第40話 水槽の中の怪物
ドプンと冷たい水の音。水槽の中に白泡が湧く。
心臓を凍り付かせた僕の隣で、雫ちゃんがたった一言だけ、小さな声で呟いた。
「晴」
青いワンピースの裾からずろりと触手が落ちてきた。肉厚な触手が勢いよく伸び、タコに似た吸盤が水槽ガラスに張り付いた。
雫ちゃんの体が浮く。彼女はそのまま、水槽を一気に駆け上った。
「譎エ!」
彼女の皮膚の内側で、骨がカキコキ音を立てて崩れていく。白っぽい肌がとろけ青緑色の粘液へと包まれる。
その姿はゾッとするほど異常で、たまらなく美しかった。
半分人間で半分怪物。そんな姿に変身した姉は、妹を救うためにサメの水槽に飛び込んだ。
酷く重いものが水に落ちる音がする。飛び散った大量の水が、豪雨となって僕に降り注いだ。
水槽の上側は大量の泡で何もかもが隠れてしまっている。けれどサメ達が突然の闖入者に驚き、ぐるぐると猛スピードで泳ぎ回っているのが見て取れた。
そしてそのうちの一匹が方向を変え、水の中に沈む三人へと襲いかかる。彼らは体力が尽きかけているのかぐったりとして、近付くサメにも反応しない。
「あ゛ッ」
鋭い牙が男の体に突き刺さった。男の体がビクンと大きく痙攣する。
彼は必死にもがいたが、サメは大きく首を振って彼を離さなかった。赤い血がモヤのように広がり、何も見えなくなる。
僕は必死にガラスを叩いた。
他のサメまでもぐるぐると回るように泳いで水槽の上へと向かっていくのを見て、泣きそうになった。
サメは血に誘われるという。
ならば。次に襲われるのは、その血のそばにいる澤田さんと晴ちゃんだ。
その瞬間。
赤いモヤの向こうから、サメが勢いよくガラスに叩きつけられた。
「縺阪c縺ゅ≠縺ゅ≠!」
何匹ものサメが次々ガラスに叩きつけられる。ガラスにべったりと血が張り付き、モロモロとほどけるように水の中へと溶けていく。
赤いモヤが晴れた。
そこに、巨大な怪物の姿に変身した雫ちゃんがいた。
「っ」
ぬるついた皮膚の上に泡が浮かんでいる。太い触手が蠢き、サメの体を締め上げている。
巨大な目玉がゴロリと動いて、ガラス越しに僕を見つめた。
彼女は澤田さん達の前に立ちふさがり、サメを殴り、ガラスに叩きつけ、彼らの元に向かわせないようにしていた。
けれどこの水槽内のサメは多い。猛スピードで泳ぐ一匹が彼女の触手に噛み付いた。肉厚な触手が噛みちぎられ、青緑色の血がそこからぶわりと広がる。
「ブルーちゃん!」
ギーッ。とガラスを引っ掻くような嫌な音が響き渡る。彼女の悲鳴だろうか。身悶えた触手がガラスを叩く。
彼女は身を捩ってサメを振り回したが、何匹ものサメが次々に食らいつき、青緑色の血を広げていく。
と、彼女の体の隙間をくぐって、サメがまた澤田さん達へと襲いかかった。鋭い牙に付いた青緑色の血が、とろとろと煙のように水に泳いでいた。
水が真っ黒に染まったのは直後だった。
雫ちゃんの体が大きく膨れたかと思うと、空気を抜いた風船のようにしぼんで、黒い墨を吐き出したのだ。
サメの体に墨が直撃する。目くらましというよりは攻撃の意を持って噴出されたそれが、サメの体に穴を開け、血を噴出させる。
ガラスの向こうは一瞬で真っ黒になってしまった。血よりも濃い黒色は僕の視界を完全に覆う。何が起こっているのか分からず、狼狽えてガラスに手を這わせることしかできない。
ドン、と凄まじい音がしてガラスが震えた。手をついていることもできなくなって大きくよろめいてしまう。またドンとガラスが揺れ、その衝撃に僕は尻餅をついた。
