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変身しないで縺ゅj縺ちゃん  作者: 夜明
第3章 夢からの目覚め
69/99

第66話 救済

『やっほ伊瀬くん』


 それは。後に僕が知る、黎明の乙女のコンサートが行われる数日前のこと。

 電話から聞こえてくる久しい声は、小さな可愛い友人の声だった。


「晴ちゃん、こんばんは」

『ばんはばんは。本日はお日柄も……とか言いたいとこだけどさ、単刀直入に言っちゃうよ』

「うん」

『お姉ちゃんが今どこにいるか知らない?』

「……ごめんね、知らない」

『そっか』

「雫ちゃん帰ってないの?」

『友達の家に泊まってくるって言ったきり。もう三日くらい』


 そんな親しい友達いないはずなのにね、と晴ちゃんは笑う。


『ま、いいや。見かけたら教えてよ』

「うん」

『最近あの人ちょっと変だし。本棚にいつの間にか変な本ばっか増えてんの。スピリチュアル系ってやつ? あとマインド? メンタル系? ってやつも』

「…………」

『さっきその本の間から黎明の乙女って集団のパンフレット挟んでんの見つけてさ』

「…………」

『……ねえ。お姉ちゃんがどこにいるか、本当に知らないよね?』


 僕が何と答えたのかは覚えていない。

 気が付けば電話は切れていて、僕はぼんやり自室のベッドに腰かけていた。

 夜の十二時だった。ベッドに入ってから寝られず、一時間が経過していた。

 何か飲み物でも飲もうかと思う。紅茶でも飲もうかと考えながら向かったキッチンには、こっそりビールを飲もうとしている先客がいた。


「まだ寝てなかったのか」

「うん」


 父さんは入ってきたのが僕であることに安堵した顔でプルタブをかしゅっと開けた。

 口止め料なのか、ホットミルクを作ってくれる。父さん用のラム酒を多めに入れたホットミルクは背徳の味がしてうまかった。

 なんとなく二人並んでソファーに座り、ゴクリと喉を鳴らす。


「何かあったか」


 静かに言い聞かせるような声が、僕に告げられたものだとすぐには気が付かなかった。

 父さんがまっすぐに僕を顔を見下ろしている。僕は「別に何もないよ」とホットミルクを誤魔化すように飲んだけれど、父さんの視線が外れないことに諦めて肩を竦めた。


「ちょっとね」

「なんだよ、どうした?」

「友達が悪い人達の仲間になっちゃったかもしれないんだ」

「暴走族入りしたってこと?」


 窓ガラス割ったのか、と真剣な顔をする父さんに思わず笑ってしまう。詳しい事情を話すつもりはなかった。分からないだろうし、余計な心配はかけたくない。

 けれどアルコールが香るホットミルクは僕の口をなめらかにするようで、考えるより先に言葉が滑り落ちていく。


「その子が悪い人達と付き合うようになったのは、僕のせいなんだ」

「お前はその子に何をしたのさ」

「酷いこと」


 僕はゴクリとホットミルクを飲み干して溜息を吐いた。底に残っていたアルコールが喉を熱くする。その温度は、泣いてしまいそうになったときの喉の熱さとよく似ていた。


「その子だけじゃないよ。他にも傷つけてしまった子がいるんだ。僕は最低なことをした」

「そうか」

「でも何が最低って。自分がその子達に何をしていいか分からなくて、動かずにいることなんだ」


 僕はずっと彼女達に会っていなかった。

 ありすちゃんに酷い言葉を言って突き放した。祥子さんにキチンと向き合ってあげなかった。雫ちゃんの気持ちを知っていて、もてあそんだ。

 そんな酷いことばかりしておいて、彼女達に会って何を言うべきか分からなくて、怖くて、ずっと動けないでいるのだった。

 数日前の夜に出会った雫ちゃんの笑顔がいまだ心に張り付いている。

 雫ちゃんが黎明の乙女に入ったのは僕のせいだ。


