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変身しないで縺ゅj縺ちゃん  作者: 夜明
第2章 世間
39/99

第37話 ライオンVS人間

 開いた檻から出てきたライオンが目の前の鷹さんに襲いかかった。


「ひゃあ!」


 裏返った悲鳴をあげ、彼女は大きく仰け反る。ライオンの巨体は寸前まで彼女がいた空間をするりと抜け、僕達の目の前へ降りたった。

 うわぁ、と誰かが声をあげた。B級映画の吹き替えみたいに、気の抜けた悲鳴だった。その声が皆の意識を現実に引き戻す。青ざめた顔の人々はわっと蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

 肩を掴まれ、僕もハッと振り返る。真っ白な顔をした部長が見開いた目で僕を見つめていた。


「み」

「ぶちょ……」

「み、湊くん、逃げるぞっ」

「あ…………」


 僕は頷こうとして、ふと部長の背後に目を向け息を飲む。散り散りに逃げていく人々の中でライオンと目があったのだ。

 荒く波打つ人の中を、巨大な体が掻き分けて、こちらに歩いてくる。僕と部長は凍り付いたようにその場から動けなくなった。

 僕達の距離が三メートルも近付いたとき、ぐっと身を屈めたライオンの、ピンク色の歯茎が見える。


「何やってるの馬鹿!」


 横から声がして、僕と部長は勢いよく突き飛ばされた。

 倒れた僕達の頭上をライオンが飛び越える。濃厚な獣の香りがした。途端、ようやく追いついた心が恐怖にバクンと脈打った。

 唇を真っ青にしながら顔を上げた僕と部長は、僕達を庇い覆いかぶさる鷹さんの姿を見た。


「立って!」


 鷹さんは僕達の手を引いて立ち上がらせた。彼女の手は熱い汗で濡れていて、氷のように冷たかった。


「ま、待ちたまえっ」


 突然部長が叫び、鷹さんの手を振りほどいて駆け出した。彼の行動にギョッとした僕達が振り返れば、部長はまっすぐライオンがいる方向へと向かっているのだった。

 おかあさぁん。

 そんな声が聞こえて、僕と鷹さんは目を丸くする。部長が駆けていく方に、一人の男の子が倒れていた。まだ小学生くらいの子が一人、真っ赤な擦り傷を作った膝を押さえて、大粒の雫を両目に湛えて。