「何…………」
汗が止まらなかった。水族館の中は快適なくらい涼しいのに。
僕は青くなった唇をぶるぶると震わせて、引きつった声を絞り出す。
「ブルーちゃ」
ん、と言い切る前に。ドンドンドン! と連続で音を立てて、何匹ものサメがガラスに叩き潰された。
墨の向こうから現れた巨大な怪物が、ガラスにぶつかりながら勢いよくサメに食らいつき、その体を真っ二つにした。
その姿は凄まじかった。
あれほどサメを怖がっていた雫ちゃんの面影は、どこにも見つからなかった。
そのときガラスから嫌な音が聞こえた。
凄まじい力をぶつけられた水槽のガラスはとうとう限界を迎えたらしい。
「あ」
悲鳴を上げようと開いた口に大量の水が雪崩れ込んできた。
水槽のガラスが砕け散り、暴力みたいな量の水が瞬く間に僕を飲み込む。覚えているのはそこまでだった。
は、と目を開ければ僕は床に倒れていた。口の中が生臭い血の臭いに満ちている。
えずきながらよろよろ立ち上がれば、頭の奥を殴られたような痛みと、体中の痛みに気が付いた。
辺りはちょっとした海のようだった。空間を満たす水は僕の脛まで届き、水族館の他の部屋にもちょろちょろと流れていっている。臭う水の上を、血だらけのサメの頭が流れていった。
あちこちにサメがいた。けれどほとんど、死んでいる。陸地に引きずり出されたからではなく。ほとんどのサメが胴体を潰され、頭を食われ、尾を千切られ、と悲惨な姿になって……。
「さ、澤田さん。晴ちゃん!」
ガラスが砕けた地面の傍に彼らが倒れているのを発見する。雫ちゃんがその横に座り込み、晴ちゃんの顔を心配そうに覗き込んでいるのも。
「晴、起きて、目を覚まして! お願い…………」
「…………おね……ちゃ」
「っ、晴!」
青ざめた晴ちゃんの口から零れた声を聞いた雫ちゃんは、顔を真っ赤にして妹を抱きしめた。晴ちゃんはぐったりしているけれど、見たところ怪我もしていないようだった。姉の目からぼろぼろと落ちる涙が晴ちゃんの頬を濡らしていく。
隣に倒れていた澤田さんも呻き声を上げてそっと目を開けた。僕は胸を撫でおろし、大丈夫ですかと彼の元にしゃがむ。
「う…………」
彼に手を貸して立ち上がる。青白い顔をした彼はそっと僕に寄りかかった。濡れた服が張り付いた体は細身だけれど、筋肉があるのかそれなりに重かった。
僕はちらりと黎明の乙女の男達を見た。一人はまだ通路で気絶している。残る一人は床に倒れている。ただその周りの水は、濃い赤色に染まっていたけれど。
彼らの目的を阻止することはできた。思っていたより、大分悲惨な形になってしまったけれど。
僕は澤田さんに肩を貸して出口へと向かう。後ろからは同じく晴ちゃんを背負った雫ちゃんが付いてくる。通路にも水が流れてきていた。墨で黒く染まった水をスニーカーが吸う。足の指先までもが冷たく濡れた。
「は……まいったな。情けない。水槽に落ちてからの記憶がストンと抜けてる」
澤田さんがか細い声で笑った。当たり前ですよ、と僕は彼の腕を支え微笑む。どう説明していいかも分からないから、記憶を失ってくれていた方がありがたかった。
「何がどうなったんだ?どうやって脱出したんだ?あの男達はどこにいったんだ?」
「…………」
「まだ頭が混乱してるみたいだ。妙な幻を見ていた気がするよ」
「無理しちゃだめですよ。水の中に長いこといたんだから」
「あの子壁を走っていたよね?……はは、幻か。そんなことあるわけない」
僕は思わず澤田さんを見た。後ろを歩く雫ちゃんを見つめていた彼は、僕を見てにこりと微笑む。