「事情はよく分からないけれど……。お前は悪いことをしてしまったってこと?」

「うん」

「なら謝りに行きなさい」


 父さんが不意に口調を変えた。僕が顔を上げるよりも先に、大きな手が僕の頭を強く叩く。ギャッと悲鳴をあげた僕の髪を父さんはそのまま無遠慮に撫でた。

 叱咤と愛情が混ざった行為だった。


「湊。悪いことをしたら、ごめんなさいって言うんだよ。何よりもそれが一番大事なんだ」


 小学生に言い聞かせるみたいに父さんは言った。僕はもう十七歳だった。

 だけど今の僕に一番必要なのは、きっとその言葉だった。


「……そっか。『ごめんなさい』か」

「そうそう」

「僕、まだあの子達に謝ってなかった」


 ん。と父さんは息を零すように笑った。僕の事情なんて半分も知らないくせに、全てを分かっているような笑みだった。

 その笑みが妙に僕を安心させてくれたのだ。


「けじめを付けな、湊」

「うん」


 今日はもうおやすみ、と大きな手が最後にまた頭を撫でてくれる。今更気恥ずかしくなって、やめてよとぶっきらぼうに言いつつも口端に笑みが滲んだ。

 自分の部屋に戻っても僕はベッドには潜らなかった。ぼんやりとベッドに腰かけ、壁に貼られた怪物のポスターや棚の上の怪物フィギュアを見つめる。

 部屋の温度は少し肌寒かった。無意識に腕をさすり、父さんに告げられた言葉を反芻させる。


「けじめを付けなきゃ」


 けじめを付ける。そう決めたところで、それでもやっぱりあの子達の顔を想像すると不安がよぎった。謝罪をしてもそれが受け入れられるかどうかは分からない。当たり前だ。でも、やっぱり怖い。

 肌が冷える。けれどそうすれば、喉のジン……とした熱に気が付く。僕はそっと指先を喉に這わせた。アルコール入りのホットミルク。温かな温度がまだそこに残っている。


「うん」


 誰に言うでもなく頷いた。膝を強く叩き立ち上がる。

 置きっぱなしだった携帯を手に取り、僕は一人の人物に電話をかけた。

 僕はけじめを付けなければならないのだ。




「こんな夜更けに呼びつけてどうしたの」

「澤田さんに会いたくて」

「はは。照れるねぇ」


 深夜一時。繁華街の眩い光を受けて、澤田さんの頬は青く光っていた。

 僕と澤田さんは狭い道で向かい合うように立っている。ホストクラブや居酒屋が入っているビルの裏手だった。きらびやかな表とは逆に、すえた臭いのゴミ袋と薬の空き瓶が転がっている。

 澤田さんはフェンスに寄りかかるように煙草を吸っていた。こっくりとしたグレースーツとスッキリとした青シャツが彼によく似合っていた。大手企業の営業マンみたいだなと思った。彼の傍に立つ、いかつい顔をした彼の部下らしき人達を除けばだけれど。


「何用かな」


 濃ゆい煙が彼の体に怪しくまとう。爽やかな笑顔は暗がりではむしろ恐ろしく、じっとりと背中を這うような威圧感があった。黒沼さんとはまた違う、男の色気と圧である。

 仕事終わりなのだと彼は言った。まともな仕事ではないのだろう。

 けれどそれでいい。僕が今日会いに来たのは『優しい澤田のお兄さん』ではなく『ヤクザの澤田さん』なのだから。


「お願いがあるんです」

「うん」

「僕を殴ってくれませんか?」

「ぶはっ!」


 澤田さんが裏返った声で笑った。煙草にむせた彼はゲホゲホと涙目で咳き込んで、「なに!」ともう一度しかめっ面になって笑う。


「性癖歪みすぎだろ」

「違います! 覚悟をもらいに来ただけです」

「かくごぉ?」

「ありすちゃん達にけじめを付けに行こうと思うんです」

「はぁ」

「だから。けじめを付けるための覚悟を入れておきたくて」

「ややこしっ」


 澤田さんは煙草のフィルターを噛んで笑った。時代錯誤だ、と放り投げた煙草を靴底で踏みにじった彼がゆるりと僕に顔を近付ける。彼の影が僕の顔を隠す。恐怖で背中が突っ張った。