 部長はその子に駆け寄る。もっちりとした顔を大量の汗で濡らして。

 でも、部長は足が遅いのだ。

 大きく爪を振り上げたライオンが部長に飛びかかる。


「――――無謀すぎる、ぜっ!」


 僕の背後からぶわりと風を切って誰かが駆け抜けた。それが誰であるか認識するよりも速く、その人は部長の前に躍り出て、握っていた鉄パイプを思いっきり振りぬいた。

 ガキン、と凄まじい音がライオンの顔面を打った。バランスを崩したライオンは部長の真横を転がり、壁にぶつかってギャウと鳴く。

 弾かれた鉄パイプが空を飛び、地面に突き刺さる。その間に部長は少年の元に辿り着き、汗みずくの体で小さな体を抱きしめた。


 何も考えぬうちに僕は駆け出した。鷹さんが僕を止めるように伸ばした指が、服の裾を摘まみ、するりと抜ける。鉄パイプを引き抜くと、それは案外重かった。


「黒沼さん!」


 僕の言葉に彼はチラリとこちらを一瞥し、すぐに険しい顔をライオンに戻した。

 ジリジリと熱い太陽が彼の白い肌を焼いていた。その冷たい肌に汗が滲んでいるのがなんだか物珍しいと、現実逃避のように思った。


「何やってるんですかっ」

「こっちの台詞だ」


 彼は僕の手から鉄パイプを取ると、テニスラケットを握っているかのように軽々と上下に振った。その先端が僕の頭を軽く小突く。カァンと高い音が鳴って視界が僅かに揺れた。


「ライオンの写真が撮りたいのか?」

「え…………」

「この状況で、逃げることも思いつかない馬鹿なのかと言っている」

「っ」

「逃げろ。早く」


 ゾ、と血の気が引いた。僕を見る黒沼さんの眼差しがあまりに冷え切っていたからだ。

 さきほど喋っていたときのへらへらとした笑みは、まるで夢でも見えていたのかと思うほどすっかり失せていた。

 咎めるように踵を蹴られた。自分でも驚くほどに体が跳ねた。ド、ド、と怯えに喘ぐ心臓を宥めつつおそるおそる顔を上げる。


「ゴガウ」


 ライオンの血走った目と目が合った途端、息が詰まった。頭の中が真っ白になる。黄ばんだ牙からダラダラと垂れる涎が恐ろしくて仕方がなかった。

 周囲からとっくに人は失せている。残っているのは僕達だけだ。遠くから聞こえる悲鳴を聞きながら、僕達も急いでその声の方向へと走らなければならないのだと考える。

 だけど…………、


「に、逃げません」

「は?」

「まだ、部長とあの子が逃げてない!」


 黒沼さんがチラリと後ろを見る。部長は、固まる少年を抱きしめたままガタガタと震えていた。

 僕達が逃げたら、一番足の遅い部長が真っ先に捕らえられる。鋭利な牙と爪が柔い肉をズタズタに引き裂くことだろう。

 そんな光景、見たくなどないのだ。


「…………だったら」

「え? う、わっ」


 黒沼さんが僕に鉄パイプを放った。慌てて受け取った僕の手に、冷たい重みがズシリとのしかかる。


「一度決めたら背を向けるなよ」


 ガウ。と直後、ライオンが放った巨大な声が僕の心臓を打ち抜いた。

 巨大な体がまっすぐこちらに向かってくる。ドッと膨れあがった恐怖に涙が滲んだ。引きつった悲鳴を上げながら、僕は鉄パイプを構えようとする。けれど真横の黒沼さんが懐から銃を取り出し、その引き金を引く方が早かった。

 耳元で銃声が爆発する。


「うわあっ!?」


 弾丸はライオンの体に直撃した。しかし厚い皮膚には大した傷はつかず、それよりも銃声に僕が飛び上がる反応の方が強い。

 黒沼さんを見た僕は、その手に握られた銃と、その銃口から登る硝煙に目を丸くする。


「よそ見するな!」


 鋭い叱咤にパッと顔を戻す。目の前に迫っていたライオンの腕が、僕の腹をぶん殴った。


「おごっ」


 濁った声を残し、僕の体は容易く吹っ飛ばされた。宙を舞った体はそのまま地面に叩きつけられる。ダン、ドン、と地面を転がり部長達を巻き込んで止まる。

 湊くん、と鷹さんの悲鳴が聞こえた。それに答える余裕はない。胃の中身と大量の唾が混じった吐瀉物を吐き出し、ガクガクと身悶えた。

 咄嗟に突き出した鉄パイプに当たったから直接殴られたわけではない。致命傷ではないはずなのに、それでも体中酷い痛みだった。鉄パイプが曲がっている。相当の力で殴られたのだと理解し、じわーっと鼻に熱い汗が滲んだ。

 ライオンがこちらを睨む。部長と少年が悲鳴をあげた。僕は必死に力を振り絞って立ち上がるけれど、ふらふらの体で今にも飛びかかってきそうなライオンの攻撃を避けられるとは思えなかった。

 そのとき突然、横から飛んできた銃弾がライオンの眼球にぶち当たった。


「ギァッ」


 黄土色の左目がぷくっと膨らんだのが見えたかと思うと、次の瞬間赤い血が弾ける。ライオンは凄まじい絶叫をあげ左右に顔を振り回した。黒沼さんが銃を撃ったのだ。彼はまっすぐな目でライオンを睨みつけたまま動かない。


「二人とも!」


 ぐっと腕を掴まれる。顔を上げれば、険しい表情の鷹さんがそこにいた。彼女はまた僕と部長の手を握ってぐいぐいと先導して走る。よたよたと走る僕達を引っ張っていては走りにくいだろうに、彼女は今度は決して僕達の手を離そうとはしなかった。僕達から少し距離を取って、黒沼さんも銃を構えたままライオンから逃げる。

 真っ赤な舌から粘ついた涎を垂らし、片目のライオンが物凄い勢いでこちらに迫る。

 黒沼さんが数度引き金を引いた。重い音が響き、殺傷能力の高い鉛玉が獣の体に命中する。全て腕や胴体、足に命中していた。

 けれど激高した獣は止まることなく、牙が黒沼さんの肩を掠めた。


「ぐっ…………!」


 黒沼さん、という僕の叫びが空しく響く。ライオンの追撃を彼は大きく体を捻ることで避けた。荒い呼吸を繰り返す彼の肩からダラリと血が流れ、地面にしたたっていく。

 鷹さんは一瞬振り返ったものの、足を止めはしなかった。僕達はぐいぐい引っ張られる。先に見えてきたのはさっきの倉庫だった。鷹さんは一直線にそこへ向かい、出入口付近に倒れていた死体に気が付き悲鳴を上げた。部長も似たような声で叫び、慌てて少年の目を覆い隠す。

