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変身しないで縺ゅj縺ちゃん  作者: 夜明
最終章 変身しないで、ありすちゃん
90/99

第86話 『聖母様』の終わり

 海の香りがする。

 海底で死んだプランクトンの生々しいにおいが、周囲に広がっていた。

 それは心臓の底がゾッとするようなおぞましい香りであり……同時に、どこか、懐かしさを感じさせるにおいだった。


「…………」


 広場に避難している皆は、茫然と目を丸くして、突然現れた二体の怪物を見つめていた。

 こちらに迫ってこようとしていたビルよりも巨大な怪物と。そして、その怪物の前に立ちはだかるタコのような、魔法少女ブルーを。

 深い青色の触手がツヤツヤと光っている。

 青みがかった粘液を垂らしながら、丸太のような触手がずるりと地を這った。

 魔法少女ブルーは、そのグロテスクなタコのような体を震わせながら、こちらに迫る怪物を睨むように見上げていた。


「――お姉ちゃん!」


 晴ちゃんの声が飛んだ。

 その瞬間魔法少女ブルーはドンッと地面を蹴って、自分よりも遥かに巨大な怪物へと飛びかかった。


「!」


 ズルンッと彼女は触手を滑らせて敵の怪物の体をよじ登った。ゴワついた毛にぬるりとした粘液を垂らし、凄まじい勢いを付けて駆け上がる。

 ゴウッと風を切って登っていく魔法少女ブルーの背に、晴ちゃんは必死でしがみ付いている。

 敵の怪物は唾を飛ばして暴れた。身をよじり、腕を振り回し、なんとか彼女を引き剥がそうとしている。巨体故にその動きは遅い。だからブルーちゃんも攻撃をギリギリで避けている。