 ヤクザの空気を濃くまとった澤田さんはどうしても怖かった。以前誘拐され拷問を受けたときのトラウマが蘇る。

 それでも。これくらいの恐怖なんて乗り越えてやると、僕は奥歯をぐっと噛み締めた。


「殴って活を入れろってわけね。どれだけ重い『けじめ』を付けるつもりなんだか」

「変なことを頼んですみません」

「いいよ、いいよ。人選は間違っちゃいない。黒沼はあんなんでも無意識に手加減をしそうだし、鷹は殴れても力が弱そうだ。まあ俺だって、大事な友達の湊くんを殴るなんて心苦しいんだけど……」

「う」

「怯えないで。大丈夫、優しくするからさ」

「っは。す、すみま……ンブッ!」


 ドズンッと重い音が腹部に突き刺さる。ナイフで臓器を抉られたのかと思った。

 それほどの衝撃が腹を貫き、僕は無言でその場に崩れ落ちた。涙が滲む視界に引きつった顔をする部下さん達の顔が見えた。


「手加減をするって意味じゃないけど」


 畜生。この人、僕が油断した隙を狙って殴りやがった。

 自分から頼んだこととはいえ凄まじい痛みに悶え苦しんだ。吐き戻しそうになった胃液を根性で飲み込み、「あ、ありがど、ございまじだ……」と濁った声を震わせる。


「活は入った?」

「あ、あい」

「……男気のある君にいいことを教えてやろうか」


 澤田さんは立ち去る様子を見せなかった。楽しそうに笑みを浮かべ、いまだ倒れる僕の横にしゃがみ込む。涎で頬に張り付いた僕の髪を、彼の指がすくった。


「近々。黎明の乙女が施設内でコンサートを行う予定だ。おそらく雫ちゃんもそこにいる」

「は」

「ありすちゃん達はそこに行くつもりだ。行って、雫ちゃんを救出するつもりだよ」


 勢いよく立ち上がった僕の足元で、ぶつかった空き缶がカランと音を立てた。悲鳴をあげる腹部を無視して僕は茫然と目を見開く。


「聞いてない」

「言ってないからね」

「な、なんで」

「ありすちゃんはもう君に関わらないと決めたらしいよ」

「え」

「君を守るためだ。これ以上君が傷つくのは嫌だって、そう言っていたんだよ」


 足元がふらついた。腹の痛みが段々と薄れていく。

 それは痛みを上回るほどの、激しい怒りがふつふつと湧いているからだった。

 僕は自分自身に怒りを抱いていた。


「ありすちゃん」


 ハロウィンの夜の。ありすちゃんの真っ暗な顔が脳にこびりついて剥がれない。

 僕が突き放した言葉が彼女をどれだけ深く傷つけたのか、想像しただけでゾッとした。


「君のせいだなんて言うつもりじゃなかった」


 僕よりも彼女の方がとっくに決意を固めていたのだ。そのことに気が付き、ああ、と喉から苦しい声が零れ落ちた。その声は自分でも驚くほど熱い激情を孕んだ声だった。

 震える肩に手が置かれた。澤田さんが、静かな顔で僕を見据えていた。

 シンと張りつめた空気の中で彼の問いかけが響く。


「助けに行くかい」

「当然だ」


 悩む時間なんて一秒もなかった。

 食い気味に即答した僕を見て、澤田さんが満足気に笑う。


「君はいい男だね、湊くん」



******



「豁サ縺ュ縲ゅけ繧ス縺後ャ縲ゅ●繧薙ヶ縺カ縺」螢翫@縺ヲ繝、繝ォ」


 獰猛な吠声が地面を揺らした。ゴワゴワとした毛を恐ろしいほど膨らませた獣が、狭い廊下を猛スピードで蹂躙していく。牙と爪が壁に薄い傷跡をガリガリと残していた。尖った耳の先端に、千切れた首輪がぶらぶらと引っかかっていた。