 鷹さんの顔は青を通り越して蒼白だった。薄い体がよろめき、今にもくしゃりと潰れてしまうのではないかと思った。だが予想に反し、彼女は意を決したように唇を噛み締め、僕達の体を突き飛ばすように倉庫へと押し込んだ。


「三人とも隠れてて。絶対、出てきちゃ駄目だからねっ」

「た、鷹さんはどうするっていうんだ」

「誰かがあの人を助けないと。一人でライオンを止めようだなんて、無茶すぎる」


 それはあなたが行っても同じだろう、と部長が叫んだ。僕も同意して大きく頷く。けれど鷹さんの真剣な眼差しを見ていると、今の彼女に何を言っても届きはしないと分かるのだ。

 ここからでも黒沼さんとライオンの姿は見えていた。彼は必死に銃を構え、ライオンに向かって銃弾を放っていた。きっと、獣がこれ以上僕達に近付かないように……。


「私は大丈夫だから。あなた達はここで隠れていなさい。いいね?」


 鷹さんは子供に言い聞かせるようにそう言った。実際、子供に言い聞かせているつもりだったのかもしれない。僕達は彼女よりも年下だから。年上としての責任感が彼女の恐怖心を上回ったのだろうと、真剣な眼差しから読み取った。

 それでも彼女の手は震えていた。氷のように冷たい指先が、爪同士をカチカチとぶつけている。


「……鷹さん、すみません!」

「わぁっ!」


 早口で謝罪をした僕は彼女の肩をぐっと倉庫に引っ張った。驚きを浮かべた顔が部長のお腹にぽよんとぶつかり、そのまま二人して床にひっくり返る。一瞬の隙をついて僕は倉庫の扉を閉めた。

 湊くん、と中から僕を非難する怒声が聞こえた。僕はそれを無視し、鉄パイプを持ってまた駆け出す。

 黒沼さんの背中が見えた。僕は彼に加勢をしようと必死に駆けた。だがもう少しで彼の元に辿り着くというところで、ライオンが大きく唸り声をあげ、彼に飛びかかったのが見えた。

 銃声が轟く。しかし銃弾はライオンの鼻先を掠めただけだった。ライオンは素早い動きで黒沼さんの背後に回り込み、爪でその背中を切り裂いた。


「あ」


 目の前で彼の体が崩れ落ちる。慌てて駆け寄ってその体を抱きとめたが、僕よりも更に長身の体はズシリとした重量でのしかかってくる。

 彼の服はぐっしょりと濡れていた。ふと見下ろした手の平が真っ赤に染まっていることに気が付き愕然とする。僕の手は黒沼さんの血に濡れているのだ。爪の間から指の股まで、真っ赤な鮮血がゼリーみたいにツヤツヤと照っている。

 ライオンが僕を見る。血でぬるりと汚れた爪と牙が艶めいている。僕は唇を噛みしめ、鉄パイプを大きく振り上げてライオンに突進した。


「あああっ!」


 振り下ろした鉄パイプはライオンの体に掠りもしなかった。俊敏に攻撃を避けたライオンはすぐさま僕に襲いかかる。地面を転がるようにそれを避け、また鉄パイプを振り回して獣を遠ざけようと奮闘した。

 黒沼さんを連れて倉庫に戻る。そのためには目の前の獣を追い払う必要があった。


 大体、猛獣と人間が戦ったって叶いっこないことは分かっていた。こんな鉄パイプ一つで敵を倒すことなどできない。既に腕はビリビリと痺れたような痛みに苛まれている……。

 普通ならとっくに逃げている。全員を助けられはしないと理解し黒沼さんを見捨て、僕達だけ逃げるしか選択肢はなかった。だけど僕は今こうして、頼りない武器一つだけでライオンと対峙している。


 無謀な勇気があるわけじゃない。僕に勝ち目があるわけじゃない。

 そう。ライオンに勝ち目があるのは、僕じゃない(・・・・・)のだ。


「あたしも、ま、ぜ、てっ!」


 ゴッ、とライオンの鼻面に踵が降ってきた。白いスニーカー、レモン色の鮮やかなライン。そこにライオンの顔からふき出した血が滑り、新鮮な汚れを塗り付ける。

 僕の背後から飛んできた千紗ちゃんはライオンに強烈なキックをかましたかと思うと、軽やかに着地して金髪を揺らした。


「面白い状況になってるなぁ」

「千紗ちゃん……っ」

「加勢してやる。後で、飯でも奢れ」


 彼女の陽気な声は、獰猛な獣を前にしても変わらなかった。ライオンは歯茎を剥き出しにしてゴルルと彼女に威嚇の声をあげる。

 けれど千紗ちゃんは怯まない。どころかライオンを真正面からじっと見つめ、大きく息を吸い込んだ。


「ゴガア」


 物凄い咆哮が空気をすり潰した。千紗ちゃんの声はとんでもない威力となって、僕とライオンもろともを打ち砕く。青空が揺れた気がした。ギーッと高い鳴き声がどこからか聞こえて、近くの木々から大量の鳥が飛び立った。