「今のうちに避難するんだ!」


 黒沼さんが周囲に怒鳴る。

 二体が戦っている今がチャンスだった。巨大な怪物はブルーちゃんに夢中で広場には近付いてこない。この隙に、なんとか全員を避難させることができるかもしれない……。

 だがそう思った次の瞬間。振り下ろされた怪物の爪の先端が、晴ちゃんの額を掠めそうになった。


「ギイィッ」


 甲高い声はブルーちゃんの声だった。晴ちゃんを庇って伸ばした触手が二本、敵の爪先に持っていかれてしまったのだ。

 ブルンッと千切れた触手が怪物の体を滑り落ちる。それはドチャリと地面に落下し、巨大な怪物の足に踏み潰された。


「逞帙>ッ」

「お姉ちゃん!」


 ブルーちゃんの千切れた触手は瞬く間に生え変わる。少し色の薄い触手がじゅるりと生え、新たなその腕を使って彼女はまた怪物の体をよじ登ろうとする。

 だが今度は、敵の振り下ろした拳がモロにブルーちゃんの体を貫いた。


「……あぁ」


 誰かが絶望の溜息を吐いた。

 どろっとした絶望の混じったその声は、周囲にばしゃばしゃと降り注ぐ水の音に掻き消された。

 雨は降っていない。

 魔法少女ブルーの飛び散る血液の音だった。


 周囲の地面は青く濡れていた。彼女の破片が、大量に散っているからだ。

 千切れた触手。頭皮の欠片。大量の青黒い粘液。攻撃を受けて千切れた彼女の肉片が、小さな山を成すほど散らばっている。

 魔法少女の中でブルーちゃんの体は一際もろい。巨大なあの怪物の爪先が掠めただけで、簡単に触手が弾けてしまうのだ。

 周囲には濃厚な海のにおいが満ちている。

 まるで、溺れているみたいだ。


「駄目だ……」


 祥子さんのお父さんが、怪物達の戦いを見て苦しげな溜息を吐いた。

 避難はまだ終わっていない。怪物同士の争いという時間稼ぎが終わってしまえば、途端にどちらかの怪物が広場を襲撃に来るだろうと、そう思っているのだ。


「あの怪物なら大丈夫よ」


 カツンとした声が空気を叩いた。

 祥子さんが、二体の戦いを見つめながら言ったのだ。

 吹き荒れる砂ぼこりがびゅうびゅうと彼女の長い髪をなびかせる。金色の砂塵は、彼女の茶色い髪に絡みついて、キラキラと星のように瞬いていた。

 キョトンとする父親に向け、祥子さんは強気に笑う。


「あの子を誰だと思ってるの」

「あの子? ……ただの怪物だろう。あれは」


 祥子さんのお父さんはぼんやりと言った。

 まっすぐな視線は雫ちゃんに注がれている。冷たい海から這いずり出てきたような、青黒い、恐ろしい姿の怪物に。

 いいえ、と祥子さんは父親の意見を静かに否定した。お父さんは怪訝に顔をしかめる。


「彼女は味方よ」

「彼女?」

「あの子は敵をやっつけてくれる。私達を絶対に守ってくれる」

「……どうしてそう言い切れる?」

「だってあの子は本物の魔法少女だもの」


 祥子さんはまっすぐブルーちゃんを見て言った。


「応援するほど強くなる。何度だって立ち上がる。そして最後は、必ず勝つ」

「…………」

「魔法少女ってそういうものでしょう?」


 祥子さんのお父さんはぽかんと娘を見つめていた。祥子さんはそんな父親の顔に微笑んで、それからまた魔法少女ブルーちゃんを見上げ、ゆるく唇を開いて吐息を吐き出した。

 それは音のない声援だった。

 頑張れ、と。彼女の唇がそう動いたように見えた。


 私はそんな彼女を見つめて、ふと思う。

 もしかしたら祥子さんも子供の頃は。テレビの前に座って、おもちゃのステッキを振って一生懸命に魔法少女を応援する子だったのかもしれないな、と。

 私と同じように。



「負けるな、お姉ちゃん!」


 鋭い声が空気を切り裂いた。ハッとした人々が、声につられるように怪物を見上げる。

 魔法少女ブルーはいまだ怪物の体にしがみ付いていた。その背中に乗っている晴ちゃんは、姉の血液やら肉片やらを浴びて、全身が青黒く染まっていた。

 二人はギラギラと光る目で相手を睨みつけていた。

 何度体を千切られても、幾度と姉の血を全身に浴びても、その瞳には一切の怯えなど浮かんでいなかった。


「縺セ縺代※縺溘∪繧九°ッ」


 ブルーちゃんがゴウッと吠えた。彼女は触手を強く打ち鳴らし、巨大な怪物の体を一気に駆け上がる。

 振り下ろされた爪が彼女の触手を三本えぐる。けれど彼女は立ち止まることなく、欠けた体のまま、上を目指して駆け抜けた。

 狙いは怪物の頭だ。

 巨大な体に半端な攻撃は効かない。だが、頭部なら。弱い眼球や脳天を狙えば、半端な攻撃だって致命傷になりえる。

 ついに魔法少女ブルーは怪物の頭部に辿り着いた。ブクッと体を膨らませ、ため込んだ一撃を相手の鼻先に叩き込もうと……、


「雫ちゃん!」


 突如、猛スピードで動いた相手の口が、ガチンとブルーちゃんの体を噛んだ。

 彼女の体半分が持っていかれる。彼女の体がビクンと大きく痙攣する。ぶるりとしたゼリー状の肉片が、怪物の歯の隙間からボタボタと落ちて地面に潰れた。

 紙一重で牙は晴ちゃんには当たっていなかった。半分になってしまった姉の上で、彼女の顔が青ざめる。

 巨大な怪物の眼球が、ギョロリと晴ちゃんを見つめる。

 ターゲットを雫ちゃんから晴ちゃんに変更したのだ。

 そんな怪物の左の眼球を、ブルーちゃんの口から飛び出した液体が青く塗りつぶす。


「繧ョ繝」繧「!」


 妹を守るため魔法少女ブルーが放った渾身の水鉄砲は敵の眼球半分を潰した。

 目の前で姉が吐き出した攻撃を見て。一瞬。晴ちゃんが表情を変えた。


「っ」


 彼女は弾かれたように立ち上がる。そして、巨大な怪物も、大怪我を負った姉のことも見ず、ぬるついた足場を駆けてそのまま大きく飛び上がる。数メートルは離れているだろう、近くのビルの屋上めがけて。