 黎明の乙女の施設内。狭い廊下にはサイレンがけたたましく響いている。

 悲鳴をあげて逃げる信者達の間をぬって二体の怪物が走る。一体は前を走る千紗ちゃん。そしてもう一体は私だった。

 狼に似た巨大な獣と。触手をしならせて走る巨大な怪物。

 おぞましくのたうつ触手も、壁や床に垂れていく黒いタールのような粘液も。全てが自分の体から出たものだと私はもう知っている。

 込み上げる不快感を口の中で噛み砕くと、ゴポリと嫌な水音が喉奥に聞こえた。


「繧ヲ繧ヲ繧・繝シ縺」!」


 自分を怪物だと自覚して変身するのはこれがはじめてだ。

 想像していたよりも遥かに怪物の体は強かった。障害物は豆腐のように簡単に砕けるし、壁にぶつかっても体にほとんど痛みは走らない。けれどどれだけ強くたって、私の心は深い悲しみに包まれていた。

 あんなに夢を見ていたピンク色の魔法少女の姿なんてどこにもいなかったから。


「いやあぁっ。速い、怖い、落ちるっ」

「そんな怖がるなよ。ジェットコースターだと思えば楽しいじゃないか」

「目がいかれてんのよこのクソぬいぐるみっ」

「湊くんは乗りこなしていたのになぁ」

「えっ……いややっぱり無理無理無理!」


 私の背中には祥子さんとチョコがしがみついている。周囲から響く悲鳴の中、チョコの歓声だけが浮いていた。

 不意に前を走っていた千紗ちゃんが振り向いた。ぐぁう、と鳴き声を一つあげた彼女がスピードをあげる。私が振り返るよりも先に祥子さんの声が飛んできた。


「来た!」


 後ろから数名の信者が私達を追って来ていた。

 ロープ、包丁、斧。全員が武器を手にしている。建物に危害を加える私達を倒そうという強い意思が、らんらんと輝く目の奥に見えた。


「あっ」


 チョコが声をあげる。私達の進行方向の先、廊下の防火シャッターが次々下りて行こうとしている。

 猛スピードで千紗ちゃんが廊下を駆け抜けた。彼女はあっという間に廊下の最奥までたどり着くと、そのまま角を曲がって姿を消した。しかし私は間に合わなかった。シャッターがあと残り一枚というところで廊下に取り残されてしまう。


 私はシャッターを殴った。とんでもなく重い音が鳴る。けれど何故かシャッターはへこんだだけで、破れることはなかった。

 祥子さんが予備に持っていた爆弾を取り出した。爆音が鳴り、続けて爆風。大きな火花が散ってシャッターが揺れた。

 しかし、揺れるだけだった。


「驚いた! とても頑丈な素材でできているんだね。どんな作り方をしているんだ?」


 チョコが無邪気に言った。その間に私達はすっかり信者達に囲まれてしまった。

 構える間もなく信者達が襲いかかってくる。まずい、と私は体を硬直させた。

 武器が怖いだけじゃない。それ以上に、今の私が反撃したら彼らを簡単に殺せてしまうだろうことの方が怖かった。


「下がってなさい!」


 声が飛んだ。と、私の背中から飛び降りた祥子さんが躊躇いもなく信者達へと突進する。突然の彼女の行動に私は大きく目を見開いた。

 キュキッ、と靴底が鋭く床を鳴らした。祥子さんの振り上げた足が、信者の男の腹を蹴り飛ばした。


「ガッ」


 まさか祥子さんに攻撃をされるとは思っていなかったのだろう。男性の体は容赦なく後ろに吹っ飛んだ。

 祥子さんは息もつかない。男が落としたナイフを拾い上げ、肘を振りぬくように隣にいた信者の顎を打つ。ペン回しの要領でくるりとナイフを回転させると、固い柄でもう一人の頭頂部を殴りつけた。