「夢を見たんですよ」
「そうかぁ」
澤田さんは笑った。僕はちっとも笑えなかった。だから代わりに「もうすぐ出口ですよ」と伝える。その声は自分でも分かるくらいに強張っていた。
と、そのとき携帯が鳴った。片手でそれを取り出し、部長からの連絡であることを知る。
『湊くん! 無事なの!?』
けれど通話に出たのは鷹さんだった。慌てふためいた声に何故だか妙にほっとして、僕は笑いながら頷く。
「大丈夫です。もうすぐそっちに行きますから」
『今どこなの?』
「水族館を出るとこです」
『出ちゃ駄目!』
鷹さんが悲鳴を上げた。だけど僕がそれを聞いたのは、既に外に出たときだった。
え、と驚きながら僕は水族館の外へと顔を上げる。
真正面から飛びかかってきたライオンが、僕に向かって爪を振り下ろすところだった。
「危ない!」
澤田さんが僕の体を突き飛ばす。爪の先端が僕の眼球すれすれを横切り、冷たい風が吹きつけた。そのまま僕達の頭上を飛び越えたライオンは、唸り声をあげこちらを睨む。
ゴウゴウと台風みたいな声がその喉から鳴った。全身の毛がおそろしいくらいに逆立っている。僕の全身の皮膚が鳥肌を立てた。
『逃げた動物が何匹かそっちに向かってるって。警察が行くまで、建物の中で待っていなさい。湊くん。湊くん!』
鷹さんの声が聞こえてくる。けれどもう遅かった。ライオンは完全に僕達を狙ってゴルゴルと喉を鳴らしている。
その背後にも他の動物がいた。リスやサル、遠くにはトラの姿も……。辺りはすっかり動物達に囲まれていた。退路は全て塞がれている。
「……君達は離れてるんだ」
澤田さんが僕達の前に立った。ギョッとして彼を見上げる。彼は白い歯を見せて、僕達を安心させるように笑った。
「なに。お兄さんは、こういう暴れ者の相手には慣れているんだ」
「そんなこと言ったって……!」
彼が警察で荒事に慣れているといっても獣はまた別だろうに、という訴えを視線に込めて僕は彼を見た。彼もそんなことは分かり切っているだろうけれど。そんなにふらふらの体で勝ち目なんてないことくらい理解しているだろうけれど。
雫ちゃんを振り返る。彼女は真っ青な顔で、自分に縋りつく妹を抱きしめ茫然としていた。今彼女を変身させるわけにはいかなかった。さっきはなんとか誤魔化せた。けれど今変身したら、確実に自分の正体がバレてしまうのだから。
僕達の絶望をライオンは気にしてくれない。一声吠えて、またライオンが僕達に飛びかかる。澤田さんの背が張りつめた、その瞬間だった。
「縺ゅk繧九≧!」
弾丸となって飛び込んできた怪物がライオンの胴に噛み付いた。
刃物のような牙がライオンの分厚い皮膚を貫く。ぶしっと血が噴き出し、僕達に降り注いだ。
千紗ちゃんだ。
「ゴオッ」
ツンとした鉄の味が口いっぱいに広がった。ライオンの体から噴き続ける血が僕達の体を濡らしていく。
目の前で突然引き起こされた惨状に晴ちゃんがくるりと白目を剥いて倒れた。雫ちゃんが慌ててその体を抱きとめる。
血を浴びた澤田さんはあんぐりと口を開けたまま目の前の怪物を見つめていた。ギョロリと血走った獣の目が彼を捉える。澤田さんの喉から、引きつった悲鳴が溢れた。
唯一その怪物の正体を知っている僕と雫ちゃんは、半ばぼんやりと千紗ちゃんの荒れ狂う姿を見つめていた。
だが、その背後に迫る他の動物を見て思わず叫ぶ。
「危ない!」
「ギッ」
動物達が千紗ちゃんの体に噛み付いた。爪や牙や針が彼女の体を刺す。リスやキツネといった小動物でさえも興奮状態にあるらしかった。