 地上数十メートル。落ちたら確実に絶命する高さの、深い深い崖。

 晴ちゃんは勇気を振り絞ってその崖を飛んだのだ。


「うおわああ!」


 空を飛ぶ彼女の服がぶわっと膨らむ。数メートルの長い距離を、彼女の小さな体が飛んでいく。

 魔法少女ブルーちゃんの攻撃に叫んだ怪物の吐息。その分厚い風が、彼女の背中を押したのだ。

 それがなければきっと晴ちゃんの足はあと一歩、屋上に届かなかっただろう。

 晴ちゃんの足がビルの屋上を踏む。彼女はそのまま、怪物の攻撃でボロボロになった屋上に落ちていた、大きな瓦礫を拾い上げた。


「こっちだ!」


 晴ちゃんの投てきが怪物に向かう。声につられた怪物がそちらを見た瞬間。残っていたもう半分の眼球に、彼女の投げた瓦礫がめり込んだ。

 巨大な咆哮が地面を揺らした。ぐらぐらと揺れる地面に膝を付いた私達は、両目を瞑って吠える怪物の巨体を見上げた。

 怪物は目を瞑ったままぐるりと体を回した。大きく腕を振って、ビルごと晴ちゃんを攻撃しようというのだ。猛スピードでビルに迫る腕に、晴ちゃんはキツク目を閉じる。

 だが腕がビルに激突する寸前。怪物の体が大きく傾いた。


「あっ」


 何が起こったのか。両目を失った怪物はきっと分かっていない。

 だが、地上にいた私達にはよく分かっていた。

 地面に広がる魔法少女ブルーのぬるついた肉片と血液は、巨大な足をよく滑らせる。


「倒れるぞ!」


 澤田さんが叫ぶ。

 それとほぼ同時に、怪物の体は轟音と共に地面に倒れた。

 ドンッと跳ねた地面に私達は倒れ込む。強かに後頭部を打ち付けた怪物の吐き出した唾が、べちゃついた雨のように降り注いだ。

 そんな中で、この場の何人かは空を見上げていた。私もその一人だった。

 だから見えた。空からまっすぐ落下してくる、もう一体の怪物を。


 空中でブルーちゃんの体はぼこぼこと再生していた。だが再生している場所は千切れた体半分じゃない。既に生えていた一本の触手に再生した皮膚がくっついて、更にぼこぼこと大きく膨れ上がっていくのだ。