「わぁっ!」


 チョコが歓声をあげた。家でプロレスを見るときとまったく一緒の声だった。

 祥子さんは強かった。護身術の一種だろうか。顔に汗をかいて必死な形相をしながら、次々と信者達を倒していく。私はそれを触手を震わせながら眺めていた。

 けれど彼女の背後に一人信者が立ち上がったのが見えた。その人が振り上げた斧を見て、私は悲鳴をあげる。


「蜊ア縺ェ繧、」


 咄嗟に伸ばした触手が信者の肩を殴った。骨が砕けた音がして痛みに絶叫した信者の手から斧が落ちた。

 私の声に振り返っていた祥子さんは体を捻って斧を避ける。軽やかなステップを踏んだかと思うと、ぐるりと回した踵を信者の顔に叩きつけた。


「螟ァ荳亥、ォ?」


 倒れる信者の中で荒く息を吐く祥子さん。おそるおそる触手を伸ばして声をかけると、彼女は吐き捨てるように笑って触手を平手で打った。


「やるじゃない」

「繧「繝上ワ……」

「なんとなく分かったでしょ。力加減」


 触手が空中でうねった。したたる粘液を見て、私は顎を引くように頷く。


「……繧ヲ繝ウ」


 そんな私に、祥子さんも半笑いで頷いた。

 操作盤をナイフの先でこじ開けて、強制的にシャッターを上げる。ガラガラと上がっていくシャッターの隙間をくぐり、私達はまた廊下の先へと進んだ。

 私の背に乗った祥子さんは、さっきほど震えてはいなかった。



「ゴオウ」


 千紗ちゃんは会場で暴れていた。ゴウゴウと燃えるような遠吠えがステージを激しく震わせている。

 椅子を跳ね飛ばし、止めようとした信者を弾き飛ばし、彼女はどこかを目指して進んでいた。

 それはステージの上だった。壇上に一人誰かが立っていた。分厚いローブ姿は忘れることもできないほど強烈な存在だった。

 聖母様がそこにいた。


「縺カ縺」縺ィ縺ー縺励※繝、繝ォ!」


 千紗ちゃんの口がガパリと開く。真っ赤な口に、鋭利な牙が処刑台のように並んでいた。

 目の前に迫る殺意に聖母様はまとっていたローブを剥いで投げつけた。分厚いローブは一瞬だけ千紗ちゃんの視界を奪う。けれどすぐ鋭い爪がローブをズタズタに切り裂く。

 代わりに聖母様の姿がスポットライトに晒された。

 真っ白いワンピースの下に細身の体があった。少しパサついた長い髪は茶色い色をしていた。呆けた顔は乾燥したファンデーションで白かった。うるおいのない表情がじょじょに恐怖ではなく……明らかな高揚に色付いていく。

 その顔は千紗ちゃんによく似ていた。


「豈阪&繝ウ?」


 牙が止まる。聖母様の目と鼻の先まで迫っていた爪が時を止める。

 千紗ちゃんの巨大な目がより大きく見開かれた。ゴフ、と鼻を鳴らす千紗ちゃんの体毛がざわりと逆立った。

 その反応に。女性の顔に。私達は聖母様の正体を悟る。

 彼女は千紗ちゃんの母親だ。


「は、」


 聖母様は口元にゆるゆると手を当てた。ジンとしみいる感情を吐露するように、震えた声を吐き出す。

 恐怖に濡れた声ではなかった。むしろ、たまらぬ歓喜に打ち震えた声だった。


「本当に怪物が……。あの方の言った通りに……」


 聖母様が懐からおもちゃのステッキを取り出した。

 ピンク色のメルヘンチックなステッキだ。先端にハートの宝石が組み込まれたとても可愛らしい……私が大好きな、魔法少女の武器に似たそれ。

 それを聖母様が振り下ろす。

 放たれた魔法の光が千紗ちゃんの耳を貫いた。


「ギャンッ!」


 咄嗟に伸ばした私の触手が千紗ちゃんの体を引き寄せる。分厚い彼女の片耳が大きく千切れ、熱い血液が触手を濡らした。


「なによあれ……。あんなのまるで」


 祥子さんが聖母様の武器を見て茫然と言った。

 光り輝くステッキ。可愛らしいデザイン。キラキラとまとう光。


「魔法少女みたいだね」


 チョコが言った。

 それは、本物の魔法少女の武器だった。


 聖母様はそこではじめてこちらに顔を向けた。

 粉っぽく乾燥した肌の中で、瞳だけがキラキラと眩く光っていた。


「ようこそ、黎明の乙女へ」


 呑気な挨拶に祥子さんが顔をしかめた。あなたは逃げないのね、と小馬鹿にするような声で言う。


「まだお客様がいらっしゃるので」

「最後の最後に逃げようってわけ? っは。流石聖母様、トップの器ね」

「いやだ。そんな。聖母様だなんて、おこがましい」


 言葉に違和感を覚える。揃って怪訝な顔をしていたのだろう。女性は私達を見て、ゆるりと顎を引くように頷いた。


「私は聖母様ではありません、身代わりです。本日この場所に聖母様は来ていない」

「はぁっ? じゃ、さっきの演説は?」

「これでも聖母様のお傍に仕える人間です。あの方の仕草、言葉遣い、皆に語られるだろう言葉……全て分かっています。聖母様を演じなどとおこがましいことですが、私には可能なのです」