 千紗ちゃんは笑っていた。その唇がみるみるうちに裂けていく。真っ赤な切れ目から覗くのはライオンよりもずっと鋭い鋼鉄の牙。頬の肉が破け、そこから目玉がギョロリと覗いた。


「変、身!」


 彼女の体が膨れ上がる。布を裂くような音がして、一瞬で彼女の体は獣の姿へ変化した。

 太い腕がライオンを打ち抜く。あんなに頑丈だった獣の腹は一瞬でベコリとへこみ、鳴き声を上げて地面に突っ伏した。それでも起き上がろうとゴフゴフ息を鳴らすライオンを、千紗ちゃんは巨大な口でバクリと咥える。


「縺ッ縺」縺ッ繝シ」


 彼女はライオンを咥えたまま大きく顔を振った。そしてパッと口を離す。巨大な体はあっさりと吹っ飛び、木の幹にぶつかって大量の葉を散らした。

 ターッと勢いよく千紗ちゃんの口から血が流れていた。全てライオンの返り血だ。ふぅふぅ巨大な呼吸をしていた千紗ちゃんの体がみるみる縮んでいき、黒と金が混じった毛が滑らかな肌へと戻っていく。


 ライオンはもう動かない。それを見届けた僕は黒沼さんへ視線を落とし、その青白い肌色にゾッとした。血に濡れた服が馬鹿みたいに重い。

 僕は黒沼さんを担ぎ上げる。歯を食いしばって必死に歩き、ようやく倉庫に辿り着く。ノックの音におそるおそる扉が開いた。そこに立っていた鷹さんが僕にあっと声をあげる。


「……この馬鹿! 心配したんだから!」

「すみません……。それより、今は黒沼さんの手当てを」


 部長と鷹さんが慌てて棚を漁る。救急箱を発見し、包帯やら絆創膏を手あたり次第に彼の体に巻き付けていく。荒っぽい手当てだが血の勢いは少し弱まったようだった。急いで病院に連れていかなければならないけれど。


「どうなってるの?」


 ずっと怯えていた少年が純粋な疑問を口にした。声を涙に濡らして、彼は拙い声を震わせる。


「分かんないよ。なんでライオンが逃げちゃったの? この人死んじゃったの? さっき撃ってた銃って本物?」

「違うよ。大丈夫だ。この人は生きている。それにライオンももう……」

「そこに倒れてた人もライオンに噛まれちゃったの?」


 出入口に倒れていた死体のことだ。僕達は全員口を閉ざす。僕達だって少年と同じ疑問を抱えているのだ。ライオンが逃げた理由、ここに死体がある理由……。


「…………の」


 パッと鷹さんが視線を落とす。横たわる黒沼さんが呻きながら起き上がろうとしているのだった。僕も慌てて駆け寄って、起き上がろうとする彼を制す。


「黒沼さん、起きちゃ駄目だ。酷い怪我なんですよ!」

「の……乙女が」

「え?」

「あいつら……目的なんだ。俺はあいつらを…………」

「湊、今こいつに何言ったって無駄だよ。朦朧としてる。何言ってるのか自分でも分かってねえだろ」

「そうだけど、でも」

「…………黎明の、乙女、が」


 その言葉を聞いた瞬間、僕と千紗ちゃんはバッと黒沼さんの顔を凝視した。

 熱っぽくうなされる彼の口からぶつぶつと言葉が零れている。ほとんど聞き取れない。けれどその中の『黎明の乙女』という言葉だけはハッキリと耳に届いた。

 おい、と千紗ちゃんが黒沼さんに手を伸ばす。その指先が彼の頬に触れる寸前、ガッと勢いよく彼の手が千紗ちゃんの手首を握りしめた。


「…………あ?」


 ぼんやりとしていた黒沼さんの目に光が戻る。彼はそのまま千紗ちゃんを見て、目をぱちくりさせながら手を離した。汗ばんだ首筋に黒髪が張り付いている。彼はそれを鬱陶しそうに払いのけた。