 怪物の脳天めがけて振り下ろされた触手は、まるで巨大な拳のようだった。


「――――ッ!」


 ドゴンという凄まじい音が響き渡った。爆発した衝撃は、さっきの地震以上の威力となって、私達の体を吹き飛ばす。

 数十メートルの落下衝撃。プラス、魔法少女ブルーの巨大な拳。それがまっすぐ巨大怪物の頭部へと叩きこまれた。

 勝敗がついた。


「…………」


 巨大な怪物は、もはやピクリとも動かずに地面に伏せていた。口端からだらりと垂れた黒い舌先から白泡が零れ落ちる。

 どろりと怪物の体が溶け始める。みるみるうちに怪物の体は萎み、何十メートルあったかという巨大な体は、二メートルにも満たない男の姿へと戻った。

 魔法少女ブルーの体も緩やかに溶けていく。どろっと青黒い粘液が流れ、その中から少女の形が現れていく。


「……はっ」

「雫ちゃん!」


 人間の姿に戻った雫ちゃんはへたりとその場に座り込んだ。私と湊先輩は慌てて彼女に駆け寄る。

 粘液に濡れた長い髪が彼女の横顔を覆っていた。ぽたぽたと汗のように流れる液体は、星明りを浴びて、青色に透き通るのだ。

 彼女はまつ毛を震わせてゆっくりと目を開けた。私達の顔を見て、ゲホッと一度咳き込む。


「……広場の人達は?」

「無事よ、皆」

「避難ももうすぐ終わるよ。君が時間を稼いでくれたから」

「そう……」


 よかった、と彼女は薄氷のように声で呟いた。

 疲労に青ざめていたその頬にうっすらとピンク色の朱が差した。

 とろけるように微笑むその顔は。私が見てもドキリと心臓が跳ねるほど、優しく美しい顔だった。


「……君達は」


 ふと、その声に顔を上げる。

 私達の背後には祥子さんのお父さんが立っていた。彼は茫然とした眼差しで、倒れる信者の男と、雫ちゃんの姿を交互に見つめていた。

 私と湊先輩は思わず顔を見合わせる。湊先輩が立ち上がって、全てを彼に説明しようと息を吸う。


「全部説明するわ、パパ」


 だけど祥子さんがそれを制するように私達の前に立った。

 彼女はまっすぐに父親を見つめ、それから広場の出口で怪物の戦いを見守っていた市民達にも視線を向ける。


「ちょっと不思議なお話よ。でも信じてほしいの。この子達が何者で、これから何を成そうとしているのか」

「…………」

「全部聞いて。そして、協力して」

「……協力?」

「本物の魔法少女が、偽物の魔法少女を倒せるように」


 祥子さんの語る声は静かだった。雨音よりも細やかな声が、淡々と私達の全てを語り出す。

 怪物の戦いを見つめていた人々は、祥子さんの語りに一度も口を挟まなかった。祥子さんの父親も、何も言わずに娘の話を聞いていた。

 誰もがただ静まり返って祥子さんの話を聞いているのだ。

 ……彼女の言葉がどれほど皆に届くかは分からなかった。今にも反感の声が上がるのではないかという不安はあった。

 けれど私達はその不安に気付かぬフリをして、倒れる黎明の乙女の信者の介抱をしたり、ビルの内側を通って降りてきた妹と喜びの再会をする雫ちゃんを見つめていた。


「…………」


 視界に影がかかって、顔を上げる。

 今度倒れる信者の男を見つめていたのは千紗ちゃんのお母さんだった。