「つまりあなたは聖母のフリをしていたってこと? そんなことをして、何の意味が?」

「恐ろしい怪物が来ると知っていて、あの方をこんな危険な場所にお連れすることなどできますか」


 なんだって? とチョコが小さく声をあげた。

 私の脳裏に十数分前の記憶がよみがえる。


 千紗ちゃんの爪でも硬い壁には浅い傷しか残らなかった。

 私達が変身してすぐ、武器を持った信者達が反撃してきた。

 シャッターは爆弾でも怪物の力でも破壊しきることができなかった。

 それは全て私達が来ることを知って準備したものだとしたら?


 …………怪物が来ると知っていただって?


「聖母様はよく、私に物語を語って聞かせてくださいました」


 ゴルル、と千紗ちゃんが唸り声をあげた。彼女は全身の毛を逆立てて、今にも偽の聖母様に飛びかからんと体勢を低くする。女性はそれを見ても、スンと澄ました顔をしていた。


「『いずれ我々の元におぞましい怪物が現れる。数多の命が失われ、世界が絶望に包まれる』」

「グア。ゴフ。アルルッ」

「『世界が暗闇に落ちるその瞬間。一筋の光が降り注ぐでしょう。希望の光が現れ世界を救うでしょう』」

「ゴゴウ」

「『その希望の光こそ。我ら、黎明の乙女』」

「ガアッ」


 千紗ちゃんが己の母親へと飛びかかった。剥きだした鋭い牙が、その細い喉をまっすぐに狙う。

 千紗ちゃんのお母さんはそれを避けようとしなかった。


 キャウッ、と千紗ちゃんが子犬に似た声をあげた。空中に飛んでいた彼女の体が大きく痙攣した。

 何故なら彼女の腹部を一発の弾丸が貫いたから。


「え」


 ベシャッと大きな獣が降ってくる。たくさんの椅子が落下に巻き込まれ、分厚い埃が舞った。

 甘ったるく濃厚な生クリームのような声が私達の背後から聞こえた。


「――――こんにちは皆さん」


 ゴオォン……と。教会の鐘がけたたましく鳴った。

 幻聴なのか現実なのか、理解することもできなかった。


 頭のてっぺんからザァーッと音を立てて血の気が引いていく。強烈なおぞましさが胃の奥からこみあげた。人間の悪意と善意を煮詰めてぐちゃぐちゃに掻きまわした。そんな意味が分からないほどの酷い気配が背後に立っていた。

 振り返ったそこには一枚の白い布があった。


「お会いできてとても嬉しい」


 それは白い布をかぶった女性だった。

 放置されていた布を適当に借りました、とでも言いたげな薄汚れた白い布を頭からすっぽりとかぶって。まるで人生はじめてオバケの仮装をした子供みたいな格好だった。

 それなのに、その布は目が潰れると思うほどに眩く見えた。

 太陽のごとく輝く白い布。その下から僅かに覗く、柔らかな唇。それくらいしか見えない。それだけで十分だ。彼女を見た全員が理解したことだろう。

 彼女が本物の聖母様だ。


「ど、どうして聖母様が……。出てこないようにと申したでしょうに!」

「あら。私のために開かれた会なのでしょう? 私が出なくてどうするの」

「いけません、ここは危険です。早くお逃げください!」

「駄目よ。あなただって大切な家族なのよ。見捨てて逃げるなんてできないわ」


 聖母様の声はなめらかだった。優しく、あたたかく、懐かしささえ抱いてしまうような心地よい声だった。太陽のごときその声が、ジンと人の心を震わせるのだろうと思った。

 それに、と聖母様はずっと隣にいた雫ちゃんの肩にそっと触れて笑った。


「私には頼もしい護衛ちゃんがいるもの」


 雫ちゃんは両手を構えたままぶるぶると震えていた。海の底より青ざめた顔が、呆然と千紗ちゃんの姿を見下ろしている。

 彼女の指先からはぽたぽたと水が垂れていた。さきほどの一瞬。千紗ちゃんの体を貫いた弾丸は小さな水の球だった。凝縮された水を高速で撃ったのだ。ただの水だろうと撃ち方次第で厄介な武器になる。


