人の背中を抱きしめる。
私の体を濡らすのは全てその人の血だった。
青ざめる私の頬を、彼の指が、優しく撫でた。
「……無事か?」
血まみれの黒沼さんは、そう言って微笑んだ。