小さな牙ではほとんど傷つけられなくとも、皮膚の柔い部分や眼球を狙われれば千紗ちゃんだってたまらない。彼女は裂けた口から涎を零し、大きく首を振り回した。
彼女の皮膚から血が噴き出す。地面に飛び散った血が水玉模様を描く。雫ちゃんが悲鳴を上げた。
これ以上見ていられず、僕は飛び出そうとした。澤田さんがハッとした様子で僕の腕を掴む。
と、千紗ちゃんがガクリと空に鼻先を突き出し、その体をぶわりと膨らませた。
「縺ゅ♀縺翫♀繧!」
音が爆発した。
雷が落ちたのかと思った。
轟音がとどろき、大地がドンと激しく揺れる。
僕も澤田さんも雫ちゃんも思わず地面に倒れ込んだ。全身がカッと熱くなり、心臓が爆発する。産毛の一本までもが恐怖に逆立った。
叶わない。
本能がそう感じた。理性ではなく、動物的な部分が、目の前の千紗ちゃんに純粋な恐怖を抱く。
それは他の動物達も同じだった。
轟音の残滓が空に消えたとき、空気は打って変わってシンと静まり返っていた。
動物達が地に伏している。全身の毛を撫でつけ、地面に額を擦り怯えている。それはまるで平伏しているようにも見えた。
その中央に千紗ちゃんが立っている。彼女に噛み付いていた動物はその傍にひっくり返り、または地に伏し、身動ぎ一つしていなかった。
異様な光景に僕達は唖然としていた。千紗ちゃんがこちらに顔を向けゆっくりと近付いてくることにさえ、息を飲んだ。彼女だと分かっているけれど、怖かったのだ。
巨大な獣の顔が僕に近付く。ゴフ、と熱い吐息が僕の前髪を掻き撫でた。
「クル」
彼女は小さな声で鳴いた。するりと尾が僕の鼻を撫でる。踵を返して彼女は、園の出口の方へと歩き出した。すぐ傍の動物達は相変わらず地に伏せたまま立ち上がる様子はない。
「…………行きましょう」
今がチャンスだ、と僕は皆に言った。澤田さんが愕然とした顔で僕を見つめる。
「ま、待ちなよ。あの怪物の後ろをついていくってのか?」
「はい」
雫ちゃんを見れば、彼女は小さく頷いて先に歩き出した。その背に気絶した晴ちゃんを背負って。澤田さんは憮然たる面持ちだったが、ふらりと立ち上がってついてくる。
結局その後出口に辿り着くまで、一度も動物達に襲われることはなかった。
園の中は異様なまでに静まり返っていたが、出口付近は騒がしかった。もはや見慣れた救急車やパトカーが集まっている。千紗ちゃんに気が付いた彼らはあっと声をあげた。
「繧オ繧、繝翫Λ」
途端千紗ちゃんは目にもとまらぬ速さで駆け抜け、数メートルもの高さの門を飛び越える。警察の銃が向けられるよりも早く、彼女はそのまま近くの木々が生い茂る広い公園へと姿を消した。
警察が悲鳴を上げて彼女を追いかけていく。僕と雫ちゃんは思わず顔を見合わせて苦笑した。彼らがいくら探したところで、もう怪物が見つかることはないだろう。
「湊くん!」
「あ、部長」
「馬鹿者がッ」
「ごふっ」
部長と鷹さんが駆け寄ってきたかと思えば、部長の熱い平手打ちが僕を襲った。よろめいた僕を反対側から鷹さんが拳で殴りつける。急所を狙ったいい打撃だった。
僕は二人に泣きながら説教を食らわされた。何度頭を下げごめんなさいを言ったかしれない。途中から正座をしていた僕だったが、足が痺れてきた頃になってようやく説教は終わり、左右から二人に抱きしめられたのだった。
「仲がいいんだね」
「いやぁ……はは」
近くで気絶した晴ちゃんを介抱していた澤田さんが、僕達を見てにこりと微笑む。気恥ずかしさにそっと視線を反らした僕は、ふと遠くのベンチに座っている人物を見て目を見開いた。