「ぁ。あっ。ち、千紗ちゃ。ち……」

「いい子ね」

「っは。あ、あ…………」

「いい子。いい子」


 聖母様が雫ちゃんの頭を撫でる。震えていた雫ちゃんの体はそれだけで怯えるのをやめ、その目にぼんやりと濁った安堵を浮かべた。

 雫ちゃんがもう一度、倒れる千紗ちゃんに向けて指を構えた。


「雫ちゃん!」

「ひっ!?」


 変身を解いた私を見て千紗ちゃんのお母さんが悲鳴をあげた。その目に困惑が浮かぶ。目の前で怪物が人間に変身したことに、戸惑っているようだった。

 けれど本物の聖母様は私を見ても何も言わなかった。布の下から見える口元が僅かに緩んだだけだった。

 あの人はきっと、怪物が人間であることを知っていた。


「迎えに来たのよ雫ちゃん。あなたを助けに来たの。ねえ、一緒に帰りましょう!」


 私はそんな周囲の反応を無視して叫んだ。雫ちゃんのぼんやりした目が私を見つめる。

 彼女はしばし視線を彷徨わせ、「助けっ?」と上擦った声で繰り返した。

 バキンと音がする。それは雫ちゃんの周囲の床を、彼女の触手が叩き割った音だった。


「それ、冗談でしょう? わたしを馬鹿にしに来たんじゃないの?」

「え…………」

「建物をこんなにめちゃくちゃにして。そのうえ祥子さんまで連れてきて。一体どういうつもりなの?」


 わななく声はヒビの入ったガラスに似ていた。隙間から黒く汚れた水がじゅわじゅわと溢れて地面を濡らしていくようだった。今にも感情が爆発しそうな危うい声だった。

 彼女の触手が壁を、床を叩く。子供が地団駄をふむように、ダンダンと音を立てて瓦礫が零れていく。


「わ、私は……ただ雫ちゃんが黎明の乙女に入るのを止めにきただけ。あなたがいるべき場所はここじゃない。一緒に魔法少女に戻ろうよ」

「やめてよ!」


 雫ちゃんの触手が地面に叩きつけられた。私と彼女の間の床に大きな穴が開いた。

 拒絶の一線を引かれたのだ。


「分かった口をきかないで。わたしは今が一番満足なの。魔法少女なんて辛いことばっかりだった!」

「っ…………」

「我慢して、我慢して、それで一度でもわたしは報われた? 全部意味がなかったじゃない! 何度変身したって、好きな人ができたって、何もかもうまくいかなかったじゃない!」

「し、雫ちゃん」

「ここは魔法少女でいるときよりずっと楽しいの。だって皆がわたしを受け入れてくれる。あなた達の傍にいるときより、ずっと楽にいられる。これ以上、わたしをみじめにさせないでよ……」


 彼女の目から零れた涙は真っ黒だった。

 ドロッと彼女の顔が溶ける。千紗ちゃんのお母さんが茫然と見つめる前で、雫ちゃんの体がどんどん怪物に変化していく。

 とろける彼女の体に触れて、聖母様が優しく微笑んでいた。

 彼女の目に、私が浮かべた絶望の表情は映っていただろうか。


「ありすちゃん。お願いだから、わたしの居場所を取らないで」


 私達は雫ちゃんを助けるのが遅かった。

 彼女が黎明の乙女に入るよりもずっと前から、彼女を助けてあげるべきだったのに。


「…………変身!」


 私の体が怪物に変わる。悲しい咆哮をあげる青い怪物に、私は攻撃するため触手を振り回した。

 雫ちゃん。私、あなたと戦いたくなんてなかった。

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