 彼女は震える目で男を見下ろした。血色を失った唇を嚙み、震える指先で男の頬に触れる。


「この男も、利用、されていたのでしょうか」


 湊先輩がチラと私を見やる。私は軽く顎を引くように頷いて、無言で千紗ちゃんのお母さんを見つめた。

 聖母様に利用されていたのかと、そういうことだろう。


 今夜。聖母様は信者達を怪物に変身させていた。

 大方目星をつけた信者を個室に呼び出し、「夢を叶えるために使いなさい」とかなんとか言って、変身薬を渡したのだろう。

 彼女は今日、楽土町に大量の怪物を解き放ちたかった。己が魔法少女に変身したときに倒す『敵』を作りたかったのだ。

 信者達はきっと彼女に殺される瞬間まで思いもしなかった。

 自分が、聖母様に殺される運命にあるなどと。


「らちが明かない」

「え?」

「このままでは、いつまでたってもあの方の元へはたどり着けない」


 カクリと彼女は首を傾けた。

 月光の陰になった暗い顔を見て、思わずゾッと血の気が引く。

 血の気を失ったおぼろげな顔の中で。その両目だけが、鋭い獣のようにぎらついていた。


「街で暴れている怪物を止めなければ、聖母様とは戦えません」

「じゃあ、どうするってんだ?」


 千紗ちゃんが母親に聞いた。不思議とその声は、どこか楽しそうに弾んでいた。

 お母さんは千紗ちゃんを見下ろす。ナイフの切っ先よりも鋭利な声で、彼女は答えた。


「大元を絶つ」





 ギシ、と廊下の木が軋む。

 お寺のようにしっとりと黒い木の床を、私達は歩いていた。

 深い森のような香りがする。静謐な空気はどことなく居心地が悪く、無意識にかいていた汗が一つ背中を伝った。

 先頭を歩く千紗ちゃんのお母さんはしゃんと前一点を見つめて進む。その後ろを歩く私達は、きょどきょどと落ち着かない様子で廊下を歩く。

 当たり前だった。

 だってここは、黎明の乙女の本拠点なのだ。

 黎明の乙女。本拠点。私達は今、敵の本丸を堂々と歩いているのだ。


 大元を絶つ。そう言った千紗ちゃんのお母さんがやってきたのは、まさか黎明の乙女の本拠点だった。

 ここには以前も来たことがある。教団に入信してしまった雫ちゃんと戦った、ある意味では思い出の場所だった。

 千紗ちゃんのお母さんはあまりに堂々と、正面玄関から入っていった。思わずついてきた私達もポカンとしたまま彼女についていく。流石に全員が入っては何かあったときに困るだろうからと、鷹さんと私と湊先輩、千紗ちゃんと雫ちゃんという比較的少人数ではあったが……あまり意味はないだろう。

 夜間だというのに建物内にはたくさんの人がいた。皆が白い服を着ている中で、私服姿の私達はよく目立った。


「犬飼様っ?」

「…………」

「犬飼様、ご無事だったのですね! お怪我をなされて入院されていたと聖母様にお聞きしましたわ。数ヵ月もお姿が見えず、大変さみしゅうございました……」

「…………」

「後ろにいる方達は? ……え? あ、あ。この方達は、まさか……」

「…………」


 あまりに堂々と歩く私達を信者達も最初は作業員か何かだと勘違いして声をかけてこなかった。だがすぐ、千紗ちゃんのお母さんに気が付いた人達があっと声をあげて駆け寄ってくる。そしてようやく背後の私達に気が付き、私の顔を見て、青ざめる。