「黒沼さんっ?」
大怪我をしているはずの彼が何故まだここにいるのかと驚愕した。救急車に乗ったんじゃなかったのか。
木陰のベンチで彼はそよ風に吹かれていた。じっとこちらを見つめる眼差しに、妙な圧を感じてごくりと唾を飲む。
「どうかしたのかい?」
「あっ! いや、なんでも……」
僕の様子に気が付いた澤田さんが顔を上げた。黒沼さんと澤田さんの視線が一瞬パチリと合った。僕は慌てて、なんでもないんですと首を振って黒沼さんのところへと駆けていく。
「戻ってきたってことは、ヒーローごっこは楽しめたようだな」
「黒沼さん! どうして? 病院に行ったんじゃないんですか?」
「俺より重傷な奴は他にもいた。そっちを優先すべきだろう」
「あなただって酷い怪我じゃないですか!」
「お前にまだ話したいことがあったんだ」
「え?」
ギシリとベンチが鳴る。木の葉の影が彼の顔に冷たい影を落としていた。
微かに香る血の臭いは彼の怪我かそれとも僕に付いたものか、どちらだろうとふと思う。
「お前何か隠してないか」
ひゅっと喉が掠れた音を立てた。
妙だよなぁ、と彼は掠れた声を出した。
「お前は最初から、妙に落ち着きすぎていた」
「……そんなことないですよ」
「いいや。怖いくらい、お前は冷静だ。猛獣を前にしてどうしてそんな態度でいられる? あの記者の女からも聞いたぞ。怪物を前にしても妙に怖がっていなかったそうじゃないか」
「だかっ、だからっ。……っと、怖くて。一周回って、頭が真っ白だったんだ。だからですよ」
「はは。嘘をついてもすぐバレるぞ」
「なんなんですかっ? そんな軽口たたくためだけに、怪我を我慢して、僕のこと待ってたんですか?」
「うん」
「……………………」
彼の黒い眼差しが僕をじっとりと舐める。目の奥がじわっと熱くなって、頭の奥がパチパチと震えた。
彼の前で嘘をつくのが難しかった。何を言ったって見透かされているような目が怖くて仕方ない。僕の隠し事はバレているのか? カマをかけているだけなのか?
「お。よーぉ、先輩じゃんか」
張りつめていた空気を壊す、のんびりとした声が背後から聞こえた。僕はハッとして振り返る。
植木の向こうからガサガサ草を掻き分けて出てきたのは千紗ちゃんだった。公園に逃げた後、すぐ変身を解いて戻ってきたのだろう。
彼女はふらふらとしたおぼつかない足取りだった。それもそのはず。彼女は全身血だらけだったのだから。
「うわっ! ちょ、血っ!」
「ははっ。お前知ってるかよ。変身したときの怪我って基本的には受け継がれないんだぜ。すぐ回復すっから。でも大怪我は別だ。あんまり傷が深かったりすると、戻ってもちょっとは残る。全身噛まれたからよぉ、思ってたより血が出て大変のなんのって。あー、くらっくらする」
「千紗ちゃん待って。ストップ」
「動物園も水族館も大盛り上がりじゃんやったな。今後運営できっか知らねえけど。やー、とんだ一日だったわ。あたしはただ商売しに来ただけだってのによぉ。袋一つ三万なんかじゃなくてもう少し高い値段で売ればよかっ」
「ストップ!」
「あ?」
怪我でぼんやりと焦点が定まっていなかった千紗ちゃんは、そこでようやくベンチに座る黒沼さんを認識したらしい。ビクッと飛び上がり、彼を凝視したまま大量の汗をかいて動かなくなる。
黒沼さんはぱちくりと目を丸くして千紗ちゃんを見つめていた。太陽に透けてキラキラと光る金髪を見つめ、溜息を吐くように呟く。
「そっか」