「俺、何か言ってた?」


 シンと場は静まり返る。優しい口調に反して、その声音には圧があった。


「『黎明の乙女』って言ってました」

「ちょ……鷹さんっ」


 だけど空気を読んでいるのかいないのか、鷹さんがまっすぐ黒沼さんに告げる。彼は一瞬だけ片眉を持ち上げた。


「宗教団体に何の用があるんですか? それに、あなたが持っている銃は何? ……あなたは一体、何者なの?」

「自分の身分を明かさずに人のだけ聞こうなんて、虫がよすぎるぜ」

「確かにそうね。ごめんなさい。私はホークス編集プロダクションの鷹めぐみ。まだ新人ですけど立派な編集者。今日は取材としてここに訪れ……」

「鷹さん!」


 僕は慌てて彼女を彼から引き剥がす。何よ、と彼女は不満げに唇を尖らせた。黒沼さんがそれを見て小さく笑う。大怪我を負っているというのに、彼はちっとも苦しむ素振りを見せなかった。


「そ、そんな簡単に素性を喋らない方が……」

「なんで? 自己紹介しただけでしょ?」

「ま……待ちたまえよ。彼は銃を持っていたな? しかし、その容貌……。失礼ながらその銃は正規に登録されているものなのだろうか……? 違法に所持しているものなのではないか? とすると、つまり、ええと、この方は……や、や、やく、ヤク」

「えっ! お兄さん、ヤクザなの!」


 鷹さんの素っ頓狂な声に黒沼さんは大声で笑った。鷹さんはみるみるうちに顔を青くし、「ギャーッ、殺さないでぇ!」と悲鳴を上げて両手を合わせる。それを見た黒沼さんは俯いて肩をぶるぶると震わせた。


「妙に気が抜ける人達だな……。悪いけど、笑っている場合じゃあないんだ。行かないと」


 黒沼さんはゆっくりと起き上がろうとする。どこへ行くんですか、と僕は咄嗟に彼の肩を押さえた。


「ライオンを退治しに行く気ですか? 大丈夫です。ライオンはもう、引っくり返って動かなくなっていましたから」

「本当か?」

「はい。……ええと、上手い具合に、電柱にぶつかってくれて。だからもう暴れる動物はいないんです。救急車を呼びますから、寝ていてください」

「いいや。まだだ」


 黒沼さんは首を横に振り、僕の手を払う。緩慢に立ち上がった彼はゆっくりと出口に向かい、扉に手をかけたところで一度振り返る。


「俺が出て行ったらすぐ扉を閉めるんだ。絶対に開けるなよ」

「何で? もう出てもいいでしょう? ここ蒸し暑くて喉乾いちゃって……。それに、血の臭いで頭がくらくらする」

「まだだから」

「さっきからまだまだって、何が?」

「まだ、脱走した動物がいる」


 どういうことだ、と声に出したのはそれまで黙っていた千紗ちゃんだった。彼女は一歩離れたところから黒沼さんをジロジロ見ていたが、一言も話しかけようとはしていなかった。

 黒沼さんが彼女を見る。千紗ちゃんはビクッと肩を揺らし、キャップを目深にかぶった。


「…………黎明の乙女と言われる宗教団体が、今日この敷地内で何人も目撃されていた」

「それは、あれかね。変なチラシを配っていた……」

「そうさ。だけどやってるのが勧誘活動だけだったら、俺が来る理由なんてない。あいつらが薬を撒いているって噂があるから、ここに来た」

「薬ッ?」

「薬を撒かれると困るんだよ。色々と……。それに噂はもう一つ。『今日、黎明の乙女が、この敷地内で何か(・・)を行う』っていうもんがあった」


 何か、と黒沼さんは笑うようにその単語を呟いた。何か。何か。と何度も何度も同じ言葉を繰り返す。あまりにアバウトな言葉は、けれど彼の湿った声として吐き出されると、妙にゾクリとした響きに変わる。


「『何かをする』。それが何なのかは、実際に見るまで分からなかった。薬の売買のことを指しているのかと思った。人身売買でもすんのかな、ともな。さっきここで死体を見つけたときは、ああこれのことか、なんて思ったよ。…………だけど多分、全部違った」


 黒沼さんは溜息を吐き出した。それは青白い紫煙の幻覚となって、彼の体にまとわりつくようだった。重く冷たい、苦い香り。

 ふと、僕はポケットを探った。さっきチラシを突っ込んだままだったのだ。くしゃくしゃになったそれを広げ、改めてその文面を読む。

 『動物達を牢獄から救おう』……。


「あいつらがやろうとしていることは動物の解放だ」


 言いながら黒沼さんは扉を開けた。外の光景が僕達の目に飛び込んでくる。

 倉庫の扉の前を、キリンが横切った。

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