 信者の女性が愕然と私を見つめる。彼女はそのまま、震える手を懐に入れ、何かを取り出そうとした。

 じわ、と私の頬に汗がにじむ。背中の筋肉が緊張に張り詰めた。

 彼女の懐からは、ゆっくりと包丁の柄が抜き出されようとしていたのだ。


「聖母様はどちらに」


 ぴしゃりと千紗ちゃんのお母さんが言った。

 ピタと女性の動きが止まる。彼女は戸惑ったように視線を泳がせて、一旦包丁を懐に仕舞い直した。


「本日は来ておりませんわ」

「そうですか」

「あの、後ろの方々は、その」

「客人です。手出し無用にございます」


 威厳のある声だ。千紗ちゃんのお母さんの言葉遣いと女性を見て、私はごくりと唾を飲みこむ。

 千紗ちゃんのお母さんは黎明の乙女の幹部だ。彼女は、聖母様に最も近いと言われている女性である。実質この団体の2番目なのだ。

 だからかと気が付く。

 周囲の信者達は私達を遠巻きに監視していた。その手には、ロープやら包丁やら、物騒な武器が握られている。

 だが誰も私達に襲いかかっては来ない。何故なら私達の前には、この団体のナンバー2がいるからだ。

 何か事情があるのだと誤解してくれているのだろう。


 私達が辿り着いたのは大広間だった。随分と広い空間は畳が広がるばかりで、あとは何もない。

 千紗ちゃんのお母さんは信者の女性に命令してパソコンを一台持ってこさせた。それを広間の中央に置いて、雫ちゃんが持っていたUSBを差す。

 ポン、と軽い電子音がしてライトが青く光った。


「USBを差すというのは、こういうことでよろしいのでしょうか?」

「あ、はい。大丈夫だと……思います。あと二ヵ所。街中のどこかに差せば、後はマスターが何とか」

「この建物の周囲にはあまり住宅などもたっておりません。広く、障害物が少なく、よい場所かと」

「あの、犬飼様? 何をなさって……?」


 信者の女性が怪訝にパソコンを覗き込む。何も開かれていないデスクトップ画面を見て、その眉間にはよけいしわが寄った。

 彼女が前かがみになった拍子に、ポケットから何かがコツンと落ちて畳を転がった。

 千紗ちゃんのお母さんがそれを拾い上げる。小さな小瓶に入った、ピンク色の液体だった。


「あ……それ。聖母様にいただいたものなんですよ」


 女性は微笑んで言った。


「昨日お呼び出しを受けたとき、わたくしにだけ特別だと、くださったんです」

「あなたにだけ?」

「『夢を見ることができる魔法のジュース』だとおっしゃるんです。いざというときにお飲みなさいと。……ふふ、本当は他の方に言ってはいけないのですけれど。犬飼様にだけですよ」


 千紗ちゃんのお母さんは小瓶をじっと見つめた。瓶を揺らせば、中の濃い液体がとぷりと揺れる。隣で同じく小瓶を見つめていた千紗ちゃんが、鼻をスンと鳴らして嫌そうに顔をしかめた。

 直後。千紗ちゃんのお母さんは、表情を一切変えぬまま瓶を壁に叩きつけた。


「な」


 壁に叩きつけられた瓶はあっけなく割れた。

 薄いガラス片が散らばり、ピンク色の液体は畳に沁み込んで、ただの濃いシミに変わった。


「何するのよ!」


 女性の顔色がガラリと変わる。彼女は獰猛に声を荒げ、カッとなって取り出した包丁を容赦なく千紗ちゃんのお母さんに向ける。

 その切っ先が届くより前に、千紗ちゃんがドンッと女性の腰を蹴り上げた。包丁をこぼした彼女はゴロゴロと畳の上を転がり、壁に激突して動かなくなる。

 周囲の空気が一瞬で凍り付いた。

 ギョッとした顔の信者達が一斉に武器を構え、千紗ちゃんのお母さんを睨みつける。


「ち……血迷われましたか!」

「血迷ったのはあの女ですよ」


 千紗ちゃんのお母さんは言った。だがその視線は、転がる女性を向いているわけじゃなかった。彼女の言う人物が誰かを察した信者達の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。

 あの女とは聖母様のことだった。


「私達は騙された。あの女は、私達を救おうだなんてこれっぽちも考えてはいなかった。それだけならばまだいいでしょう。けれどあの女は、私達を、便利な道具としか見ていなかった」

「あなた。あなた、それ、不敬ですよっ。聖母様がお聞きになったら、何と言うか……!」

「あなた達はいつまであの女を慕うのですか」


 口論はじわり、じわりと熱を持つ。信者同士の争いに私達は所在なさげにぎこちなく視線を泳がせた。千紗ちゃんだけだ。ニヤニヤと心底楽しそうに双方の争いを見つめているのは。

 千紗ちゃんのお母さんの変わりように信者達は動揺していた。

 無理もない。これまで教団の中で最も聖母様を慕っていたのはきっと彼女だった。

 それが突然手の平を返して聖母を憎んでいるものだから、不思議でならないのだろう。


「他にもあの女から薬をもらっている人間がいるでしょう?」


 信者達は答えない。だが僅かな衣擦れや唾を飲みこむ音が、広間のどこからか聞こえた。


「夢を叶える薬? 魔法のジュース? 馬鹿なことを。……あの薬はあなた達の体を破壊する。あなた達の体を、人間ではいられなくする。薬物よりももっと酷い代物です。あれは、あなた達を怪物化させる薬だ」

「怪物っ?」

「ええ」

「……馬鹿なことを言っているのはそっちじゃないですか。あの慈悲深いお方が、そんなことをするはずがない!」

「証拠ならありますよ。そうでしょう? 鷹さん、伊瀬さん」


 唐突に話を振られた鷹さんと湊先輩がビクッと肩を跳ねる。


「ジャーナリストとカメラマン。あなた達ならば、こんな状況でもカメラを構えようとする意思に燃えていることでしょう。写真の一つや二つ、ありますよね?」


 二人は顔を見合わせて、それから黙ってゆるゆるとカメラを取り出した。写真を撮るためのものと、映像を残すためのものである。マジで撮ってんのかよ、と千紗ちゃんが笑った。