青ざめていた肌に仄かな朱が差した。僕と千紗ちゃんは固まったまま彼を見つめる。そうか、と彼はもう一度頷いた。
「意識の差というかなんというか。あー、そりゃそう。ははっ。俺のミスだ」
「な、何の話ですか…………」
「やー。別件。実は俺、探してる奴がいてさ。言ったっけ?」
「え……っと…………」
「ちょっといけないお仕事している高校生を探してて。情報がさ、高校生ってことと派手な髪ってことしかなかったんだよ」
黒沼さんは自分の髪をくるりと指先で巻いた。彼の髪は深い黒色だ。闇のように沼のように艶やかな黒い色。
その喉仏が上下する。そこに這うタトゥーが怪しくうごめいた。
「昔結構遊んでてさ。髪も脱色しまくりだったんだ。灰色とか赤色とか。虹色は死ぬほど似合わなくて、爆笑されたりなんかもしたっけな。結局今はこれに落ち着いたけど」
「はぁ」
「だから派手髪って聞いて想像するのがやばいのばっかで。原色とかそういう。ありすちゃんもピンクだろ? ああいうのを想像してた」
「だから…………?」
「でも染めたことない奴にとっては、茶色だって派手だって思うのかもしれない」
「……………………」
黒沼さんはそっと笑って千紗ちゃんの髪を見る。
金色に輝く髪を見る。
「派手な色だね」
ゾッと背筋に鳥肌が立った。
千紗ちゃんが唾を飲む音がやけに響いた。僕も彼女も動けなかった。
そんな僕達を黒沼さんはどうするでもなく、ニコニコと微笑んだまま見つめていた。
「えっ! ちょっと、嘘でしょあなた何で血だらけなの!?」
パッと弾けた声をあげて飛び込んできたのは鷹さんだった。彼女は僕達と黒沼さんの間に割り込むと、千紗ちゃんの怪我に蒼白な顔をして慌ててその手を引っ張る。
「ほ、ほら治療するから! こっち来て!」
「あ……おう」
千紗ちゃんは鷹さんに引かれるまま、黒沼さんに背を向けて歩き出した。僕もそそくさと彼女達について行く。後ろから声をかけられることはなかった。
歩きながら数人の警察とすれ違う。忙しそうな彼らがベンチの方へと向かっていくのを見て、僕はおそるおそる振り返った。けれどいつの間にか、黒沼さんの姿は消えていたのだ。
疑問よりも、妙な安堵が胸に広がる。千紗ちゃんも同じだったみたいだ。彼女はほっと息を吐き、手当をしようとする鷹さんの手を払う。
「こんなん舐めてりゃ治る」
「野生児の発言やめて!」
「うるせ」
「他に怪我は? もっとよく見せてっ」
嫌がる千紗ちゃんの顔を無理矢理覗き込んだ鷹さんは、不安そうに目を細めた。
「目を怪我したの? 色が変だよ」
「は?」
「黄色っぽくなって……」
「あ?お前そりゃあれだろ、太陽の光に当たってっからだろ。なあおい」
千紗ちゃんは肩を竦めて僕に同意を求めた。頷こうとして、僕は目を丸くした
「あれ待って。本当に黄色くない?」
「嘘だろ」
「カラコンしてる?」
「裸眼だわ」
確かにコンタクトを入れているようには見えなかった。それでも太陽に透けようが透けなかろうが、彼女の目はハチミツのような黄色に光っている。
彼女の目は決してこんな色ではなかったはずだ。
「どうしたの?」
僕達の様子が気になったのか雫ちゃんが首を傾げた。いやね、と千紗ちゃんの目のことを伝えようとして雫ちゃんに視線を向ける。そしてまた僕はぽかんと口を開け、雫ちゃんに顔を近づけた。
「湊くん……?」
「雫ちゃん」
「うっ、うん」
「髪の毛染めた?」
彼女はきょとんと目を丸くして首を横に振った。
その目と髪の毛は、黒というより、海のような深い青色だった。