 千紗ちゃんのお母さんの言う通りだ。戦いの隙間に、彼らは一枚でも多くの記録を残そうとカメラを構えていたのだ。

 燃えるジャーナリズムの魂はどうしたって制御できるものじゃない。


 鷹さんがカメラをパソコンに繋げる。しばしの後、パッと画面に映像記録が表示される。

 おそるおそる遠巻きに画面を覗き込んでいた信者達が、あっと声を上げて仰け反った。


「きゃあっ」


 映っていたのは泡をふいて倒れる巨大な怪物だった。

 その体はみるみるうちにとろけ、中から信者の男が姿を現したのである。


「嘘だろ……」


 映像が切り替わる。また映ったのは、千紗ちゃんが倒した怪物の山が徐々に信者の山に変わっていく場面だった。

 湊先輩が映し出した写真にも同じようなものばかりが写っている。暴れる怪物、倒れる人々、白い服を着た信者達が呻く姿。

 パ、と次に写った写真に皆が目を丸くする。

 そこには、光り輝く乙女が写っていたのだ。


「…………」


 柔らかなピンク色をまとった少女だった。

 長く美しい髪と、桃色の瞳。ピンクと純白色のドレスを着た少女は、キラキラとした星のようなきらめきをまとい、宙に浮いていた。

 魔法少女ピンクを撮ったその一枚は、ハッと息を呑むほどに美しい写真だった。


「……聖母様?」


 誰かが言った。

 その言葉に、また違う誰かが、ぐっと息を呑んで頷く。


「そうだ。……そうだよ」

「聖母様だ」

「神々しいお姿は……このお姿は……まさに……っ」

「ああ……っ。聖母様。なんて素晴らしいお姿なの……!」


 信者達はわっと声を上げて顔に喜色をたたえた。

 誰も、この写真が加工だなんだと無粋なことを言う人はいなかった。

 信じない人は一人もいなかった。

 だからこそ。

 だからこそ、青ざめたその声は、痛々しいほどによく目立った。


「ちょっと待ってよ」


 それは信者の中にいた数人だった。まだ若い、十代か二十代の男女数名である。

 彼らは携帯を手に青い顔をしていた。興奮に水を差されて不服な顔をする他の信者達に、携帯の画面を突きつける。


「これが聖母様なら、これは? 何だって言うんだよ」

「何だって?」

「なんで聖母様が怪物を殺してるんだよ」

「え?」


 SNSの動画が再生されている。荒い画質の中で、魔法少女ピンクが空を飛ぶ様子がぼんやりと映っている映像だった。

 魔法少女ピンクは肩にクマのようなマスコットキャラクターを乗せて空を飛ぶ。ピンク色の魔法のステッキを振り回し、キラキラとした魔法の攻撃を放っている。


『〇■■△×▲△××××!』


 その攻撃は、地面を駆けて逃げていく怪物の体を容赦なく貫いた。


「はっ?」


 怪物が魔法の光に包まれる。断末魔さえ飲み込んで、光はそのまま怪物ごと消滅する。

 魔法少女の活躍を見ていた市民が歓声を上げる。魔法少女はその応援に微笑んで、空を飛んで別の怪物を殺しに向かう。

 それは何も知らない状態で見れば、胸が熱くなるような感動の映像だった。

 知った状態で見れば。それは聖母様が自分の信者を撃ち殺す、殺人ビデオだった。


「…………」


 SNSに慣れている者が別の者に映像を説明する。誰かがテレビを付け、そこに流れている情報を別の信者に伝える。そうするうちに一人、また一人と信者の顔が青ざめていった。

 聖母様の変身に興奮していた彼らの熱は、もうすっかり冷え切っていた。


「私は、いなくなった数ヵ月。聖母様に連れられて行った村で地下室に監禁され、毎日殺されそうになっていたのです」


 千紗ちゃんのお母さんはボソリと語り出した。黎明の乙女を離れた数ヵ月、星尾村の地下室で監禁され、老婆に食い殺されそうになっていた悪夢の日々を。

 彼女の思い出話はまるでBGMのように淡々と語られる。けれどそれは、既に話を知っている私達でさえ吐き気をもよおすほどに、壮絶な話だった。

 信者達の顔がどんどんと青ざめる。耐え切れなかった誰かがうっと吐いて、吐瀉物の臭いがぷんと広がった。頭の痛くなるような話を、けれど信者達は誰も最後まで止めなかった。


「……聖母様が、まさか、そんなこと、するはずが」

「あるのですよ」


 千紗ちゃんのお母さんは言いきった。

 それ以上、信者達は何も反論できなかった。


「もう一度聞きます」

「…………」

「他に、あの女に薬をもらった人は?」


 シンと場の空気が凍り付いた。骨にしみるほど長い沈黙が広がった。

 一人が、おそるおそるといった様子でポケットに手を入れる。そこから取りだした小瓶を、音を立てずに床に置く。

 つられたようにまた一人が薬を取り出した。その隣にいた人は、汚いものを捨てるように薬を放り投げた。そしてまた一人、また一人、また一人。

 誰もが携帯を手にして武器を捨てていた。

 私達に向けられていた敵意は空中を彷徨って、もやもやと渦巻いているようだった。


「あの方は聖母ではない」


 千紗ちゃんのお母さんは言った。

 それは聖母様の声よりもずっと鋭利で冷たく。脳味噌を貫くような声だった。


「あいつは、ただの人間だ」


 吐き捨てるように言った『人間』という響きに信者達の顔色が変わった。

 それはきっとどんな罵倒よりも酷い言葉だった。

 聖母と崇めていた女を。神のように慕っていた人を。『ただの人間』に引きずり下ろし、軽蔑する。

 もしかしたらこの瞬間。私達は、宗教の終わりを目撃したのかもしれなかった。




 ギシ、と廊下の木が軋む。

 廊下を歩いて外に向かう私達に、信者達はもう、誰も近付いてはこなかった。


「これで新たな怪物が出現することはありません」


 黒い廊下に、千紗ちゃんのお母さんの言葉が落ちる。


「無駄な戦いはできるだけしないで。あなた達は、聖母様を倒すことだけを考えればいい」

「……あ、ありがとうございます」

「別にあなた達のためにやったわけではありません」


 くる、と千紗ちゃんのお母さんが振り返る。私達は思わずビクッと足を止め、無表情でこちらを見つめる彼女の顔をじっと見つめた。


「私のためです」

「…………」

「私の夢を叶えるためです。彼女を倒せるのはきっと、あなた達だけでしょうから」

「…………は、はい」

「私のためにあのキチガイクソ女をぶっ殺してください」


 ぶはっと誰かが空気を吐き出して笑った。千紗ちゃんだった。

 彼女はニヤリと笑って母親の隣に立ち、バチンッと凄まじい強さの平手を母親の背中にぶち込む。千紗ちゃんのお母さんは少しも顔をしかめずに娘を見下ろしていた。


「奇遇だな。あたしも、ずっと前から同じことを思ってた」


 千紗ちゃんは笑って言った。そしてそのまま母親にくるりと背を向け、早く行こうぜと近くにいた湊先輩の背中をぐいっと押す。

 湊先輩はそんな二人に苦笑しながら首から下げたカメラを持ちあげる。

 行こうか、と言って玄関に着いた彼はそのまま戸に手をかける。


 覚悟を入れなくちゃ、と私は拳を握った。

 これから先に待っているだろうママとの対決に熱い息を吸い込んだ。

 湊先輩が戸を開けた先に待ち構えているだろう未来に、思いを馳せて――――、


「湊先輩ッ!」

「え」


 私の叫びに湊先輩が足を止める。

 戸を開けた先に待っていたナイフが。湊先輩の頭めがけ、振り下ろされた。

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